二章第28話 『まけないで』
誰もが、その大きな畝りに、自分の認識する世界の齟齬に、苦しみ、足掻いていた。
何処かから強制的に植え付けられ、強制的に根の張ったそれは、最早呪いだ。
脳を蝕み、記憶を蝕み、命を蝕み、だが、誰にも気づかれることなく、するりと知らず知らずの間に、染み渡る呪い。
当然だ、周りの奴らも同じで、本人を除く、誰も異議を唱えないのだから。
人の物事を捉える機関に膜を貼り、濾過し、認識を歪ませる悪意の塊。
しかし、今回のはあまりにも。その膜が、捉える景色を濾過しきれない勢いで、目の前の『吸血鬼』と美しき『白』の少女の共闘は――。
共闘? 本当に? 共闘。共闘……?
オリバー。良い人。我等が救世主。暴走。
殺戮。殺戮……殺戮? 殺戮。
『白』綺麗。『赤』綺麗。綺麗? 『赤』?
吸血鬼は怖い。吸血鬼は危ない。吸血鬼は恐ろしい。吸血鬼は人を殺す。吸血鬼は魔物を誘き寄せた。吸血鬼は街を滅ぼす。
本当に? 吸血鬼はこわ、こわ、こわこわこわ、本当に?
本当に。本当の本当に? 本当の本当に。本当の本当の本当に? 本当の本当の本当に。本当の本当の本当の本当の本当に? 本当の本当の本当の本当の本当に。本当の本当の本当の本当の本当の本当に? 本当の本当の本当の本当の本当の本当に。本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当に? 本当の本当の本当の本当の本当の本当の本当に。
吸血鬼怖い? こわい? あぶない? 助ける。
今、私達、吸血鬼、こわ、助けられた?
助けられた。助けらられれれれ? たすさたさたはまかこまかなかきてぬたなにむかそやたにま?
吸血鬼怖くない? こわい? わからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない。怖い怖い怖い怖いこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいこわいくない、こわくない、こわいこわいこわ――。
「――こわくないよ!!」
――こわくない。
※※※
呪詛の斉唱を破って、響いたのは一人の子供の声だった。
その声にバッと顔を上げ、聞こえた方へと振り向くエリュテイア。
そんなエリュテイアの様子に、モノも釣られてその方向へと顔を動かす。
そこに立っていたのは男の子。
周りの取り憑かれた人々とは違った、純粋な、光り輝く瞳で、頬を膨らませている男の子。
モノはその顔に引っかかりを覚え、今までの記憶を辿る。
やがて、記憶と結び付くのは、用水路。
――そう、エリュテイアが用水路で助けた男の子だった。
「あなたは…………」
エリュテイアの呟き。
モノは、あの時、諦めかけていた自分をもう一度立ち上がらせてくれた光景を思い出す。
溺れそうになっている男の子に、何度離されようと、めげずにその手を掴もうと走り、遂には救助に成功した。
しかし、そんなエリュテイアにぶつけられたのは感謝や賞賛の言葉ではなく、罵声だった。
だが、今、その男の子はハッキリと言ったのだ。
こわくない、と。
「お姉ちゃん、あの時ぼくを助けてくれたお姉ちゃんだよね?」
「…………!」
エリュテイアが息を呑んだのが、見ていないがモノには解った。
この男児は、そう、呪いを克服したのだ。まだ幼い故に、固定観念が出来上がっていなかったからかもしれない。
でも、そんな存在はエリュテイアにとって初めてで。
「ぼく、死んじゃうんじゃないかって、怖かったけど、『吸血鬼』のお姉ちゃんが助けてくれたんだよ!」
「――――」
今度は、その男の子はエリュテイアではなく、周りの大人へと言った。
呪詛はもう聞こえない。人々はというと、何かに抗うような表情で、全員が涙を滝のように流していた。
同時に、全員が求めていた。男の子の、言葉を。
呪いを破る力を。
「――今だってそうだよね、お姉ちゃん」
「……」
そう言って、にぱっ、と眩しい笑顔をエリュテイアへと向ける男の子。
モノは改めて、エリュテイアへと視線を向ける。
エリュテイアはピクリと肩を震わした。
目を見開いて、信じられないとでも言うように、口をパクパクとさせて。
「お姉ちゃん、ぼくたちを助ける為に戦ってるんだよね? ぼく、お姉ちゃんのこと、こわくないよ!」
「――――」
「だから、かっこいいお姉ちゃん、がんばって! あんな悪者に負けないで!」
「…………っ!」
エリュテイアの瞳から、暖かい、あたたかい涙が一筋、零れた。
エリュテイアは何度、人を愛し、何度、人に嫌われ、何度、人を想い、何度、拒絶されて。
――何度、『こわくない』この言葉を望んだことか。
流したのは、これまでの辛い涙じゃなくて、優しい涙だった。
――その綺麗なたった一人の声援は、光を失った人々の瞳に再び光を、呪いを食いちぎる為の力を、与える。
「……吸血鬼、本当、なのか? わたし、たちを……救おうと……?」
一人の住民の口から飛び出た問い。
それは言葉通りの疑問ではなかった。
自らにかけられた呪いを破り捨てようと、奮戦する彼等から出た、その問いは縋りだ。
蝕む強制力に、思考を一つの方向へと統一しようとするその力に、恐るべき意地を持って対抗し、やっとの思いで振り絞った、助けを求める声だった。
そんな縋り付く声に、エリュテイアは涙を隠すようにそっぽを向いて、
「……危ないから下がっていなさい。あなたたちを巻き込んでしまったら、元も子も無いでしょう?」
「――――!」
若干嗚咽の混じった、弱々しい、けど強がったエリュテイア、彼女らしい言葉。
それでいて、何よりも、慈愛に満ちた言葉。
――壊れかけた呪いの枷を、砕き切るには、その言葉だけで十分すぎる程で。
穢らわしい、悪意に満ちた『盲信』という名の術式は、瓦解し、人々の中に正しい世界の認識が怒涛の勢いでなだれ込んだ。
「何が、起きたんだ……?」「私……達は、今まで、どうして」「こんな優しい子が怖いわけないじゃないか……」「どういうことだ?」「なんで俺達は、あんなにも『吸血鬼』を怖がって?」「何度もあの子は俺達を助けてくれたじゃないか……!」「なのに我々はなんて酷いことを!」「あぁ……メリア様、こんな我々をお許し下さい」
強制的に歪められていた認識への疑問と、行ってきた事への後悔。
異常をきたしていた頭をぐしゃぐしゃと掻きむしって、『吸血鬼』を貶めてきた者達は次々に力無く懺悔を漏らす。
「こんなもの、死んでも償いきれん……!」
そんな中ある一人の男がエリュテイアへと駆け寄った。
悔しげに涙を流したのは、エリュテイアによって救われた男の子の父親。
一度、エリュテイアへと酷い罵声を浴びせた張本人。
その父親は、エリュテイアの前で、地面に額を擦り付ける。
「すまなかった!」
「…………ぁ」
「どの口が言うんだ、それはわかっている! こんな言葉では、許されないのもわかっている! 許さなくてもいい。それでも、すまなかった!!」
「――――」
「愛する我が子を助けてくれて、ありがとう……! こんな私達でも守ろうとしてくれて、ありがとう……ありがとうっ……!!」
先程恐怖感情が瞬く間に伝染したように、否、それよりも早く、この場の人々の心は『赤』の少女への感謝で一体化していく。
それから、自分達に何らかの手段を用いて、忌々しい呪いを刻み込んだ者への、溢れ出る憎悪。
――ああ、そうだ。あいつだ。救世主などと崇めさせ、全部を欺いた、今そこで狼狽えているあいつだ。
人々が睨みつける先には、「馬鹿な、この程度で破れる筈が……!」と余裕を失った様子の血濡れの男――オリバー・バイシェルト。
何故、ここまであいつのことなんかを信頼していたのか。答えは単純、それも呪いが捻じ曲げていたからだ。たった今、跡形もなく消え去った呪いのせい。
いや、呪いに負けてしまっていた自分達のせいか。
それでも、全てを嘲笑って馬鹿にしたあいつを許してなるものか。
一体化した心は、そう、覚悟へと変化する。
――一矢報いなければ。
と。
エリュテイアの前で、感謝を述べていた男は、徐に、転がっていた砕けた石の一つを掴み、
「うあああぁぁぁっ!!」
「……!? あなた何を!?」
激痛を起因とした絶叫。
――自分の手首に力の限りにぶっ刺した。
突然の奇行に動揺しながら、慌てて男から石を抜き、奪い去るエリュテイア。
だが、奇行に走ったのはその男だけではなく。
人々は何かしらの方法で、自傷行為の痛みに叫んでいた。
「一体どうして!? やめなさい! あなた達、やめなさい! やめてっ!!」
「こんなにも取り乱して……なんて優しい子なんだ。私達は、こんな子にあんな酷い仕打ちをしていたのか……! ますます、ちゃちな呪いに負けてしまっていた自分が、自分で情けないッ!!」
そうやって自分を責める男の手首から、トクトクと溢れ出ていく命の音。
「なん、で……」
「……血が足りないっていう話だっただろう?」
「!!」
裂傷による痛みと急速に量を減らしていく血液に、息を荒げ、汗を垂らし、全身を強ばらせる男、いや、数え切れないくらいの住民達。
エリュテイアは奇行の意味と、決意を知り、身を揺らす。
男は、赤く染る手首を、エリュテイアへと差し出し、
「私達のことはどうなっても、一向に構わんッ!! 私達が犯した罪に比べたら、命の一つくらいどうとでも!! だがな……!」
――ここに、契約は成される。
『吸血鬼』と人間の契り――眷属の契約だ。
「――お前だけは負けるな! 私達はいいが、お前だけは生きてくれッ!!」
言葉と共に、空へと吸い寄せられ始める『鮮血』。
「もう……。あなた達が死んだら元も子も無いって言ってるでしょうに」
やれやれと、振り返るエリュテイアの顔は、優しい微笑みが宿っていて。
涙でぐちゃぐちゃになった顔をゴシックドレスの裾で、雑に拭いてから、エリュテイアはオリバーをキッと睨みつける。
「おい、あと俺も生きるからな。こんな所では死なねえ」
「ああ……白の嬢ちゃんも頑張れ……!」
空気を読まず茶化すモノに、苦しそうにしながらもエールを送る男。
否、それだけでは収まらなかった。
四方八方から、呻き声の混じる弱々しい声援が鳴り響く。
「――な、エリュテイア。後悔しなかったろ?」
「ふっ、そうね」
「有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない有り得ない! この街の病が、僕の、僕達の世代を超えた完璧な計画がァ! こんなにもあっさりと、破られるなんて有り得ないッ!! そうだよね、父さん! そうだ、有り得てはいけないんだァッ!!!」
何やら喚き散らすオリバー。
モノは胸の前でパンッと拳を掴む。
「んじゃま、あとはあの変態サイコパスロリコン鬼畜クソ野郎をぶっ倒して、全部終いだな!!」
モノの宣言に頷いたエリュテイアは、頭上に、住民の、眷属の血を少しずつ集めながら、残虐な笑みを浮かべて、
「最初の言葉、訂正しておくわ」
出力を上げる『赤』。
「――私、今とっても気分がいいの、だから……死になさい!」
月が輝く、夜の空。
赤の太陽が、顕現する――。