二章第24話 最弱の英雄
「はは……ひふ、ひっひっ! あぁぁ……力が流れ込んでくるうぅ!!」
アゼルダの温泉街。もう時刻も遅いというのに、そこは、大勢の人の波が入り乱れ、逃げ惑う、地獄と化していた。
星の瞬く、夜の天を仰ぎ、焦点の合わない瞳を震わし、喜びに狂う男――オリバー・バイシェルト。
白に近い緑の髪を揺らし、金の装飾の付いた黒の服を血飛沫で滲ませ、街を闊歩する様子は、悪夢の光景だ。
そんな彼の歩く地面には、夥しい量の鮮血が、池を成している。
しかし、狂人は数刻前まで命であったそれらすらも、躊躇なく踏み躙って、
――――グシャッ。
一つ、また一つと、目につく生命を潰していった。
男が手で軽く払うと、それに当たった人間は、瞬時に赤い肉塊となる。
まるで柔らかい水風船かの如く、男のちょっとした動作で、直ぐに赤い水をぶちまける人だった者達。
「ぁ、ああああっ! どうしてですかオリバー様! 私達の何かが気に障ったのでしょうか!? だとしたらどうか、どうかお許しを!!」
圧倒的な力を奮うオリバーに詰め寄られ、額を赤い地面に擦り付けて、命乞いをする一人の住民の男性。
オリバーはそんな男を見詰め、一瞬、その表情から一切の感情を消したかと思いきや、次の瞬間には、張り付いたような笑みを浮かべて、
「僕が、君達に怒る? どうしてだい? 逆だよ、全然逆だ。僕は君達の存在を有難く思っているよ」
「それなら……!」
「――だって、僕の為に、僕が神になる為に、こうやって死んでくれるんだからね!! ああ! ありがとう! ありがとう!! 君達の全てに賞賛を!! ありがとうッ!!」
――その男の頭を踏んづけた。
全身全霊の感謝を述べながら、オリバーは足の裏で、力を入れた様子もなく、踏んづけた。
すると、男の頭蓋は木っ端微塵に破裂。
まるで一匹の蟻でも潰すような感覚で、一人の命を奪う狂気。
派手に顔にまで飛んだ、返り血も、潰れた脳みそも気に留めた様子も無く、オリバーは次の生贄を探し、歩を進める。
住民達の様子は、それはそれはもう酷い有様だった。
絶大な信頼を置いていた人物の、突然の凶行。
疑念、戸惑い、恐怖、絶望。そういった様々な負の感情が混ざりに混ざり、人々の心を締め付けている。
信頼、希望、逃げ道。それら全てがここには無かった。
『結界』が張られ、街から出ることは叶わない。
かといって、街の中で逃げ回ろうにも、『加護者』であるオリバーはその『恩寵』である『犠牲』の力により、強化された肉体で、何処までも何処までも、一瞬で距離を詰めてくる。
その狂乱する男の言った通り、出来ることは、やがて訪れる『死』の瞬間のための覚悟だけ。
否、『死』の覚悟なんて出来る一般人が、居る訳もなく。
逃げ惑う人々に紛れて、ただただ、血の池にへたり込んで、覚悟ではなく、諦めることを選択する者達まで、現れる始末だ。
次にオリバーが目をつけた少女と、その母親も、そういった選択をした人々の類だった。
母親は、震えて涙を流す娘を抱きしめ、隠すようにして、同様に震えた。
オリバーはそんな二人にジリジリと歩み寄る。
一歩、一歩、と近づく度に、『死』も近づいていくのを感じ、一層、母と娘は互いを抱きしめる力をキュッと強め、その瞬間を待つ。
何をする訳でもない。抵抗する事もせず、恐怖に駆られ、浅い呼吸を繰り返すだけ。
だけ、だったのだが。
オリバーが目の前へとやって来て、漸く母親は掠れた弱々しい声で呟いた。
「どうか……どうか、娘だけは……娘だけは……!」
「はは、今の今まで、諦めて抵抗すらもしないで。やっと絞り出した言葉がそれかい? 本当に愚かな者達だ。待つだけで、何もしない人間では何も掴めない。何故、それを理解できないんだい?」
「おねがいします……おねがいします……おねがいします……どうか、おねがいします……!」
「そうやって言われても、同じ事を繰り返すだけ。学習する能力が無いよね。人間、なんて、弱い存在なんだ……けど、僕は違う、僕はこれから神になるのだから! だからさ、なんの生産性も無い君達は早く死になよ!!」
心の底から腹立たしげに、捲し立てるオリバーが右腕を振り上げる。
そして、そのまますぐに躊躇なく振り下ろされるその腕。
次の瞬間には、そこら辺に散らばる絵の具の一部となる。それを察した、母と娘は目を瞑り――、
「――そ、そこまでだ!」
綺麗な弧を描いて振り下ろされる手刀が、二人の身体に触れる寸の所で、声が響いた。
その声にピタッと動作を止め、振り返るオリバー。
そこには、クセのある黒髪の少年が一人、剣を前に掲げていて。
「ぼ、僕は王都配属の兵士……アルフレッド・アグラン……! オリバー・バイシェルト、これ以上の暴挙は許さない!」
言葉の内容とは似つかわしく無い程に、ナヨついた声色で叫んでみせた。
※※※※※※※※※※
「――ああ、なんだ。やっぱり王都の奴ら、もう嗅ぎつけていたのか」
アルファを目の前にして、眉間をひくつかせながら呟くオリバー・バイシェルトなる男。
異様な存在感を放つその男に、アルファは剣の切っ先を向ける。
「か、かかか、覚悟しろ! こ、この僕がお前を止めてみせる!」
「く……くくく、あっははは! どうしたんだい? 君、物凄く震えているじゃないか!! 僕がそんなに怖いのかい!?」
「黙れ、悪党……!」
男の言うことは事実だ。
アルファはガチガチと鎧の擦れる音を鳴らし、それこそ、へたり込む母娘よりも、オリバーという敵を前にして大きく震えていた。
――今にも心が負けそうだ。
いや、既に全身からは力が抜け失せ、剣も魔法も使えない状態、これではもう負けている。
だがそれでも、アルファは敵意を言葉に乗せて、自らを鼓舞するように悪態をついてみせる。
そう、絶対に視線は逸らさない。
真っ直ぐに睨みをきかせる。
その視線を快く思わないオリバーは、苛立って馬鹿にしたような態度を取り、
「もう他の奴に変わった方がいいんじゃないかい? 君では僕と戦えるとは全く思えない」
アルファを憐れんだ言葉で、アルファではなく他の、もっと戦えるような奴に、対峙する人を変えた方がいいと提案するオリバー。
しかし、アルファの他に、そんな人間はこの場に居ない。
「そうしたいのは山々なんですけど。生憎、この街に調査に来ているのは僕しか居なくてですね。最悪ですよ、こんな弱い僕が街の命運を背負っている、なんて」
「……それは、この僕がたった君一人で十分だと思われている、ということかな? だとしたら、心外だな! 僕のことを余りに舐めすぎている! 僕がそんなに簡単だとでも? ええ!?」
「いや、別に全然そんなこと言ってないんですけどね……?」
アルファの意図しないところで、勝手に怒りを膨張させるオリバー。
同時に、オリバーから放たれていた異様な存在感が黒く、淀んだ物へと変化するのを、アルファはその全身で感じ取っていた。
生理的な嫌悪を催す、その妙な気配。
アルファは、いよいよ身を削ることになる、と覚悟と恐れで身を強ばらせる。
「ああ、いいとも! そんなにも僕のことを甘く見ているというのなら、そのうちに取り返しのつかない段階までいってやろうじゃないか!! なあ、臆病な兵士君ッ!!」
オリバーは狂気を宿す目を見開き、興奮した様で叫び散らす。
その瞬間、アルファは緊張状態の限界を覚えた。
凄まじい力の本流が、空間を駆け巡り、オリバーの身体へと吸い寄せられ、流れ込み、膨れ上がって――、
「あぁ! お前も僕の糧となれッ!!」
――遂に爆発した。
飛ぶように、オリバーは地面を蹴ってアルファとの距離を瞬く間に詰める。
世界の理不尽を表現する、異常な程の速度の攻撃に、剣も、魔法も使えない少年が、反撃なんて出来る訳もなく、
「ぐ、かはぁっ…………!!」
呆気なく、その鳩尾に右腕による横払いの一撃を喰らってしまう。
砕ける防具と、強制的に肺の中から押し出させる空気の音。ゴム弾のように跳ねた身体。
少年は地面を何度も何度もバウンドしながら転がり、やがて民家の外壁へと衝突する。
その勢いたるや、外壁を崩してしまう程だ。
周りで息を呑んで見守っていた人々は、曲がりなりにも『王都の兵士』と名乗った少年が、無惨に吹き飛ばされる光景に、驚愕する。
一撃。たった一撃で、少年は命を散らせた。
その映像が、人々の絶望の色を濃くしていく。
「ははは! 実にいい! 今までに無かった大きな力を感じる!! どんどん、どんどんと近づいているッ! 神の領域はすぐそこだ!」
己の内から湧き上がる力に、嬉々とした表情を浮かべながら、自分の手を見つめるオリバー。
暫くして、ゆったりとした動作で、辺りを見渡したオリバーは、にやりと笑い、
「……邪魔が入ってしまったね。君達も早く僕の一部になりたいだろう? はは、大丈夫、すぐにしてあげようじゃないか」
再び、怯える母と娘に鋭い殺気を見せる。
折れた心は、兵士の少年が為す術なく殺されたのを見て、更に粉々に砕け散っていた。
オリバーが歩み寄り、もはやこれまでか、となけなしの生への執着も母娘共々、投げ捨てようとした――その時だった。
「――まだ、僕との戦いは終わってませんよ……!」
その声に、人々の今から肉塊と化す二人に注目していた意識の矛先が、声の主の方へと一気に移動する。
有り得るはずのない声だった。
誰もが、その声の主が軽々と吹き飛び、瓦礫に塗れるのを見た。そして誰もが、その結末を信じて疑わなかった。
だが、それを真っ向から否定して、その黒髪の少年はボロボロの身体で、気丈に振る舞う。
「はぁっ、はぁっ……! 流石に死ぬかと思いましたけどね。ほんと、冗談じゃないですよ……!」
垂れる血反吐を乱暴に腕で拭いながら、フラフラとした足取りで少年――アルファはやけくそ半分に笑う。
死んだはずの少年が、眼前で息を切らしながら軽口めいた物を口にしていた。
そんな姿を見たオリバーは一瞬、呆気に取られながらも、すぐに余裕の表情を取り戻し、嘲る。
「馬鹿な……いや、そうか。まずは、その丈夫さだけは褒めてあげようじゃないか。でも、ご自慢の剣はどうしたのかな? もしかして、折れちゃったのかい? それはそれは、悪い事をしたね。くくっ」
「ああいや、どうせ持ってても振れないので、邪魔なだけかと思いまして……自分で捨ててきました」
事の行く末を見守る人達からしたら異様な言動だった。
兵士がその武器を失うなど、絶望的である筈なのに
、対する少年は気にしていない様子で。
その事が気に食わなかったのか、オリバーはまた声を荒らげる。
「一端の兵士が、自ら武器を捨てた……? はは。ははははは。はははははっはっは!! ……僕を馬鹿にするのも大概にしろォッ!!!」
怒号。そして、強烈な破壊音。
オリバーは怒りのままに、少年の首へと、横薙ぎの手刀を繰り出した。
すると、またもや一切の抵抗も許されず、鮮血を撒き散らしながら吹き飛ぶ少年。
前回の繰り返しの攻防だ。容赦ない一撃と、防御の構えも取れないままぶっ飛んだ兵士。
誰が見ても勝敗は明らかだった。
しかし、オリバーは飛び転がる少年の姿を見て、違和感を覚えずにはいられなかった。
「……!? 何故だ、何故!」
「――――」
「何故、君の身体は潰れない!!」
オリバーの声に、周囲の人々はハッとして倒れ込む少年を眺めた。
オリバー・バイシェルトの『恩寵』――『犠牲』の効果により強化された肉体であんなに軽々と、原型を留めない位までに潰れた命だった者達を見た。
が、少年はオリバーの先までの軽い動作ではなく、思い切りの一撃を受けたにも関わらず、人の形を保っていた。
血は飛び散っている。
いるが、内臓までは出ていない。
それはそれは、不可思議な状態で。
「げほっ……げほっ! ああ……息がつらい。つらいつらいつらいつらいつらい!」
噎せ返りながらも、弱った鹿の如くの足で、力無さげに立ち上がる少年。
満身創痍だ。けれども、少年は尚も、オリバーを睨みつけ――。
『いずれお前も強大な敵を相手にする事もあるだろう。いいか、アルファ』
少年、アルファの脳裏にはとある日の師の声が響く。
「――そういう時はまず顔を上げろ。敵の挙動から目を離すな。それから……守るべき者を意識しろ、そうすれば自ずと『力』が湧いてくるはずだ」
突然に、呟いた少年。
「……なんて言われてたんですけどね。力なんて湧かないじゃないですか師匠。湧くどころか、足が竦んで震えてますよ」
やはり、あの巫山戯た師の教えは信用ならない、と首を横に振るアルファ。
だが首を振っても、絶対に視線は外さない。
陰口をつきながらも、一生懸命に師の教えを守ろうとするところに、根の真面目さが出ているのだがアルファ本人は気づかない。
ブツブツと文句を垂れる少年の様子に、信じられないと、いった様子のオリバーは三度目の攻撃へと転じる。
「おい、もう苦しいだろう? さっさと楽になりたいだろう? ほら、ほらほらほら!! ほら!!!」
今度は、何度も、何度も何度も手刀を続けざまにアルファの身体へと打ち付けた。
その度に鮮やかな血が、ビシャビシャと辺りへと飛び散り、元々あった赤の池に同化する。
だが、だが、だが、だが。
連撃の最後の一撃。
またまたまた彼方へと発射される少年。
――だが。少年の身体が物言わぬ肉塊へと変貌することは無かった。
それどころか、立ち上がる少年の減らず口は勢いを増していく。
「……あっはは。こうまでなっても、やっぱり僕は何も。本当に怖いですよね、これ」
「君、そろそろ気持ち悪いよ。抵抗する力も無ければ、恐怖で震えるばかり。もう、さっさとくたばってくれないかな? 次は、『恩寵』の出力を増やしていくよ」
オリバー・バイシェルトの右手で光り出す謎の紋様。
冗談では無さそうだ。次の攻撃を喰らってしまえば、どうなるか分からない。
本能が、『逃げろ、逃げろ』と警鐘を鳴らす。
でも、アルファは。
「……なんででしょうね。僕だって、本心では早く楽になって、この苦しみから開放されたい。そう願ってる筈なのに」
オリバーが纏う力の渦が、激しさを増していく。
「けど……僕に対するモノさんの、皆の期待が、人の命の重みが僕を眠らせてくれない。立つ力なんて残ってない筈なのに、勝手に身体が、起き上がるんです」
その渦は、紋様の浮かぶ右手へと圧縮される。
諦めたい。
そんな思いは違う別の思いに打ち消される。
だって――、
「はは……なんだ、夢が叶っているじゃないか」
力の込められた右手が、アルファを向いて構えられる。
「どんなに弱くても、今、僕は人の命を背負って、それを守るためにここに立っている……!」
そして遂に、全てを貫く一槍となった男の右腕は、空気すらも切り裂き――、
「そう、まさしく今この瞬間――――僕は、英雄だ!!」
「――――死ね」
――深々とアルファの胸を貫いた。
ごぼごぼ、と血の泡を吐き、明らかに流してはいけない量の血液が、貫かれた胸から男の腕を伝って溢れ出る。
まるで壊れた蛇口の如く。
どばどば、どばどばと。
やがてグチュッという気味の悪い音と共に引き抜かれた男の腕。
――心臓を貫いた。
今度こそ、オリバーは眼前の少年の死を確信する。
それから、ニタっと笑い、意外と手こずった相手への勝利を喜ぶ。
「ははは。随分と手こずらせてくれ、た――――」
そうやって喜んだのも束の間、オリバーは遂に、恐怖の滲んだ驚愕の表情を見せた。
不可解だ。
こんなのは有り得ない。
確かに、心臓を貫いたはずだった。
しかし、
――少年の身体は、倒れ込むどころか、膝さえ突きやしなかったのだ。
だから、脅威の存在に、オリバーは畏怖を覚えずにはいられなかった。
「……君は本当に、人間かい?」
「ど、うした、んです……? 僕は、まだ、やれっ、ますよ……!! さあ、こころゆくまで、たたかいましょう!!」
途切れ途切れの声。
アルファは、敵へと食らいつく。
勝つことが出来ない英雄は、負けも認めない。
命の全てを使って、希望へと繋げてやる。
そんな気概と共に、
――最弱の英雄は、挑発的な笑みを零した。