二章第9話 帰還
四足歩行するこんな肌色の生物をモノは知らない。
それだけでは無い。眼前に現れた生物は、人間との類似点と相違点を身体の随所に散りばめていた。
人間と同じ目と鼻と耳と口がついているが、その目が五つ付いている。
人間と同じ腕と脚がついているが、背中からもう二本腕が伸びている。
人間と同じ胴体と頭を結ぶ首があるが、その首が螺旋階段みたく捻れている。
五つの目が付いた顔の各パーツの位置もバラバラで、口が頭のてっぺんにあったり、耳が顔の真ん中にあったりと、滅茶苦茶だった。
腹の中を全部ひっくり返すような吐き気を催す、生理的嫌悪を感じさせる奇っ怪な生物が、モノを見つめていた。
「う……つわ……み……し……」
その生物は荒い息のような物を吐き、何やら呟く。
だが、其の内容は途切れ途切れで聞き取ることが出来ない。
モノは生物とは対象的に、息を飲み黙り込んで、身体を強ばらせながら見つめ返す。
一つの生き物から五つの視線を向けられるということがとにかく気持ち悪い。
モノは何かプレッシャーのようなものを与えられ、蛇に睨まれた蛙の如く、身動きが取れなくなっていた。
「い……ろ……く……せか……い、あぁぁあああっ!」
「ひ……っ!」
突如全ての瞳から大きな雫を零し、酔いしれたような波打つ声を放ち、こちらへと動き始める化け物。
モノの中の動物の本能が、必死に『アラーム』を鳴らす。しかし竦んだ脚は、モノから選択肢を奪っていく。
身体を引き摺ってでも、扉を開け、悲鳴が掻き乱すあの空間に戻る? そんなのは嫌だ。
それなら、また逃げ回る? 足が身体が動かない。
それなら、ジリジリと距離を縮めてきている『あれ』に立ち向かう? 『最終兵器』の力があれば或いは。
削がれた選択肢。残された回答。
モノは一瞬の思考ののち、上擦った声で、あの言葉を呟く。
「『最終兵器』、起動……!!」
だが――、
『――色彩係数の上昇、確認出来ませんでした』
脳裏にバチッといつもの声が鳴り、あの正体不明の力が、『白の色彩』が、感情と世界とをリンクし、空間を染めあげる――――なんてことは、一向に起こらなかった。
「な、んで……!? 『最終兵器』、起動……!」
『色彩係数の上昇、確認出来ませんでした』
もう一度試みるが身体に変化は無い。
――どうして。どうして、どうして。
「『最終兵器』、起動……!」
『色彩係数の上昇、確認出来ませんでした』
「『最終兵器』、起動! 起動! 起動! きどおっ!!」
『色彩係数の上昇、確認出来ませんでした』
いくら叫ぼうが、湧き上がる力も無ければ、あの白く光る絵の具のような靄が、モノの周りに浮かび上がることも無い。
ただただ、同じ言葉が、頭の中でループされるだけ。
気付けば、奇妙な化け物は、もうモノの顔のすぐ側まで顔のような物を近づけてきていて、
「あ……ぐ、おま、え、な……ぜ……ぐぅぅ、ぎああああいあああああっ!!!」
「あああぁぁっ……!」
急に苦しみ悶え始める怪物に、恐怖の感情が限界値を越えたモノは、目と口を大きく開け、涙と悲鳴を漏らす。
グラグラと動く頭を抱え、聞く者の精神を削る音を、その頭部の頂点についた真っ赤な口から絞り出す『それ』は、
「ぁ――――」
ピタッと、不意に動きを止める。
それから、ぐりん、とまたモノの顔の前へと、息がかかる距離に、顔を近寄せ、ほくそ笑んで、
「――――みつけた」
鼓動が跳ねた。
否、全身が跳ねた。
この感覚は覚えている。
予想が正しければ、次にやってるのは悪寒と、孤独。
前と、違うところもあった。
モノが抵抗するどころか、早くこの場から離れたいと願っているからだろうか。
世界の『チャンネル』が切り替わるように、素早く、その景色は遠くへ、遠くへ、小さくなっていく。
一度目は、望まぬタイミングで。
今回は、望んだタイミングで。
その『現象』はやってくる。
全ての要素が遠ざかり、また新しい全ての要素が近づく。
地獄のような叫びも、醜悪な怪物も、焦燥も、恐怖も、それは全てを置き去りにして――。
二度目の『突発的テレポーテーション』。
世界はモノを拒絶した。
※※※※※※※※※※
「――――ッ! ……?」
尻もちをついているのは、金属の床ではなく、石材で整備された道。
見上げた視界にあるのは、部屋中に張り巡らされた管ではなく、三日月が輝く、澄んだ夜の空。
嗅覚を刺激するのは、腐ったような悪臭ではなく、硫黄の臭い。
「戻って、きた……のか?」
辺りを見渡し、見覚えのある街並みを眺めたモノは、アゼルダの『温泉街』へと戻ってきたことを確認。
「一応、助かったってことで良いんだよな……?」
虫唾が走るあの言いようもない不快。全身を支配した恐怖。それらの濃すぎる感情が、尾を引っ張ってはいるが、その原因となったものは今、ここには無い。
頬を伝っていた汗が一粒、地面に落ちるのを感じたところで、モノはようやく、危機的状況を脱したことを確信し、
「…………っつはぁぁぁぁぁぁ。まじで、なんなんだよぉぉぉお……!」
深く、深く安堵の息を吐き、全身を脱力させるモノ。
それから、目尻に溜まった涙を人差し指で拭き取り、その場に仰向けに倒れ込む。
極度の緊張からの解放。全身を襲う疲れに抗えない。
まだ鼓動は五月蝿いが、今は重圧から逃れたことが嬉しかった。
気持ちとしては、悪い夢を見て、目が覚めてそれが夢だと知った時と似ている。勿論、厳密には別物だが。
「このセリフ何度目だろって感じだけど……わけわかんねえ。いやもう、ほんとに。今回ばかりは本気でわからん」
突然別の場所に飛ばされたかと思いきや、人体実験施設で、化け物に遭遇して、再び元の場所に戻ってきた。奇想天外が過ぎる、全く上を下への大騒ぎだ。ごった返し的な意味合いで。
いや違うか、温泉街を実験施設への大騒ぎか、文字通り。うん、余計に訳わかんなくなってきた。
「夢……じゃないよな。仮に白昼夢だとしても、昼でもねえし、想像力が豊か過ぎるぞ、俺」
ボヤいて、脳内に浮かべるのは最後に出会ったあの怪物。あんなものが自分の想像から産まれたなんて考えたくもない。
「うわ、思い出しただけで鳥肌が……と、それに」
あの気色の悪いフォルムを思い出し、ゾワッと身体を震わせるモノ。
とまあ、人間爆発も化け物もそうなのだが、それと同等に不思議なのが、
「……『最終兵器』が発動しなかった」
そんなにこの力を使い込んでないし、理解もしていないが、この身体に生まれ変わってから、頼ってきたのは事実だ。
集落での一幕しかり、アルファを助ける時然り。
モノも、色の力は自分の望んだ時に使えるものだと思い込んでいたのだが。
「何か条件があるのか? 時間帯……は無いな、集落の時は深夜で、アルファを助けた時は真昼間だ」
『最終兵器』の力に、何か発動条件があると睨んだモノは、周りの目を気にせずに寝転んだまま思考を巡らす。
「ってなると一番有力なのは場所か……。あの場所では使えない、とかどうだ? ……何なら今発動できるかどうか試してみ――」
「あーっ!! モノたん!!!」
何か使用制限のかかる場所があるのではと仮説を建て、証拠を得るために、この場で『最終兵器』を起動させようとしたモノ。
そこに、あの活発な声が投げかけられる。
「めっちゃ、め〜っちゃ探したんだからね! 急にいなくなっちゃうんだもん、ナナリン気が気で無かったよ〜!!」
その声は怒っている、というよりも心配が勝っていて。
近づいて、寝転んだモノの顔を上から覗き込む、蜜柑色のツインテールの猫のような可愛らしい少女。――ナナリンだ。
「ナナリン……!!」
今日知り合ったばかりではあるが、気を許している少女の声を聞き、顔を見て、重荷が消えるような安心感を覚えるモノ。
冗談無しに、友人の顔を見るというのはここまで落ち着くものなのか。
ナナリンの元気な姿に、あの地獄から戻ってきたことに改めて実感を抱く。
「あれ、モノたん泣いてるの? どうしたの、何かあった!? ナナリン怒ってないよっ」
「あ、はは……知ってる。大丈夫、ナナリンの顔みて安心しただけ」
「え、何それプロポーズ……? モノたんナナリンと結婚する?」
「それは無い」
ほっ、としたことで、何かじーんと込み上げてくるものを感じ、少し涙が流れてしまう。
さっきとは違い、温かい涙をもう一度人差し指で拭き取り、心配するナナリンに笑顔を見せる。
ほんとに、この少女はどれだけモノの沈んだ心を救えば気が済むのか。
まあ、本人は、あまり自覚は無いのだろうが。
と、何やら飛躍した話をし始めたナナリンに否定をしつつ、モノは起き上がる。
「よいしょ……さて、宿に戻るか」
「うぇ? 何してたのか聞いてもいい?」
「あー、それはごめん。上手く言えそうにないわ」
「そっかあ……きゃはっ★ うん、ナナリンはモノたんが言いたくなかったら別にいいよ。……けど、モノたんが辛くなったら何時でも相談乗るからね!」
「ああ、ありがとう」
やっと言えた感謝。
一度は『突発的テレポーテーション』に奪われた言葉。
何をしていたのかを話そうとしないモノに、深く追及してこないナナリンはやはり優しい。加えて、何時でも相談に乗ると言われた。
それだけで気が晴れる。それだけで心強い。
ようやく力の入るようになった身体。
しっかりとした足取りで、宿へと歩を進め始める。
「……あ」
「モノたん?」
その足をふと、すぐに止めたモノに、ナナリンが不思議そうに首を傾ける。
何を隠そう、さっきまで暗闇の中ホラーチックな体験をした訳で。
その恐怖はまだ完全には消えてない訳で。
だから、うん、その――、
「あの……やっぱり宿、同じ部屋でお願いします!」
こんなの一人で寝れるわけないじゃん。