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しとしとと降り続ける雨の音に、鼻腔をくすぐる草木の香り。
あぁ、今年も、夏が来る──。
わたしは、夏の訪れとともに長い長い眠りから目を覚ます。もっと正確に言うならば、関東が梅雨入りした頃に。
小学生の頃に発症した、原因不明の、夏以外は寝続けてしまう病。わたしは密かに心の中で、セミ病と呼んでいた。
理由は簡単。小学校六年生の時に「夏の間しか起きていられないなんて、セミみたいだ」と言われたから。
そういう訳で今年のわたしは、セミの命のように、短い高校一年生の夏を過ごす。静かに、目立たぬよう、じっと。
***
「……西野 奏です。短い間ですが、よろしくお願いします」
六月の最終日。転校生でもないのにこんな時期──しかも、週の最後の金曜日に自己紹介をするわたしを、クラスメイトたちは拍手をしながら様々な感情を含んだ視線で見つめる。感心、無関心、興味、警戒……。どんな目で見られようとも、わたしは誰とも仲良くするつもりなど毛頭ない訳だけれど。
「はい、ありがとう。じゃあ、席はあそこね」
教師歴の長そうな初老の男性の担任に促されて、空いている席に座る。教室中央の、一番後ろ。
担任の話を聞きながら手荷物を片付けていると、隣の席から熱視線を向けられていることに気が付き、右隣に座る──男の子へと、目線を変えた。
そこに座っていたのは、焦茶色の癖っ毛な髪型をした、大人と子供の中間のような顔立ちの人。彼は、子犬のような瞳をわたしに向けたまま固まっていた。
「あの」
周りの邪魔にならないようトーンを落として声を掛ける。すると彼は、「花東小じゃなかった?」とわたしに問い掛けた。
その質問にわたしは、胸が高鳴る。それはきっと、夏の間しかいなかったわたしの存在を覚えてくれていたことに対する感情。
「……そう、だけど」
「俺、田邉 奏多。覚えてない?」
田邉 奏多。その名前を聞いたわたしは、これまでの記憶を探るまでもなく、すぐに答えに行き着いた。忘れるわけもない。田邉 奏多──彼は、小学校六年生の時春に転校してきたらしい同級生。らしい、というのは、彼が転校してきた春に、わたしは学校にいなかったからだ。そして──わたしのことを「セミみたい」と言った張本人。
"覚えてる"と言おうとしたところで、朝のホームルームが終わる鐘が鳴り響く。わたしは、一時間目の科目を確認して、田邉くんに「後で」とジェスチャーをして立ち上がる。今日の一時間目は、体育。前もって教わっていた更衣室へと急ごうと教室を出たわたしの肩を、誰かが掴んだ。
「ねえ、あたし、東雲 美香。学級委員長なの。よければ、案内するよ?」
「あ……」
つり目がちな瞳をわたしに向けるその人──東雲さんは、まさか断られることはないだろうという表情を浮かべてそう言った。
更衣室までの道のりも、体育館の場所も分かっているから、必要ないといえばないのだけれど──……。
「……本当? 助かる」
「じゃあ、一緒に行こ! あ、奏って呼んでいい? あたしのことは美香でいいからさ」
「うん、ありがとう……といってもわたし体育は見学で……」
「あ! そうなの? でもそっか、ずっと休んでたんだもんね」
「うん、でも、みんなが運動してるのを見るのは嫌いじゃないから」
わたしは、上辺だけの笑顔を向けてそう言った。
わたしは知っている──彼女との縁が、今年の短い夏の間だけになるということを。だから、今仲良くなったところで無駄だということも。
いままで、ずっとそうだった。
ずっとそうだったはずなのに、今年はどこか違う夏が来る気がする──。
わたしがそう感じたのは、その日の授業を全て終えた放課後──誰よりも早く教室を出たわたしを、田邉 奏多が呼び止めた時だった。
「あ、西野!」
「……田邉くん?」
「お前、昼休みどこ行ってたんだよ?」
彼のその問いかけにわたしは、「図書室にいた」と簡潔に答える。
「みんな西野と話したがってたぞ?」
「……」
田邉くんのその言葉にわたしは口を噤む。そんなのどうせ、今だけだ──と頭の中で答えて黙って駅までの道を歩く。
その隣を同じく黙ったままついてくる、田邉 奏多。
「ねえ、何でついてくるの?」
「はあ? 駅までは一緒だろ!」
「う、そうだけど」
「そういえば西野、今どこに住んでるの?」
唐突に投げかけられた質問。わたしはその意図を考えて、口を開く。
「……市内だけど、JRの方に引っ越したの」
「へえ、そうなんだ。だから中学は違ったのか。あっ、てことは電車途中まで一緒?」
「そうだね」
「あー、今日も暑いなー……」
そう言って空を見上げた田邉くんにつられて、わたしも同じように上を向く。
澄んだ青空が真っ白な雲に装飾された夏の空。まだ六月だというのに、太陽はわたし達を強く照りつけていた。
「あ、そういえば西野さ」
「なに?」
「明日……とか暇?」
隣同士並んで改札を抜けたわたし達。一路線のローカル電車しか通っていないこの駅は、改札口が一つと、線路を挟んで二つのホームしか無い。
わたし達は、改札から直結したホームで電車を待つ。
「明日? どうして?」
「どうしてって、暇ならどこか遊びに行こうって思っただけなんだけど……」
わたしは、明日の予定を脳内で組み立てる。午前中は病院に行く用事がある。けれど、午後からなら──。
「午後の……一時くらいからなら」
「ほんと?」
「なにその反応」
断られると思っていたのだろうか。田邉くんは、両方の目をぱちくりさせながらわたしの方を見ていた。
「いや、断られると思ったから」
「……たしかに」
これがきっと、他の人からの誘いならば断っていただろう。けれど、何故か彼からの誘いを断るという選択肢はなかった。
「なに西野が驚いた顔してるんだよ」
「うそ、そんな顔してた?」
「してたしてた」
そう言って声を抑えて笑う田邉くんの横顔は、わたしことを「セミみたいだ」と言った頃よりも随分と大人っぽく、かっこよくなっていた。
わたしの最寄駅までは電車で約十分。田邉くんは、その一つ向こう側の駅。
電車の中での会話は今日の中で、一番楽しい時間だった。