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感情最大の敵は親である

「————お前らさ、俺ん家に来過ぎじゃねーかい?」

 太知に突然「アタシをVチューバーにしてくれ」と言われたのが月曜日。一昨日のこと。

 そして、昨日。太知のコミュ障ぶりが露呈して、それを改善するための特訓をしてみた。

 

————そしてさらに。本日もまた、太知と柊木の二人は我が家へと来ている。そう、三日連続で、だ。

普通、いくら親しい友人だったとしても、他人の家に三日連続でなんて行かないだろう。

 しかし俺と太知らは「親しい友達」ってわけではない。なんなら異性ですらある。

 …………。

 異性の家に三日も、しかも連続で遊びに来る女の子は如何なものか。ちょっと、いやかなり倫理観がぶっ飛んでるかもしれない。

「まーまー、いいじゃん! 三千喜君だって、自分の家に女子が居るのは嬉しいでしょ?」

「いや全く。むしろ心配になってくるんだけど」

「……あれ、思ってたんと違う。ま、いっか!」

 うん、やはり何かしらがぶっ飛んでいるのだろう。感覚が狂ってしまったようだ。まともに会話できなくなってるじゃねーか。

「真面目な話を言うとね? まともにウチラが集まれる場所って三千喜くん家しかないんだー。迷惑はかけないからさ、だから許して?」

「いや、まぁ……。困りはしてないから別にいいけど————」

 三日も連続で来られるとは流石に思ってなかったのと、三日も連続で来ると流石に勝手が分かってくるらしい。我が物顔で————とまではいかないが、かなりくつろいでいる。

「そう言ってくれると助かるよー。ウチは姉弟が多くて個人の部屋なんてないし、うるさいし、とても落ち着いて会話なんて出来ないからさー」

「へぇ……」

 そんな柊木に俺は半分上の空で返しながら、やけに大人しい太知の方を見ていた。

「……じゃあ、太知の家は? 柊木の家がダメでも、太知の家はいけるんじゃねーの?」

 ————と、俺は太知に向けて聞いた。

 それに気づいた太知はこっちを見て、やっぱり一言も喋らないまま一瞬固まったかと思えば「フイっ」と顔を逸らす。

「…………?」

「あ、あー……。姉御の家はお母さん厳しいから。多分ウチらが家に上がったら怒られると思う————」

 俺の質問に答えなかった太知に変わるように、柊木が答えてくれる。

にしても、今日の太知はなんか変だ。学校で授業を受けていた時から一言も話しかけてこない。

ひょっとして俺は、知らない内に嫌われたのか? と思ったが、家にはちゃんと来ている。ということは嫌ってるわけじゃないのだろう。

そして表情もなんか変だ。なんというか……なんとも言えない表情をしている。

割合で言ったら、「照れ一、困惑一、期待一、そして誤魔化しが七」といったところだろうか。とにかく、色んな表情が混ざって何を思ってるのか読み取れない。

唯一分かるのが、頬を紅潮させているということくらいだけだ。

そんないつもと違う太知を不思議に思いながら、後ろ髪を引かれるように視線を外す。

そして、その視線を柊木の方へと向けた。

「厳しいんだ? 太知のお母さんって。なんか、そんなイメージ湧かないけどな」

 こんな校則違反ガールを認めてるくらいには、寛容なお母さんなのだろうと思ってた。厳しい家庭であれば、太知のような「歩く校則違反」になどなりそうも無いが。

「そりゃあもう! めっちゃ厳しいよ! ウチ、前に姉御の家に遊びに行ったけどめっちゃ怒られたもん! 特に何か迷惑かけた訳じゃないのに!」

「なるほど……」

 柊木の話を鵜呑みにするのは違うと思うが、少なくとも全部が嘘ってことではないだろう。

 となると太知のお母さんは、遊びに来た子供の友達を叱る訳か……。

 面倒くさそうな人だな。何がなんでも会いたくない。

「————て、そんなんでVチューバーとして配信できるのか? 流石に、俺ん家で毎回配信すんのは無理だぞ?」

「それはほら……姉御が上手い具合に隠せばいいかなって」

 無理じゃねーかなぁ、それは……。

 そもそも配信活動なんて、コソコソと出来るようなもんじゃないだろうし。仮にバレないように活動することが可能だったとしても、太知にそれを出来るとは思えないんだが。

 今も呆けているのか、心ここにあらずな表情で虚空を見つめてる太知には。

 ————いやでも、まぁ……そうしてもらわないと困るのは俺か。流石に、配信の度に太知が俺の家に来るのは勘弁願いたい。

「ま、まぁそれはその時に考えよう……。それで、今日は何をするんだ?」

「————————!」

 俺が柊木にそう聞くと、なぜか太知が「ピクッ」と体を震わせ反応した。しかし、それでも結局一言も発さない。相変わらずなにか変だ。

 だが、「何をするのか?」という俺の言葉に反応した。……ということは。

 きっとおそらく、昨日のホラゲーが相当効いたのかもしれない。

 というのも昨日、何とか最後までクリアして、ほとんど悲鳴だが太知も意外と喋れていた。

だから、明日からの特訓はホラゲー実況でいいんじゃないか? と話が纏まろうとしたのだが。半泣きで縋るように「ホラゲーだけはやめてくれ」と太知が懇願して、結局新しい特訓方法を模索することになったのだ。

とはいえ、何も方法が思い浮かばなかったらホラゲー実況をやるしかない。

つまり、今日の太知がなんか変なのは、「またホラゲーをやらされる」と気が気でないからなのかもしれない。そう考えれば説明はつく。

「……安心しろよ、太知。流石にホラゲーはもうやらないからさ」

「————……え?」

 太知の昨日の嫌がり方を見たら、流石に「またホラゲーをやる」とは言えない。だから安心させようとしてそう言ったのだが、太知の反応は俺が思っていたものと違った。

 何故か首を傾げて、困ったような視線で俺を見ている。

 …………?

 何かおかしなことを言っただろうか。え、ホラゲーをやるのが嫌だったんじゃないの?

 そんな俺の疑問は、すぐさま柊木の口から答えが言われたことにより解決する。

「ふっふっふー! 実はもう既に姉御には話してあるんだよね! 今日の特訓内容」

「え? ————なんだよ、そういうことなら早く言ってくれって」

 太知の様子がいつもと違うことを気にかけて損したじゃないか。てっきり、またホラゲーをやることになるかもしれないことを気に病んでるとばかり思ってた。

 だけど、既に今日の特訓内容を知っているなら気に病むことも無いか……。

 ————え? じゃあなんで太知は呆けてたんだ?

「いやー、ごめんごめん。三千喜君に伝えるのすっかり忘れてたんだよねー」

「……おい」

「もうちょっと焦らしたかったけど、そんなに引っ張るものでもないし言っちゃうね? というわけで、今日の特訓内容はー……ずばり、耳かきです‼」

「————————————————」

 …………み み か き? 

「……は?」

 再起動をかけ、何とかフリーズから回復した脳みそを再び動かして出てきた言葉がたったそれだけ。それほど、柊木が口にした言葉は衝撃的だった。

「なにを……言ってんの? お前は」

「え⁉ まさか三千喜君、耳かき知らないの⁉」

「んなわけあるか‼ 耳かきぐらい知ってるわ! そうじゃなくて、どうしてそんな考えに行き着いたかって聞いてんだよ!」

 当たり前だが耳かきくらい知っている。というか、知らない人間なんていないだろう。

「あ、あー……なんで耳かきが特訓になるのかってことね? あー、びっくりした」

「普通それしかないだろうが。……というか、太知はこれを聞いて承諾したのかよ⁉」

 既に知っていた————ということは、今日の特訓内容が「耳かき」だということを知っていながら俺の家に来たことになる。

 つまり、太知は耳かきで特訓することを了承したという訳だ。そりゃあ上の空にもなる。

「ま、まぁ落ち着いて? これにはちゃんと理由があるんだから。————三千喜君は「ASMR」って知ってる?」

「……それ、どっかで聞いたことあるな。たしか音を流す動画だっけ?」

「そうそう! もーちょい細かく言うと、ある特定の音を聞いて頭がぞわぞわする反応のことらしいんだけどね」

 なんだそりゃ、そんなもんやって平気なのか? 

 今のを聞いた限りじゃヤバい人がやるヤバい動画にしか聞こえないんだが。

「————それとVチューバーに何の関係があるんだよ?」

「それがね、今流行ってんのよ! VチューバーのASMRが! そりゃあもうびっくりするくらいで!」

 と、少し興奮気味に柊木は言い切ると、スマホを操作して動画アプリを立ち上げ俺に見せてきた。

 その見せられた画面はどうやら検索結果のようで、柊木は「ASMR]というワードで検索したらしい。

 だというのに、あまりVチューバーに詳しくない俺ですら知ってるような、有名Vチューバーの動画が数多く上がってる。

「————マジか。凄いなこれ……」

 しかも、そのほとんどの動画が再生回数百万越え。

にわかには信じがたいけど、どうやらASMRは本当に人気のジャンルらしい。そしてしっかり、その検索結果の中に「耳かき」の文字も見える。

「でしょでしょ⁉ もはや今の時代、VチューバーはASMRを出来ないとやってけないって言っても過言じゃないよ!」

「たしかに……。それで、特訓に「耳かきASMR」という訳か……」

「そーゆーこと! 分かってくれて嬉しいよー!」

 最初に聞いた時は頭が湧いたのかと思ったが、いざこうして知ってみると理にかなっている気がする。でも、何も問題がない訳じゃない。

「ASMRがいいのは分かったけどさ……これ、ただ耳かきするだけだよな? それだとトーク力を上げる特訓にはならないんじゃないか?」

 サムネイルを見る限り、ただ本当に耳かきをするだけなのだろう。ということはつまり、一言も発さないということになる。耳かきなんて実況するもんでもないし。

 となると、太知のトーク力を上げる特訓にはならないんじゃないかと思ったのだが。

「そー言うと思ってましたー! でも大丈夫なんですねー! ってわけで聞いてみて?」

 そう言って柊木が一番上に出てきた動画を再生し、慣れた手つきでシークバーを動かす。どうやら、リプレイ回数が多いところまで飛ばしたらしい。

 そしてスマホの音量を最大まで引き上げた。途端、部屋の中に耳かきの環境音が流れ始める。

「なんか、変な感じだな……」

 突如として部屋に鳴り響く、なんとも言えないその音に感想を言うと、柊木に「しー!」と、止められてしまう。

 それを怪訝に思いながらも口を噤むと、いよいよそれが聞こえてきた。

〈ポカポカー……って。嫌なものは全部、忘れちゃおうね〉

「…………⁉⁉⁉」

 囁き声で言われたその言葉を聞いた瞬間、体に電流が奔ったようにぞわぞわした。

 だがしかし、悪寒とか鳥肌が立つとかそういうものではない気がする。なんとも言葉にしにくい、形容しがたい謎のぞわぞわ感だ。

「————ね? 分かったでしょ?」

 そんな俺の反応を見た柊木が、したり顔で俺の方をニヤニヤと見る。

「あぁ……。やばいな、これ————」

 もう少し聞いていたら間違いなく癖になりそうだ。おまけに音だけで楽しめるのもいい。色が見えない俺にとって、ピンポイントで刺さってくる。

 これを太知がやるのか……出来んのか? いや、それを出来るようにするための特訓か。

「なるほどなぁ……ASMRの凄さは分かったよ。これはヤバいわ。出来るようになっとくべきだと思う」

「でしょ⁉ でしょ⁉」

 基礎であり応用というか、イラストレーターにおいての模写とでも言うべきだろう。やっておいて損はない、というよりやらないと損ってレベルだ。

「————そういうことなら、俺は近くの公園かなんかで時間を潰してくるよ。終わったら連絡してくれ」

「……え? なんで⁉」

 二人のことを気遣って、俺は家に二人だけにしてあげようと思ったのだが。何故か柊木に止められてしまった。

「なんで————って……俺がいたら邪魔だろ?」

 これからすることは耳かきであり、やましいことではない。そんなことは分かっている。

 ただ、耳かきをするということは必然的に膝枕をするということであり、床に寝そべるということだ。いくらやましいことではないとはいえ、あまり人に見られて嬉しいものではないはず。

 そんな俺の思いやりを柊木は察したのだろう。なんとも言えない複雑な表情をした後、長いため息をついて額を押えた。

「三千喜君……あの動画の視聴者ってどんな人だと思う……?」

「……高校生から三十代くらいまでだろ、多分」

「————じゃあ、性別は?」

 性別? は、男女どっちも同じくらい見に来るだろう。耳かきだし。

 強いて言えば、さっきの動画は途中で女の子の声が入ってたから、その声目当てに男の数が少し増えるくらいだろうか。

「半々くらいだろ。そんな偏りがあるようには感じなかったけどな」

「————ぶぁっかもん! 男が大半だから‼」

「いや……いやいやいやいや。んなことねーだろ⁉」

「あるから、そんなこと! 男の声が入ってるやつは女性用、女の声が入ってるやつは男性用! これ常識だからね⁉」

「えぇ…………」

 知らねーよ、そんな常識。勝手にでっちあげるんじゃない。

「とにかく! ウチが姉御に耳かきして貰うんじゃだめなわけ‼ 分かる⁉」

「————く! お、おい太知! 柊木があんなこと言ってるけど、お前はそれでいいのか⁉」

「うん……」

「え————っ? いいの……?」

 思いもよらない太知の返答に、俺がもう一度聞き返すも太知は頬を赤らめて頷いた。

「ほ、ほらほらー。姉御もいいって言ってるんだし、ね? それに、ウチが姉御に耳かきして貰ったら三千喜君がカンペ出さないといけないんだよ? そっちの方が難易度高いと思うけど?」

「うぐ……っ」

 た、たしかにそれなら耳かきをして貰ってる方が楽か……。動画で流れてきたようなセリフを考えるのはきつい。正直言って公開処刑レベルだ。

 女子がそういうセリフを言ったり考えるのは別にいい。だけど男の俺がやったら目も当てられない。そういう意味では大人しく耳かきを選んだ方がいいのだろう。

 だがしかし! 耳かきをして貰うということはつまり、膝枕をしてもらうわけで……!

 しかも太知ときた。中身はともかく、見た目は超絶美少女の太知だ。

 昨日もくっついたんだし、今更と言えば今更かもしれないが、美少女に膝枕してもらうのは今の俺にとってかなりハードルが高い! 特に「してもらう」のが敷居を上げている。

「太知————————」

 結局俺は、自分の頭の中で答えを決め切ることが出来ず、助けを求めるように太知の方を向いた。出来ることなら断ってくれと思って。

 今の太知は危険だ————危険すぎる。

 普段はヤンキーという呼称がふさわしすぎるほどに荒々しいくせに、今日に限って大人しい。そのせいで、太知のことを完全な美少女としてしか見れない。そんな太知に膝枕されようものなら、理性が崩壊するのは待ったなしだ。

 しかし、俺と太知はあくまで友達————いや、協力者でしかない。太知がVチューバーになるのを手伝う、ただの協力者。そんな……恋仲とかそんな関係になるべきじゃない。


 ————のに。

「……アタシに耳かきされるの……嫌か————?」

 潤んだ瞳で、上目づかいで気遣うようにそう言われたら————。

 俺は「お願いします」と答えるしか出来ないじゃないか。


   ◇


 あぁ……天国はここにあったのか————。今はただ、全てがひたすらに心地いい。

 柔らかく、それでいて程よい反発感のある枕。甘い匂い。耳に当たる指の感触。

 時々顔にかかる、甘い吐息……。それら全てが、全力で俺を睡眠へと誘っている。

 しかし俺は、眠ることに抵抗しようとしている訳じゃない。

 目を閉じてしまうほどリラックスしていて、それでいて今の心地よさを噛みしめる、夢心地の浮遊感。

 思考も邪念も本能も、全てが等しく無になって、代わりに安らぎだけが俺の中にある。

「どう……? 気持ちいい————?」

「あぁ————めっちゃ……。めっちゃ気持ちいい……」

 自分でも聞いたことのないくらいふやけた声が出たが、そんなこと気になりもしない。

 至極極楽。天国は美少女の太腿の上にあったのだ。

「————そ、そーやの耳って、結構きれいなんだね……」

 と、俺が四肢を頬りだして極楽を噛みしめていれば、時折太知の恥ずかしがっているような声が聞こえる。

 それもそのはず。今の太知は、柊木によって強制的に口調を矯正されているのだ。普段の太知であれば、俺のことを名前でなんて絶対に呼ばないだろう。

 故に恥ずかしいのだろうが……それもまたいい。なにかこう、恥ずかしがりながら、普段しない喋り方をする所に新鮮味を感じる。ギャップ萌えとでも言うべきか?

 しかし、そんな思考も数秒で泡となって消えていく————。

「ふーー……」

「あ、それ————。それめっちゃ気持ちいい————」

 俺の耳に向かって優しく息を吹きかけた太知に、俺は無自覚にも「もう一度やって」と口に出していた。

 もはや今の俺は思考していない。理性なんてあってないようなものだ。

 ただ本能的に、心地よさだけを求めている。耳かきをしてもらう前、無駄に拒否していたのがバカらしいと思えてしまうくらいに。

 

なぜ俺は、こんな心地のいい体験を頑なに拒否しようとしたのだろうか。控えめに言って最高じゃないか。半ば強引に話を進めてくれた柊木に感謝しないとな。


 そんな気持ちを最後に、俺の意識は次第に溶けていき————。

「————ねぇ、そーや……」

 ほぼ消えかけの意識の中で、天使の羽音が聞こえた気がした。

「ん…………」

「————アタシのこと……好き……?」

「す————き……」

 辛うじて聞き取ることの出来た「すき?」という言葉に、好きと答える。

 こんな心地のいい体験なら、一度と言わず毎日したいくらいだ。

 

————そう思った時には、徐々に薄れていた俺の意識は天に昇っていた。


   ◇


「————おはよーございまーす!」

「…………」

 次に俺の意識が戻ってきたのは、そんなやかましい声が聞こえた時だった。

「早く起きてよ、三千喜君ー? 姉御が足痺れちゃったってー‼」

「んぁ————————」

 誰だ、うるさいな。もう少し寝かせてくれよ。せっかく気持ちよく寝てたってのに。

「はーやーくー! 起きろっ‼」

「あぁ…………」

 にしても、誰かに起こされるなんて随分と久しぶりな気がする。うざったいはうざったいのだが、どこかちょっと温もりみたいなのを感じて、嫌がるにも嫌がれない。

 まぁ、それはそれとして。もう少しだけ、この寝心地のいい枕を味わいたい、

 そう思って、俺は自分の頭の方へと腕を動かした。

「ひぃ————————ッ⁉」

「おわっ⁉⁉」

 だが、枕に触れた瞬間、奇怪な悲鳴が頭の上で聞こえ、同時に枕が動いた。

 ————ん? 枕が動いた?

「あ……太知————。ごめん」

 枕が勝手に動いたことに驚き、微睡みの中にいた俺の意識は一気に覚醒する。

 そうして寝ぼけ眼であたりを見渡せば、恨めしそうに俺を見ながら自分の足を擦る太知の姿があった。

「いったい…………」

「あーあー。三千喜君、これはあんまりだよー。姉御がせっかく三千喜君のために頑張ってたのに」

「悪い————てか俺、寝落ちしてた……?」

 いったい何時頃に意識が消えたのか、徐々に鮮明になってきた目であたりを見渡すと、部屋の電気がついていた。

 たしか、耳かきを始めた時は電気をつけていなかったはずだ。

「えぇ、そりゃあもうぐっすりと‼ 姉御の膝の上で気持ちよさそうな寝息を立ててたよ?」

「————マジか。ちなみに、どんくらいの時間寝てた……?」

「んー、ざっと一時間半ってとこかなー」

 一時間半……。その間ずっと、太知は正座した脚の上に俺を乗せてくれてたのか。

 ————それは足が痺れて当然だ。

「ありがとう、太知。おかげでよく寝れたよ————」

「————っ‼ ……うん、まぁ……どういたしまして————」

 寝起きなのに不思議と気怠さを感じることなく、俺は座り直しながら太知に感謝を伝えた。

しかし、それが恥ずかしかったのか太知は赤らめた顔を逸らしてしまう。

「————? もしかして俺、寝てる間になんかした……?」

「んー? どうだろうねー? 自分の心に聞いてみろよー!」

 ニマニマと隠し切れない笑いを顔に湛えて、柊木が冗談とも本当とも取れない返事をする。

 そんな柊木にこれ以上聞いても無駄だと判断し、太知へと視線を向けるが逸らされた。

「————え?」

 太知にも相手にされず、困り果てている俺に「仕方ないなぁ」と柊木が口を開いた。

「まぁ、ウチから一言だけ言うなら……ご馳走様でした‼ って感じかな」

「……え⁉」

 ご馳走様でした————って何⁉ 俺は一体何をやらかしたんだ⁉

 怖い……とてつもなく怖い! 自分の意識がなかった間に何が起こったのか、想像することすら出来ないのが余計に怖い! 

「まー、とにかく。三千喜君が寝てる間に姉御と話したんだけど、ちょっとずつトークのコツ掴んだって!」

「お、おう……それはいいことじゃん」 

 危ない、完全に今日の本題を忘れていた、熟睡してすっかり忘れていたが、今日も太知のトーク力を上げる特訓をしていたのだ。

「……ん? てことはこれからも耳かきASMRをやってくってこと?」

「そうそれ、ウチもそれがいいかなーって思ったんだけど、姉御は変えたいって言ってて。……ですよね? 姉御」

「うん————その、今日は茜に考えて貰った言葉を言ってただけだから……。その、やっぱり自分で何を言うか考えられるようになった方がいいと思う————」

 さっきまで顔を赤らめていたかと思えば、今度はやけに真剣な表情で太知は言った。

「それはまぁ……そう出来れば一番いいけどさ」

 だが、俺は別にそこまで無理する必要がないとも思った。これは決して、「もっと耳かきをして欲しいから」とかそういう理由では無く。

 たしかに、太知が一人で考えて喋れるようになることに越したことはない。ただ、何事にも慣れは必要だ。

 成果が出ないことに焦って、慣れる段階を飛ばしてしまえば挫折するしかない。そして、今の太知からはそんな「焦っている」雰囲気をどこか感じるのも事実。

 手助けらしい手助けが出来ていない俺だが、ここまで一緒にやってきた以上、太知に途中で諦めるなんてことはして欲しくない。

 ただ、慣れが必要とはいえいつまでもそれに甘えている訳にはいかない。慣れたことに満足して立ち止まっているようじゃ、結局そこ止まりにしかなれない。

 今の太知は、いったいどっちなのか……。

「そのさ……そんなに焦る必要はないんじゃないか? Vチューバーになるのに年齢制限なんてないだろうし————それにほら、俺だってまだ色が見えてないわけだしさ……」

 俺がそう言うと、太知は俯いて暫く黙り込んだ。多分、俺の言ったことを自分なりに考え直しているんだろう。

「————でも、やっぱりアタシは今がいい」

 そして顔を上げて、決意に満ちた表情でそう言った。

そんな太知に、なぜか俺の胸が痛む。

「……あ、こ、これはその、そーやに急げって言ってるわけじゃなくてだな⁉ アタシは色が見えなくなったことなんてないし、治るまで待つって言ったのはアタシだからそれは待つんだけど————」

「……それは分かってるよ」

「そ、そっか————。そ、それで……その。Vチューバーになりたいって言ったのはアタシじゃん? そのアタシがそーやのことを言い訳にして、今の自分で満足するのは違うと思うんだ……」

 それを聞いて俺の胸がまた、今度は一際強く痛んだ。

 その痛みが、否応なく俺に思い知らせる。「お前はいつまでそうしているんだ」と、語りかけてくる。

「なんで……なんでそう思ったんだよ。今の自分で満足するのは違うって————」

 それは、俺が太知に抱いている僻みのようなものなのだろう。聞いたくせにその答えを聞きたくなくて、吐き捨てるようにそう言った。

 だけど、それを聞いた太知は一瞬不思議そうな顔をしてから、

「————アタシが、今のアタシから変わりたいと思ったから」

 前髪で目を隠した俺に、太知は目を逸らすことなく真っ直ぐにそう言った。

 一切の迷いも照れも無く、真っ直ぐに。

「————あぁ。そうか……」

 つくづく俺は、ヤンキーという存在が苦手みたいだ。

 バカで考えなしで暴力的で、何かあればすぐ拳に訴えようとする癖に。その感情は眩しいくらい真っ直ぐなんだこいつらは。

 いや……違う。バカで考えなしなんかじゃない。

 自分の夢や目標に対しても真っ直ぐに進んでいける太知みたいなやつを、俺が勝手に僻んで「もっと利口なやり方があるだろ」とバカ呼ばわりしてるだけじゃないか。

 ————クソダサい。みっともねーわ。勝手に上だと思ってたのが恥ずかしい。


 自分に腹が立つ。


「なぁ、太知。……お前さ、具体的にはいつ頃までにVチューバーになってたいんだ?」

「え……っと。そうだな————二年の夏休みにはなりたいって思ってたから……」

「……てことは、あと三カ月だな」

 三カ月……それだけあれば十分だ。

「そ、そーや? 急にどうしたん……」

「三か月後の八月! それまでに色を見えるようにして、お前のモデルを描く!」

 俺が嫌いだったのは、ヤンキーでも自分の描いたイラストでも、ましてやアイドルでもなかったらしい。

 一番嫌いだったのは自分自身だ。

「————⁉ それって…………!」

「期待して待っとけ! ————俺の最高傑作を描いてやる」

 太知に向けて人差し指を突き出し、高らかにそう宣言した。

 そして、それを聞いた太知の表情が見る見るうちに明るくなっていく。

「————分かった! 待ってる!」

 俺は極度のめんどくさがりだ。何かと面倒事に巻き込まれれば、すぐに楽な方へと逃げる。自分の目標でさえ、簡単に投げ出せてしまう。

……そんな俺が、簡単に変えられない自分を変えるのは無理かもしれないが。

 

 変わろうとしてるやつの……太知の手伝いくらいは出来るはずだ。

 いや、手伝いたい————と、そう思った。


   ◇


 その日から、早いものでもう一週間が経っていた。

 その間、色が見えるようになるなんてことは無かったけど、液タブに向かい合う日々を送り続けた。

 当然、太知と柊木もVチューバーになる為に、あれやこれやとトーク力を上げる方法を模索しては、片っ端から実践していった。————なぜか、わざわざ俺の家に来て。

「……やっぱり見えないか————ッ」

 そうして、今日も書き上げた線画に着色をしようとして行き詰まる。この一週間、線画を描いては色が見えず行き詰まるの繰り返し。

 モデルではなく普通のイラストを描いているのだが、全く進展しない。未完成という名の線画だけが、データとして増えていくだけだ。

 ここまで何の手掛かりも無いと、流石に気が滅入ってくる。

 ————だが。

「そうです姉御! そういう感じです!」

「なるほど————なるほどな! この感覚か!」

 部屋に一つしかない、一人用にしてはそこそこ大きいデスク。その上に乗せた液タブに向かう俺の後ろから、時々こんな風に嬉しそうな声が上がる。

 この一週間出しっぱなしにしてあるちゃぶ台で、太知と柊木が特訓中なのだ。

 どうやら最近は、その日一日の出来事を日記として書き留め、それをトークとして話す————ということをやってるらしい。

 それがどれくらい功を奏しているかは……まぁ、二人の反応を見ればわかる。

「いい感じですね、姉御ー! このまま行けば、あと一カ月くらいでVチューバーとして十分やっていけるくらいのトーク力になりますよ!」

「ほ、本当か⁉ じゃあもっとやろう!」

「いえ、いけません。焦りは禁物です! ちゃんと一つ一つものにしていかないと! それに、油断するとすぐ口調が戻ってますし」

「そ、そうだ……そうだね————」

「ん、その調子です!」

 どうやらあっちは順調らしい。俺ものんびりはしてられない。

 ————のだが、なぜ色が見えないのかの理由すら分からない。

「……詰んでねーか? これ————」

 ネットでも調べてみたし、眼科にも行ってみた。

 だけど、ネットに載ってる症状はどれも若干違うものばかりだし、眼科の先生も俺の症状を聞いて首をかしげながら薬を処方するだけだった。

だから案の定、目薬を差しても効果が現れることはなく————。

「あぁぁぁ、くっそ! どーなってんだよ俺の目は‼」

 こうして怒りの咆哮を上げる日々が続いている。

「そ、そーや? 気分転換した方がいいんじゃないか?」

 そんな俺を気遣って太知が声を掛けてくれるのだが、あんまり効果は無い。というか、気分転換とは具体的に何をすれば気分転換になるのだろうか。

「気分転換ね……気分転換————————ぬうぅぅぅん」

 もはや困り果て過ぎて、自分でも意味の分からない呻き声を上げるほどに参ってる。

「————て、そういえば茜は時間大丈夫なのか?」

「……あ、やべ。ナイスです、姉御。助かりました」

「————ん? 柊木きょう予定あったの?」

「そーなの。実は親に弟のお迎え頼まれちゃって……」

「ほへー、行ってらー。……てことは、今日はもう解散?」

「そうだね、そうなるかなぁ……。あ、じゃあ三千喜君さ、ウチの代わりに姉御の家に行ってくれない?」

「————はい?」

 ……いま、なんと仰いましたか?

「いや、最近ね? 姉御のトーク力も上がってきたし、パソコンとかの使い方も一通り覚えて簡単な動画なら一本作れるから、もうここで使うことは無いかなって」

「だから、近いうちにアタシん家にもっていこうって話してて————」

「————あー、そういうことか」

 俺が全くの進展なしだから忘れかけていたけど、太知はめっちゃ成長してるんだ。

 柊木に教えて貰う必要がないのであれば、ここに置いておく必要はない。太知の家に持って行っておけば、一人の時でも特訓できるという訳か。

「それに、姉御の家めっちゃ凄いから! 多分、気分転換にもなると思うよ?」

「なるほどねぇ……そういうことなら行くかぁ————」

 正直、このまま液タブに向き合ってたところで色が見えるようになるわけでもないし。


 そう思った俺は承諾して、重たいパソコンを背負いながら太知の家に行くことになった。


   ◇


「————着いたー!」

 駅のホームに降りて早々、太知はそんなデカい声と共に伸びをした。

「つっかれたー……。なんで電車ってこんなに眠くなるのか……」

「いや、言うて三駅程度しか乗ってないだろ。そんなに眠くならないって」

 そんな会話をしながら、駅のホームを出て改札を通った。

 ————と、危うくスルーしかけたが、そこそこ周囲に人がいるのに太知は平気で喋っている。

「……だいぶ喋れるようになってんじゃん」

「ん? でしょ? 茜との特訓の成果だから」

 もはや人見知りは克服したと言っても過言じゃなさそうだ。それくらい、普通に会話出来ている。少し前までは、周囲に人がいると「うす」や「おす」の二文字程度しか話さなかったのに。

そんな太知の変わりように少し戸惑いながら、俺たちは駅の構内を出た。

 

そして目に入ってくる、知らない街の風景。バスやタクシーの見えないロータリーと、その先にある、お年寄りが数人いる少し大きな公園。

都内ということもあり、人はそれなりに見えるが少し寂れた感じのする街。なんというか、田舎とは言えないのだけど田舎っぽさを感じる。

「ここが、太知の住んでる街か……」

 言うに困ってそう言ってみたものの、特別に何かを感じる訳でもない。

「意外と田舎なんだよなー。ここ」

 苦し紛れの俺の呟きに反応した太知に、「だな」と一言返し、歩き始めた太知の後に続く————。

「アタシん家は駅のすぐ近くだから。————あ、その前に一か所寄り道していい?」

「あー、まぁいいんじゃないか? 別に急いでるわけじゃないしな」

「ん、ありがとう————」

 そんな断りを入れたあと。ぐんぐんと街へ歩き出していく太知の後をついて行きながら、俺は「本当に変わったなぁ」と、感心していた。

 

   ◇


 それからしばらく、見知らぬ街を眺めながら太知の後ろを歩いていた。その間、太知は自分の街についていろいろと教えてくれた。

 曰く、あそこに見える高校はヤンキーしかいない————とか。

 あそこの小学校は生徒がやんちゃ過ぎて、学級閉鎖したことがある————とか。

 何故か全体的に紹介する内容が物騒なのだが、楽しそうに話していた。それを聞いて、俺はなんとなく動画を見ているような気分になった。

 いや本当に、太知はVチューバーまであと一歩という所まで来ているのだろう。

「そういやさ、寄り道するって言ってたけどどこに向かってんの?」

「ん? あれ、言ってなかったっけ。今行ってるのは近所のパン屋さんなんだ。そこのクリー……」


 ————と、太知が何かを言いかけていた時。


「おいクソガキ。なんで俺達がタバコ吸ってちゃいけねぇんだよ? あぁ?」

 グチャ————と、何かを踏みつける音と共に、荒々しい声が聞こえてきた。

 その声に、飛び跳ねるように反応した俺は、慌てて声のした方を見る。

 そうして目に入ってきたのは、ガラの悪そうな高校生と、そいつらに囲まれた小さい男の子。子供の方は恐らく小学生————それも低学年だろう。金髪に学ランという、どう見てもヤンキーな見た目の高校生に囲まれて、涙目になっていた。

「だ、だって……たばこは大人になるまで吸っちゃいけないって、先生言ってたもん!」

 そんな状況でも、負けじと声を張り上げて言い返す子供。そんな子供に、俺は冷や冷やする。

 子供の言ってることは間違いなく正しい。しかし、それをこのタイミングで言っても逆効果だ。余計にヤンキーたちを怒らせるだけでしかない。

 ————それを裏付けるように、ヤンキーが子どもの胸座を掴んだ。

「先生が言ってただぁ? ————どうやらその先生は教えてくれなかったみてぇだな。世の中には、怒らせちゃいけねぇ相手がいるってことをよォ‼」

 そう言って、子供の胸座を掴んだヤンキーが握り拳を振りかぶる。


 ————助けないと。


 そんな状況に、本能的にそう思った。だけど、体は動かない。

 どうすれば助けられる? どうやって、あのヤンキーの怒りを鎮める? 

 そう考えて、辺りに使えそうなものはないか見渡すが、住宅街が目に入るだけでなにも見つからない。その間にも、ヤンキーは全力で子供を殴ろうとしている。

「くそ————ッ!」

 こうなったら、俺があの子供の代わりに殴られてでも助けるしかない。痛いのは勘弁してほしいが、そう言ってられる状況じゃないだろう。


 そうして、一言悪態をつきながら、俺が男の子とヤンキーの間に割って入ろうとした時————、

「……おい、そこのお前」

 場の空気が一瞬で冷えるほど、ドスの効いた声がヤンキーに掛けられた。その声を聞いたヤンキーは、子供を殴ろうとしてた拳を止めて、振り返る。


 ————瞬間、鈍い音と共に、子供の胸座を掴んでいたヤンキーは吹っ飛んだ。


「————太知⁉ お前なにして……!」

 ヤンキーを蹴り飛ばしたその人影を見て、俺は声を上げた。さっきまで俺の近くに居た太知は、いつの間にかヤンキーのすぐ後ろまで移動していたらしい。

 いや、それは別にいいのだが。ヤンキーを蹴り飛ばしたらタダじゃ済まないだろう。

 間違いなく、穏便に事を済ませることは出来なくなってしまった。

「お前ら————さっき「何を」踏みつぶしたんだ……?」

 しかし、太知はそんな俺の声に反応することなく、狼狽えているヤンキーたちに話しかける。そんな太知の姿に、俺が感じていた危機感は消え去った。

 そういや、太知もヤンキーだったな。—————ということを思い出して。

「たち……? お、お前もしかして「太知 ヒカリ」か⁉」

「んな事よりアタシの質問に答えろよ。さっき、何を踏みつぶしたんだ?」

 再度、睨みを聞かせて問いかける太知に、ヤンキーたちは短く悲鳴を上げた。


 ————ヤンキーとはいえ、太知は女子。おまけに相手は二人いる。

そんな状況に、俺は太知の身を案じたけど……どうやらそんな心配はいらなかったらしい。

 もろ顔面に膝蹴りを食らったヤンキーは起き上がることなく、他二人もビビり散らかしている。ここからヤンキーたちが反撃してくることはないだろう。

「早く答えろ。何を、踏みつぶした————!」

「し、知らねぇよ! そこのガキが持ってたやつだっての!」

 太知の迫力に圧倒されて、尻餅をつきながら答えるヤンキーたち。そのヤンキーたちが指さした子供へと、太知は振り返る。

「————ねぇキミ、この袋の中身って何だったの?」

 ヤンキーたちに向ける言葉より、いくらか優しい言い方だったが、子供は怯えてしまって何も言わずに震えている。

 そんな子供に太知はため息をつき、ぐちゃぐちゃの袋を拾い上げ、その中身を見た。

「……クリームパン————」

 袋の中身を見た太知は一言呟き、そして体を戦慄かせた。どうやら、袋の中身はクリームパンらしい。————いや、だから何だというのだろうか。

 冷静になって考えてみれば、太知はやけに袋の中身を気にしていた。まさか、袋の中身が最初から「クリームパン」だと気付いていたのだろか……? いや、仮にそうだとして、ここまで怒りを露わにする程でもないだろう。

 いったい何が、太知をこんなに怒らせているのだろう————と、俺が思考を巡らせている時。太知に蹴り飛ばされたヤンキーの一人が、俺に向かって吹っ飛んできた。

「あぶな————ッ⁉ お、おい! こっちに蹴り飛ばすなよ! 危ない……」

 だろ————そう言おうとして、太知の方を見た俺は口を閉じた。

「お前————アタシの好きなクリームパンに何してくれてんだ?」

 すでに一発殴られたのだろう。鼻から血を出して、涙を流しているヤンキーに向かって威圧する太知の姿を見たら、何も言えなくなってしまった。

「————ん、そーや? なんか言った?」

「い、いや————何も。……それより、こいつらどうすんの?」

「あー……放置で大丈夫だよ。多分」

 そう言って、太知は胸座を掴んでいたヤンキーから手を離した。

 

 ————そんな、地面に蹲るヤンキーたちに「ご愁傷様」と心の中で唱えながら、「絶対に太知を怒らせるのだけはやめよう」と思った。


   ◇


「じゃーね、おねーちゃん! ありがとう!」

「————うん、気をつけて帰りなよー」

 そう言って子供に手を振る太知の手には、ついさっきパン屋で買った、クリームパンの入った袋が握られている。

「……まさか、クリームパンを粗末にされてキレてるとは思わなかったわ」

「————まーね。アタシ、ここのクリームパンが好きでさ」

 子供の姿が小さくなるのを見送ってから、太知にそう声を掛ける。

 ————と、さっきまで人を蹴り飛ばしていたヤツとは思えない程、気さくな返事が返ってきた。

「毎週月曜日は、帰り道に買って帰るって決めてんの」

「————なるほどね。どおりで店の人から嫌な顔をされないわけだ」

 さっき、太知は結果的に子供を救ったわけだが、その方法はただの暴力だ。傍から見た人が「喧嘩をしている」と勘違いしてもおかしくはない。

 それを自分の店の近くでやられたら、普通は「イメージが下がる」と思うだろう。少なくとも、喧嘩していた奴に笑顔で接することはない。————あくまで、俺の中での話だが。


 しかし太知は、嫌な顔をされるどころか、「おまけ」としてクリームパンを貰っていた。そのことを俺は不思議に思ったのだが、常連ということなら納得だ。

「……なんだよ、少し喧嘩しただけじゃんか。そのくらいで嫌な顔してくるほど、パン屋のおばちゃんたちは心狭くないから」

「—————あれで「少し」の喧嘩なのかよ……」

 ————んなわけあるか。人が蹴り飛ばされるほどの喧嘩は、決して「少し」で済むもんじゃないわ。

 しかし、そう言ったら俺も蹴り飛ばされそうなので黙っておく。

「少しだよ、少し。多い時は十人くらいいるけど、今回は三人しかいないから」

「いや、人数の問題じゃないだろ……」

「別にいいでしょ、そんな事。————それより早く、アタシん家に行こう?」

「お、おう……分かった————」


 そして再び歩き出した太知に続き、俺もその後を歩く。

 あとどれくらいで太知の家に着くのか知らんが、そう遠くはないだろう。なにしろ「ちょっと」の寄り道だって言ってたし。

「————もう、すぐそこだからさ。アタシん家」

 と、俺の考えていることが分かったのか、太知がそう言ってくる。

 さっき、パン屋で買った「クリームパン」を食べながら。

「へー……ここら辺かぁ————」

 言葉だけはそう返しながら、視線は太知の頬張っているクリームパンを見ていた。

 太知が頬張るクリームパンを見ていると、なぜか俺もお腹がすいてくる。

 そしてまた、太知の食べているクリームパンが無性に食べたい。ヤンキーの太知が好きだと絶賛する、クリームパンの味がどれ程のものなのかすごく気になる。

 もはや俺の頭の中はクリームパンに占拠されていた。そして、そのことに太知も気付いたのだろう。

「————食べたい?」

「食べたい。もう一個残ってるやつちょうだい」

 少し上目遣いで「食べたい」か聞いてくる太知に、俺はまだ袋に残ってるクリームパンを指しながら即答した。

————そんな俺に、太知はむっとして頬を膨らませる。

「……ダメ。もう一個もアタシが食べるやつ」

「な……お、お前すでに一個食ってんだからいいだろ⁉ 一個くらい分けてくれたってさ」

「————絶対にダメ。これはアタシが貰ったもんなんだから。だいたい、食べたいならさっき買えばよかっただろーが」

「いや、そりゃそうだけどさ……」

 太知の言うことはごもっともだ。正論過ぎて耳が痛い。

だけど、直前までパン屋に行くことを知らせてくれなかったわけだし、そもそも、今の今まで食べたいとすら思っていなかったんだ。

 そんな俺に、一個くらい分けてくれたってよかろうに……。お金なら払うから。

「……分かったよ。別に一個くれとは言わないからさ、少しだけ食わせてくれって。————できれば半分くらい」

 俺がそう言うと、太知は自分の持っているクリームパンへと視線を落とした。

「————まぁ、それくらいならいいか」

 そして一言呟くと、そのまま俺の口へとクリームパンを差し出してきた。

「ん————!」

「え……?」

 その意図が分からず、俺は太知に聞き返す。

「一口あげる。だから、ほら————」

 太知はそう言いながら、俺の顔に向けてクリームパンを差し出してくる。そんな太知に俺は戸惑った。

 —————これは、間接キスになるのでは? と。

「いや……え、いいの————?」

「いいって言ってんでしょ? ほら」

 変わらず差し出してくる太知の態度を見るに、多分「そのこと」に気付いていない。

 それをラッキーと捉えて、クリームパンに齧り付くことも出来るが……。この太知とか言うヤンキーは以外にも純情なのだ。

 俺が「これ幸い」と一口貰った後で、間接キスの事実に気付き、照れてぶん殴ってくるなんてことがない訳じゃない。

 ……まぁ、最近の太知を見るにそんなことは無いだろうけど。照れはすると思うが、多分ぶん殴ってくることは無いと思う。

 だがしかし、直前まで太知はヤンキーを紙きれのようにぶん投げていたりしたわけで。

照れ隠しに拳が飛んでくる————なんてことは普通にありそうだ。

俺は何も悪くないのに殴られるのは勘弁願いたい。

「……いらないの?」

 食うか食わぬか、教えてやるか、やらないか————。そのことで俺が葛藤していると、太知が俺の顔を覗き込んでそう聞いてくる。

 ————そんな太知の唇に、俺の目は自然と釘付けになった。


 小さ過ぎず、かといって極端に大きい訳でもない。ちょうどよく形の整った「それ」は、午後になって赤みを帯びてきた陽光を艶やかに反射する。

 触ればフニフニと柔らかそうで、艶かしい光沢を放つ唇。

 ————触りたい。

 本能に突き動かされ、能動的にそう思った。

「————そーや?」

 その言葉に合わせて動く事すら、俺の欲望を搔き立てていく。

 

————がしかし、太知の声によって吹き飛ばされたはずの理性が戻ってきてしまった。

その戻ってきた理性は、さっき俺が抱いていた感情を「変態だ」と言い切る————。


いや、本当にその通りだ。あのまま欲望に任せて太知の唇に触ろうものなら、さっきのヤンキーたち以上にボコされていたかもしれない。「欲は身を失う」という諺があるが、こういうことを言っていたのか。

「……結局食べないのかよ。それなら「食べたい」なんて言うなよな————」

 ————と、俺が危うく身を滅ぼしそうになっていたことなど知る由もない太知は、そう言いながらクリームパンを俺の顔から遠ざけた。そして自分の口へと運ぼうとする。

「————いや、食うけど?」

「へ……⁉」

 そんな太知の腕を掴み、俺は食べかけの部分に齧り付いた。その俺の行動に、太知が短く驚きの声を上げる。とはいえ、自分でも「大胆な行動を取ったな……」と思った。

普段の俺なら、絶対にそんなことはしないだろう。

というか、殴られる気しかしないんだが。よりにもよって自分からいくなんて。太知から差し出されたなら「お前が出してきたんじゃん」と、言い訳が言えたのに。

何をやっちゃっているんだろうか。俺は……。

 そう思ったものの。よく考えればさっきまで思っていたことに比べれば、「間接キス」なんて可愛いものだ。

「……おぉ、結構美味いな。このクリームパン」

 蕩けるくらい甘いクリームだが、不思議とさっぱりしていてしつこくない。甘ったるいものは大抵、一口食べれば満足してしまう俺だが、このクリームパンはもう少し食べたい。

 そんな感想がすぐに出てくるほど、羞恥心は感じなくなっていた。

「————そ、そっか。それは良かったナ!」

「うん。めっちゃよかった」

 若干カタコトになりながら、歩く速度を速める太知。


そんな太知にそう返した俺は、満足感と高揚感に満ちていた。


   ◇


「……お、お邪魔します————」

「うん、どーぞ」

 人生初の女子部屋。そんな初体験に俺の心は緊張しっぱなしで、落ち着きがなかった。

「少し散らかってるけど、てきとーなところ座っといて。アタシお茶取ってくるからさ」

「お、おう……。いや、お構いなくー……」

 女子の部屋……いやしかし、その女子は太知なのだ。ヤンキーなんだから、そこまで俺の家と変わるようなもんでもないはず————!

「……ん? どうした?」

「————いや、なんでも」

 そう言いながら、俺はさっきの自分の考えが甘すぎたことに気付き頭を抱えた。

 太知がドアを押して、内装がちらりと見えた瞬間。まず、芳香剤のいい匂いが鼻をくすぐって俺を出迎えた。

 そして、ドアが完全に開かれ惜しげも無く内装が俺の視界いっぱいに広がる。その内装は、「ヤンキーだから」という俺の予想をはるかに裏切り「女の子」していた。


 五畳一間くらいの、一般家屋として大きくも小さくもない広さ。その空間は、俺が想像していた以上に「女子の部屋」で……。そのことを意識してしまうと、自分は一体どこを見ていればいいのか分からなくなる。

 薄い水色で統一された壁紙、それとは対極的に濃いピンクのカーテン。今、俺が座っている場所にはカーペットがひかれているが————その色も白。驚くべきことに、一つとして黒色の家具が見当たらない。どこを見てもパステルカラーが目に入ってくる部屋。

 しかし、俺は「女子の部屋」にも、「ヤンキーの部屋」にも入ったことはない。だから、この部屋の「異色さ」がどれ程なのかは分からない。

 だけど、この部屋が女子の部屋————というよりは、太知の部屋であることに間違いはない。なにしろ————、

「……凄いぬいぐるみの数、だな」

 窓の桟、ベットの枕元、勉強机の上、クローゼットの隅————などなど。見渡せば、視界の中にぬいぐるみが映らないことはない。そう言っていいほど、部屋のあちこちにぬいぐるみが置かれている。

「何個ぐらいあるんだ? このぬいぐるみ————」

「ぬいぐるみの数? この部屋にあるのは全部で二十五匹だけど」

「な……ッ⁉」

 多いな⁉ いや、ていうか、正確な数覚えてんのかよ⁉

 流石、「Vチューバーになってぬいぐるみの話がしたい」と言い出すだけのことはある。まさかこんなにぬいぐるみガチ勢だとは思わなかった。

「この猫のぬいぐるみは「なめろー」でしょ? で、そこの机の上にいるホワイトタイガーのぬいぐるみは「ぽんち」でー……」

「いや……! ちょちょちょ————!」

 突然、ぬいぐるみに付けた名前を教え始める太知に、俺は待ったをかけた。

「ん? なに?」

「まさか……ここにあるぬいぐるみに全部名前つけてんの————?」

「いや、流石に全部は名前つけてないよ。お気に入りの子だけ。————あ、こっちは「じょー」で、こっちは「らんた」ね?」

 そう言って太知は、俺の目にはどう見ても同じにしか見えないクマのぬいぐるみを二つ持ち、俺にそう紹介する。

「……どうやって見分けてんの?」

「え、簡単だよ? じょーの方は太ってんの! 中の綿がいっぱい詰まってるから、一番モチモチしてるんだよー」

「へ、へぇ……」

 俺がぬいぐるみに興味を持ったことが嬉しかったのか、太知はにこやかな笑みを浮かべて楽しそうに語る。

まぁ、まさかここまで凄いとは思ってなくて、俺は圧倒されてんだけど。

とはいえ、ぬいぐるみと言われたら俺の頭に浮かぶのは「埃」だ。いや、ぬいぐるみに限らずフィギュアとかも埃をかぶるけど。

しかし、フィギュアの場合は埃が被らないよう、ケースに入れることが多い。あの透明な、プラスチックの四角いやつ。

 もしくは、フィギュアなんてそもそも滅多に触るものでもないし、埃をかぶってもあんまし気にならない。……が、ぬいぐるみは違う。

 今、太知が顔を埋めているように、ぬいぐるみは飾っておくだけじゃない。手に触ったりしても楽しめる。

 しかし、そんなぬいぐるみが埃をかぶっていたらどうだろうか? 答えは簡単、「触りたくない」だ。

 だけど太知は、そんなことを気にすることも無く触っている。それに、他のぬいぐるみを見ても埃をかぶっているようには見えない。

 この部屋に入る前、太知は「少し散らかってるけど」なんて言ってたが、全く散らかっていない。メチャクチャ綺麗な部屋だ。

 そんな部屋に、もしかしたら太知は、ものすごく綺麗好きなのかもしれないな、なんて思った。

「————あ、そうそう。そーやにはこれも見て欲しかったんだよ!」

「あぁ、それね……」

 太知は持っていたぬいぐるみを元の場所に戻し、今度は勉強机の前に貼られた大きいポスターを指さす。そんな太知に俺は苦笑いで返した。

「本当に好きなんだなー。そのイラストが……」

「そりゃもちろん! アタシの宝物だから!」

————そう。そのポスターに描かれているのは、太知が「好き」と言ったあのイラストだ。

相変わらず線画でしか見えないが、大きさのせいでかなりの存在感を放っている。まさか、拡大してポスターにしているとは思わなかった。

太知はどうやら本当に、俺が最後に描いたイラストのことが好きなのだろう。このポスターを見せられたら、それが嘘じゃないことくらい分かる。

だからこそ、気付いてもあえて反応しないようにしていたというのに……。

「ぬいぐるみとどっちが大事なんだ?」

「それはー……ぬいぐるみ?」

「————おい」

 そんなやり取りをして、お互いに少し笑い合う。どうやら、あえて反応しなかった俺の対応は間違いだったらしい。

 俺にとっての「嫌な物」でも、太知にとってはそれが「好きな物」で。好きなものについて嬉しそうに話す太知を見ていたら、不思議とそんなに嫌じゃなくなってくる。

「しっかし……どうすっか。こんなにぬいぐるみがあったんじゃパソコン置く場所なくないか?」

「あ……たしかに。どうしたらいい?」

「————よし、ぬいぐるみを何体か片すか」

「え⁉ ちょ……それは嫌だ!」

 冗談めかしてそう言ったのだが、どうやら太知は本気と捉えたらしく嫌がる。

「……冗談だよ。パソコン一つ置くくらいでそんなに場所取らねーし。それに————どうせお前、机の上で勉強なんてしないんだろ?」

「い、いや……? するときはするからな……?」

 ————なるほど、これは絶対にしないやつだな。

「おーけー、そしたら机の上に設置しよう。それ以外に置けそうな場所も無いし」

「ふふ————。そうだな!」

 そうして俺は、嬉しそうな太知と一緒に上機嫌でパソコンの設置を始めた。


   ◇


「————よし。まぁ、こんなとこか。どうだ?」

「おぉー! めっちゃいい感じじゃん! ありがとう!」

 パソコンの設営を終えて、太知に確認する。一応俺なりに、部屋の雰囲気を壊さないよう気を使ったつもりなのだが、どうやら太知のお気にも召したらしい。

 しかしそのせいで、パソコンが机の上のぬいぐるみたちに囲まれている、というシュールな絵ずらになってしまっているが。

 まぁそこはご愛嬌ということで、許して欲しい。

「これでもう、いつでも使えるようになる?」

「そうだな。WiFiの設定もしたし、問題なく使えると思う」

 俺がそう伝えると、太知は目を輝かせてパソコンを起動する。その様子を少し見守ったが、パソコンがエラーを吐く様子もない。どうやら問題なしのようだ。

「そしたらやることも終わったし、俺は帰るわ。お邪魔しましたー」

「ん、分かった。設置手伝ってくれてありがとう! ————あ、駅まで送ってこーか?」

「いや、近くだし大丈夫だよ。それじゃ……また明日学校で」

 そう言ってパソコンを入れてきた鞄を背負い、ドアへと向かう。そんな俺に、太知が「また明日―」と小さく手を振って見送ってくれた。


 そんな何気ないやり取りにちょっと嬉しくなりながら、ドアノブに手を伸ばそうとしたところで————、

「————ヒカリ。これは一体、どういうことかしら」

 突然ドアが開け放たれ、思わず身震いしてしまうほど冷たい声が、太知の名前を呼んだ。

「母さん————ッ⁉」

「今すぐに、説明しなさい」

 太知に「母さん」と呼ばれた人物は、部屋の中を見渡してから、目の前に立ち竦む俺に氷柱のような視線を向ける。

 その鋭い視線に睨まれて、俺は息が詰まって動けなくなった。


 肩のあたりまで伸ばした、黒のストレートヘア。そして、キリッと吊り上がった眉尻。スーツに身を包み、冷静さを感じさせる落ち着いた佇まいは、「出来る人」そのものだ。

 この人が……太知のお母さん————⁉

 そう驚いてしまうくらいには、太知と似ても似つかない。太知がヤンキーだとするならば、このお母さんは優等生だろう。全くもって正反対の存在じゃないか。

 ただ、流石親子と言うべきか、よく見れば似ている部分もある。太知と同じようにお母さんも美人だし、カッコよさを感じるその雰囲気も似ている。

 そして、これは似てて欲しくなかったが、相手を警戒している時の恐ろしいくらい鋭く、冷たい視線も————。

 そんな視線を高い身長で刺してくるのだから、なおのことこっちは委縮してしまう。このお母さん、太知よりも身長が高い。

 太知の身長は俺の顎下————つまり、百六十後半くらい。それでも十分高いのだが、このお母さんは俺と視線の高さがほとんど一緒なのだ。おそらく、俺と身長差一センチ程度しかない。

 高身長、キッチリした身だしなみ、そしてヤンキー顔負けのきつい雰囲気。

 それら全てを持った人が、腕を組んで、不快さを顔の前面に出して睨んでくるのだから恐ろしい。正直言って、今すぐにでもこの場から逃げ出したい。

 だが、逃げ出そうにも俺の動き全てを監視されているようで、息をすることすら恐る恐るにしか出来ない。

 ほんともう、後は帰るだけだったのになんで……。

「な、なんで————⁉ 今日は家に帰ってこないって—————!」

「それを貴女が知る必要はないわ、ヒカリ。そんな事より、私の質問に早く答えなさい」

「————————ッ‼」

 太知のお母さんは、目の前でどうしたらいいのか分からず固まっている俺を無視して、奥のベットに座る太知に声を掛ける。

「————なぜ、知らない人間が勝手に家へ上がっているのかしら?」

 相変わらずドスの効いた、ハスキーボイスで太知を問い詰めるお母さん。そんなお母さんの言葉を聞いた時、俺は半ば無意識に、弾かれるように自己紹介していた。

「す、すすすみません! 太知と同じ学校に通ってる、三千喜創哉です! 勝手に家に上がってすみませんでした!」

 早口にそう名乗り頭まで下げる。なんというかもう、太知のお母さんから伝わる不機嫌のオーラが半端じゃないのだ。これ以上不機嫌になったら、割と本当に殺されそうな勢いで。たぶん、その鋭い視線で俺の心臓を「グサッ!」とぶっ刺して殺してくるのだろう。————なにそれ怖い!

 そうならないように、俺はとにかく謝った。……のだが。

「貴方には聞いてないんだけど。部外者は黙っててくれるかしら? ————それと、初対面の相手を呼び捨てにするなんていい度胸ね」

「————⁉ 呼び捨ててない……ッ」

 そう言おうとした時、太知のお母さんの視線がより一層キツく鋭くなり、俺は小さい悲鳴を上げて押し黙った。

 いや、だけど待てよ。俺はお母さんの事を呼び捨てになんかしてないぞ。むしろさっきの自己紹介でお母さんの事を呼んでなんかいない……。

 ————あ。

 まさか、俺が太知を差して呼んだ「太知」が、お母さんは自分が呼ばれたと勘違いした、とか? いやそんなまさか……。

 そんな、ノリのいい家族がしそうな「私も太知ですが?」なんてギャグを、この堅物のお母さんがするのか? ……ないと思うんだけど。

「ヒカリ————いつまで黙っているつもり? 貴女に聞いてるのよ」

「……別に、いいでしょ。友達を家に呼ぶくらい」

「私は「友達を勝手に家に上げていい」なんて、一言も言ってないはずよ? それなのに何故、家に上げてるのかしら」

「————ごめんなさい」

 お母さんは太知を正座させ、場の空気は完全に説教ムードになってしまった。

 そんな空気に、俺も言われたわけじゃないけど正座をする。

「————なぜ、貴方まで正座しているの」

「い、いやぁ……なんとなく?」

 アンタがめっちゃお怒りだからでしょうが! とは、口が裂けても言えないので。

 とりあえず当たり障りの無さそうな言葉でお茶を濁しておく。

 しっかし、お母さんが現れてからというもの太知の元気がない。もしかして、太知はこのお母さんの事が嫌いなのだろうか。……まぁ、気持ちはめっちゃ分かるけど。

 こんな怖いお母さんが好きなんて言うのは、一部の変態さんくらいしかいないだろう。

「謝れなんて言ってないわ。なぜ、勝手に家に上げたのか聞いてるのよ」

 愛想笑いで誤魔化す俺にお母さんはため息をつき、話を再び太知の方へと戻す。

 なんかこのお母さん、やたらとその話に拘り過ぎじゃなかろうか。

「そんなの……母さんが返ってこないとか言ってたから————ッ‼」

「————なに? なら貴女は、私が家に帰ってこなかったら何も連絡しなくていいと? そういうことかしら」

「そっちだって、アタシに何の連絡もしてないんだから当然でしょ⁉ アタシには連絡しろとか言うくせに、そっちはしませんとかそんなのおかしいじゃん‼」

「私は貴女の親なの。子供が親に連絡するのは当然のことでしょう。その当たり前すら、貴女はまともに出来ないわけ?」

「ふざけんな‼ それを言うならアンタだって当たり前が出来てないじゃん!」

 ……あーあーあー。やばいよこれ、めっちゃ気まずいよ。

 どんどん喧嘩がヒートアップしていって、もはや太知なんてお母さんの事を「アンタ」呼びしちゃってるし。

 というか俺は何で、律儀に正座なんかしちゃって他人の家族の喧嘩を聞いているんだろう。この隙にそそくさと帰ればいいじゃないか。

「————あー……。じゃあ俺は、これで失礼しますねー……」

 一応帰ることだけは伝えて、立ち上がろうと足を動かす————。

「待ちなさい。帰っていいなんて一言も言ってないわ」

「そーやも言ってやって! このクソばばあに!」

 ————のだが、結局喧嘩していたはずの二人に呼び止められて帰れなくなった。

 いや、なんでだよ。もっと喧嘩に集中しときなさいよ。

 というか太知、お母さんの事を「クソばばあ」呼びはいけないって。よりにもよって、こんな怖いお母さんをもっとブチギレさせるような呼び方はマズいって。

「親をクソばばあって呼ぶんだったら、今すぐこの家から出て行きなさい‼」

「はぁ⁉ そっちが出てけよ‼ どうせロクに家にも帰ってこないんだからさぁ‼」

「————貴方ねぇ‼ 誰の為に私が毎日仕事してると思ってるのよ‼」

「はッ! そうやってまた仕事を言い訳にしてさ‼ 便利でいいね、仕事って‼ アタシだって学校あんのに!」

 ほら、言わんこっちゃない。親をクソ呼ばわりはダメだって。てーか、お前はまともに学校来ておらんでしょーが。

「ろくに学校も行ってないのに学校がある————? あまりふざけたことを言わないでちょうだい! 学校に行かないなら働けってずっと言ってるでしょう⁉」

「————‼ 誰のせいで学校に行けなくなったと思ってんの⁉ 何も知らないくせに言うなよ!」

「またそうやって人のせいにするのね。……学校に行けないのは他でもない貴女の弱さのせいでしょう⁉ 人のせいにしてるんじゃないわよ‼」

「————————ッ‼」

 …………。

 なぜだろう、なんか話がどんどん重たい方へと向かって行ってる気がするよ。

 これ、最初は「勝手に他人を家にあげるな」ってだけの話だったよな? それが何故、学校に行ける行けないとか、その理由の話になってるんだろうか。

 どうやらもう、放っておいたら勝手に鎮火————とはいかないらしい。

 とはいえ、どうやって二人の気を静める? 無理なんですけど。

 喧嘩なんてまともにしたことないし、その喧嘩を鎮めたことだってない。

 そんな俺が二人の喧嘩を止めるとか、無理ゲーにも程があるっていうもんだろう。

 ……だがしかし、このまま黙っている訳にもいかず。

「……ちょ、ちょっと! 一旦、二人とも落ち着きましょう! ね⁉」

 俺は立ち上がって、まだ相手を貶し合おうとしている二人の間に割って入った。

 すると当然、二人からの視線が俺に集中する。

 邪魔するなと言わんばかりの視線を向けてくる太知と、少しは落ち着きを取り戻したのか狼狽えるお母さん。どうやら、お母さんの方はそこまで怒りに吞まれてなさそうだ。

「えーと……勝手に家に上がったのは……すみませんでした。今後はもうお邪魔しないので、許してください————」

 少しはこっちの話を聞いてくれそうなお母さんに、家へ勝手に上がったことの謝罪をする。

 元はと言えば、太知がお母さんに連絡しなかったせいだが、それを言えばさらにヒートアップすることは間違いない。不本意ではあるけれど、俺のせいにして丸く収まるならそれに越したことは無いだろう。

「————無断で人様の家に上がり込むなんて、常識がなっていないんじゃないかしら」

「……はい。すみませんでした」

 ここは何を言われようとも、ただ謝り続ける一択だ。ここで反論したって面倒くさいことにしかならない。というか、正論過ぎて言い返すにも何も言い返せないけどさ。

 がしかし、俺の内心を知らないお母さんは呆れたようにため息をついた。

「————早く出て行ってちょうだい、全く……。最近の子はどうなってるのかしら。親のいない家に上がるなんて、私が学生の時なら通報モノよ」

「はは……すみません————」

 いや、知らんよ。アンタが学生だった時の常識なんて。家に上がっただけで通報とかやり過ぎてるだろ。不法侵入じゃなくて一応、太知から許可取ってんだしさ。

 そんな言葉が喉まで出かかったが、何とか押し殺し「またな」と太知に言ってドアに手を掛ける————。

「……? ヒカリ、そのパソコンは何なの?」

「————————っ⁉」

 俺が部屋から半分ほど体を出した時、部屋の変化に気付いたお母さんがパソコンを指摘した。————ただそれだけの事。

「あー————、それは……」

 Vチューバーとして、配信活動に使うものです。

 出ようとしていた体を戻し、お母さんにそう言おうとした俺の口は、太知の訴えかけてくる視線に止められた。

 

 太知は言葉を一言も発していないが、なぜか伝わってきたのだ。

「言っちゃダメ」と————。

 

   ◇


「————それは? いったい何なのよ」

「えっと……」

 なんて言えばいいのか分からず、言葉を濁しながら視線を逸らす。

 太知の視線に気付いて途中で止めたのはいいが、こっからどうすればいいのか考えてない。というか、太知がなぜ俺を止めたかの理由すら知らない。

「や、やっぱり太知本人から聞いてください————!」

「え————、そーや……⁉」

 俺から突然話を振られた太知が、裏切りにあった子犬のような悲鳴を上げる。

 ……いや、知るか。自分で何とかしろって。

「……ヒカリ? 貴女、また私に隠し事をしてるわけ?」

「う…………」

 何故か頑なに、「配信で使う」と言わない太知に違和感を覚える。

 ————待てよ? まさか————!

 

そんな二人のやり取りを傍から見て、俺はあることに気が付いた。

 おそらく太知は、お母さんに「Vチューバーになりたい」と思ってることを言っていないのだろう。

 だから言えないのだ。そのパソコンが、配信活動で必要なものであると。


 まぁ、太知のお母さんの性格からして、それを言ったら間違いなく「やめなさい」と言われるだろう。「Vチューバーなんて得体の知れないものになるなんて、認めるわけがないでしょう」と。

 どうしてもVチューバーになりたい太知からしてみれば、それは困るわけで。だから、親に言わないという選択をした太知の考えはあながち間違いじゃない。

 

ただ、それは全て「隠し通す」ことが出来ていればの話。無かったはずのパソコンがある理由を問い詰められている以上、「Vチューバーになりたい」と思ってることを言わないといけない。

 ただ、それを言ってしまえば太知は、Vチューバーになることを諦めなきゃいけなくなるだろう。


————それは、なんとなく嫌だ。


俺は別に、太知の「Vチューバーになりたい」という夢を否定したいわけじゃない。むしろ、なりたいと思っているなら頑張ってほしいと思った。ただ、そのために必要なイラストは描けないというだけで。

もし太知が有名になったら……なんていう下心はゼロではないけど、それを抜きにしてただ純粋に応援しようと思った。

学校の屋上で、「Vチューバーになりたい」と言った太知からは、本気で目指しているのだろうと思えるほど意気込みを感じたし。

 ————なにより、「何者かになる」ことの大変さは、俺自身もよく知っているから。

 俺と同じように、「何者か」になろうとしてる太知に親近感がわいて、頑張ってほしいと思ったんだ。

 それを、「親に認められなかったから」という理由で諦めて欲しくはない。かつて、同じ理由で親と別れた身としては————。

「————太知……」

 ただ、だからと言ってこの状況を誤魔化せる言葉がすぐに浮かんでくることも無く。不安げに瞳を揺らす太知に、ただ声を掛けることしか出来ない。

 しかし、俺の方を向いた太知は一瞬俯いて何かを呟いた後、正面切ってお母さんに告白した。

「……アタシ、Vチューバーになりたいの。そのパソコンは、Vチューバーになる為に必要なやつ」

 ヤンキーだから、という訳ではなく太知の元々の性格なのだろう。どんな時でも、相手と真正面に向き合うその真っ直ぐな性格は。

 適当に誤魔化せばいいと思っていた俺とは違って、素直に「Vチューバーになりたい」と思ってることを告げた。

そんな太知に、お母さんは呆気に取られて少し固まる。

「————Vチューバー……って、これのことかしら」

 だが、お母さんが呆気に取られていたのは一瞬だった。

 そう言いながら、ポケットからスマホを取り出したお母さんが、軽く操作しその画面を見せる。

その画面を見た太知が、おずおずと首を縦に頷いた。

「————そう。……認めないわよ」

 短く、だけどはっきりと太知の夢を否定したお母さんは、「つまらないものを見た」とでも言わんばかりにため息をつき、スマホをポケットへとしまう。

「あんな———何が面白いのか理解できない動画を作るくらいなら、大手企業に就職するための勉強をしたほうがマシだわ」

「は————、なに? 母さんはアタシが大手企業に就職できると思ってるわけ⁉ 出来るわけないでしょ‼」

 お母さんの挑発的な発言に、太知の怒りのボルテージが急激に上がる。いや、今回ばかりは太知だけじゃない。俺もかなり不快に思った。

 Vチューバーのモデルを描いたことがある身としても、それを抜きにしたとしても。自分の好きなものを否定されるのは、誰だって嫌な気分になるはずだ。

「えぇ、もちろん。出来るわけないわ。もし仮にあなたが大手に就職できたとするなら、相当なブラック以外ありえないでしょうね」

 太知のお母さんはそう言うと、再びスマホを取り出して、今度は動画を流しながら太知に言い放った。

「Vチューバーになる————なんて、冗談じゃないわ。大手に就職するために勉強すれば、どうせ受からないあなたでも少しは知識が付くけれど、コレになって一体なにが身につくわけ? 何もないじゃない。こんなくだらないことで人生を無駄にしたいのかしら?」

「————————ッ‼」

 そう言われた太知は当然のようにキレた。

 クリームパンを粗末にしていたヤンキーを相手にした時とは比にならないほどに。

 そんな太知が、お母さんに掴みかかる—————その直前。

「————その言い方は、無いんじゃないですか?」

 自分でも無意識のうちに、俺の口は自然とそう言っていた。

「————何かしら」

 そんな俺に、太知に胸座を掴まれていながら、高慢ともいえる態度を崩さないお母さんが反応する。

「……なんでお母さんは頑なに、太知のやりたいことを否定するんですか。やりたいって言ってんだから、やらせてあげればいいでしょうに」

 親という生き物はいつもそうだ。かつては自分だって、何かになりたいと思っていたはずなのに。いつからか現実しか見なくなって、夢や希望を「くだらない」の一言で片づける。

 それが俺は凄く嫌いなんだ。「経験してきたから」という理由だけで、下らないと否定してしまえるその精神が。

 しかし、そんな俺の物言いにお母さんはムカついたのか、眉尻をわずかに上げた。

「やらせてあげればいい……ですって? 見ればわかるでしょう、ヒカリの好きにやらせた結果がこれじゃない。校則違反は当たり前、そもそも学校にすらまともにいかない。そうやって好き勝手やってるんだから、厳しくされるのは当たり前でしょう?」

「……その通りですわ。たしかに」

 迂闊だった。その通りじゃないか。

 俺が親と揉めた時は、学校にはとりあえず行ってたし、素行だって悪くない普通の中学生をやってたから気づかなかったけど。

 今の太知のことを考えれば、このお母さんの言ってることは正しい。いや、正しすぎる。

「は————⁉ おま、味方してくれるんじゃないのかよ⁉」

「いや……だって、実際その通りじゃん……?」

 お母さんの言い分に納得した俺に、太知が「味方だと思ってたのに」と恨めしそうな目で見てくる。だが、これに関しては太知の日頃の行いが悪い。言うなれば自業自得だ。

 もう少し普段の生活がまともなら……具体的には、校則を守ってちゃんと学校に来ていれば、こう言われることも無かったのに。

 ……そう、全部自業自得————ではあるのだが。

「それでも……太知のなりたいものを、「くだらない」って決めつけるのはやめてください」

 自分が「なりたい」と思ったものを否定されると、とても苦しくなる。Vチューバーのような、自分一人で「なりたい」ものになる努力をしないといけないやつは特に。

 しかも、それを親から言われたら余計に傷つく。————なにしろ、俺もそうだったから。

 それを伝えたくて、俺は太知のお母さんを真っ直ぐに見つめた。

「少なくとも、太知は冗談で「Vチューバーになりたい」って言ってるわけじゃないと思います。……ほとんど話したこともない俺のことを調べて、「アタシの好きなイラストを描くお前に、Vチューバーのモデルを描いて欲しい」ってお願いしてくるくらいには」

 ————そのお願いは、授業を無理矢理抜け出してされたものだけど。

「だから、応援はしなくても見守ってあげて欲しいんです」

 そう言って、俺は太知のお母さんに「お願いします」と頭を下げた。

「————ずいぶん、大人びたことを言うのね。高校生にしては」

「まぁ……一度同じようなことを経験したんで」

「————そう」

 

……俺も中学生の時、イラストレーターになろうとして親と揉めた。その時は太知みたいに、自分の言いたいことだけを言い合う喧嘩みたいなことはしなかったけど。

いや、むしろ俺の方が酷かったかもしれない。

話し合おうとする母さんの事を、「どうせ理解なんかしちゃくれない」と決めつけて、勝手に家出をしてイラストレーターになったんだから。

母さんの事を無視して家を飛び出して、爺ちゃんに甘えて今のアパートで独り暮らしを始めた。そうやって今日まで生きてきたのが今の俺だ。

もし爺ちゃんがいなかったら、俺は今頃死んでてもおかしくないだろう。

 

 だから太知には、ちゃんとお母さんと話し合って欲しいとは思う。話し合うこともせずに家を飛び出して、後悔してるのが今の俺だから。

 俺の勝手なエゴになるけど、そんな嫌な思いを————太知にはして欲しくない。

「……あなた、名前は?」

 少しの沈黙の後、太知のお母さんがそう言ったことで俺は頭を上げた。

「————三千喜創哉です」

 ……一度自己紹介してんだけどな、俺。聞いてなかったのかなぁ————。

「そう————。三千喜君は私にお願いしたけど、あなたはどうなの? ヒカリ」

「……お願い————します。母さん」

 どこかまだ素直になりきれていないのか、少し詰まりながら太知もお母さんにお願いする。それを聞き届けた太知のお母さんは、自分の髪を搔き乱しながら、大きなため息とともに俺に言葉を発した。

「————はぁ。もしこれで、ヒカリがロクでなしになったら君のせいよ。三千喜君」

「え————⁉ いや、それはちょっと話が違う……」

「何も、文句ないわよね————?」

 今まさに文句を言っている最中だというのに、それを無言の圧で無理矢理中断させて、目の笑っていない笑顔と共にお母さんが念を押してくる。

「————はい。文句ないです」

 そんな太知のお母さんに、俺はそう答えることしか出来なかった。

 

だけど心なしか、ため息をつくお母さんの表情が少しだけ嬉しそうに見えたのは……多分きっと、俺の気のせいというやつなのだろう。


   ◇


 ————と、ここで終わっていれば良かったのだが。


「喜んでいるところ悪いけど、Vチューバーを目指すことを許してもらいたいなら、条件があるわ」

 そんなお母さんの一言で、すっかり祝勝会ムードになっていた俺の気分は一気に冷えた。

 そして、どうやらそれは太知も同じだったらしく————、

「そ、そんなの聞いてない! あとから条件出すとか、ありえないでしょ!」

「ありえなくないわ。あなたの今までの行動を見ていれば、条件を出されるのは当然でしょう」

 その一言でお母さんは、太知と俺の反論を封殺した。————このお母さん、レスバが強すぎるんだが?

「————安心しなさい。ヒカリが頑張れば満たせる程度の「条件」よ」

 続けてお母さんの言った言葉を聞いて、太知は安堵したようにホッと息をつく。

 ————とはいえ、俺は最初から何も心配していなかったのだけど。おそらく、お母さんの出す条件は「毎日学校へ行く」とか、そんな感じのものだろう。ついさっき、太知には「まともになってもらいたい」的なことを言っていたし。

 だから俺は、深く考えることなく、太知のお母さんの言葉を待つ————。

「————それで、条件ってなに? 母さん」

「そうね、「一カ月でVチューバーに」なりなさい。それが出来ないなら諦めるのよ」

 そんな風にさりげなく、事も無げに言われた言葉を俺は一度聞き流した。

太知とお母さんの約束に、口を出すつもりも無かったし。

「一カ月でVチューバーになれ……? それだけなの?」

「そうよ。どうせあなたにこれ以上条件を増やしても、一つも満たせないことは分かってるもの」

「あっそ……ま、分かった。一カ月以内にVチューバーになればいいんでしょ? そんなの簡単だし」

「————そう、じゃあ成立ね。なら一カ月の間、好きにするといいわ」

 太知のお母さんが「成立」と口にした時、俺は初めて違和感に気が付いた。

 一カ月でVチューバーになるなんて、そんなこと出来るわけないだろ。そもそも、Vチューバーのモデルを作るのに、最低でも三カ月はかかるってのに。

 そんな無理難題な条件、太知が吞むはずない————、

 

 ————いや、ちょっと待て。今さっき太知が「分かった」て言ってた気が————、


 いや、嘘だろ⁉ まさかその条件を呑んだんじゃないよなぁ⁉

 嘘だと言ってくれ……そんな気持ちで太知の方を見る。

 ……が、太知は達成感からか満足げな表情をしているだけで、お母さんも部屋から出て行ってしまった。

「————え……? うそ、だろ……?」

 だいたい太知お前、俺まだ色が見えるようにすらなってねーんだけど?

 ていうか教えたよな? モデルを作るには最低でも三カ月かかるって。

 そもそも、お前の当初の予定じゃ八月だったろ。あと三カ月も先なのに、なんで一カ月っていう条件を了承できちゃうんだよ!

「————————まじ…………?」

 終わった。無理ですこんなの。

 

そんな俺の魂の抜けたような声が、太知の部屋に虚しく響いた。



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