二章第8話 『突発的テレポーテーション』
――――ポツン。
それは断続的で単調なリズムだった。
何処から鳴っているのかは、なんの材質か、冷たい壁に反響して分からない。
視覚で確認しようにも、光源が足りておらず、薄暗くて情報が入ってこない。
しかし、触覚は敏感で。
尻餅をつき、もたれかかった身体からは、何やら凹凸の多い硬い感触。
その凹凸の一つを掴んで、体重を支えながら、震える身体を起き上がらせる。
――何処だここは。
鼻の奥に針を刺すような生臭さと、呼吸をする度に肺の袋が不快感で満たされる埃っぽさ。
そして、天井に、いや、部屋中に張り巡らされた謎の管。
その全てにおいて、覚えがない。見知らぬ場所だ。
「ナナリン!! どこだ居ないのか!?」
アゼルダ温泉から出て、ナナリンと宿に戻るはずだった。モノを慰める為、振舞ってくれた彼女の優しさに感謝を伝える筈だった。
が、《現象》はその機会の全部を奪い取っていった。
世界から遠ざかり、全てを置き去りにして、身体を掻き毟るような不安と孤独感で満たし、全てを与えられ、またそこにやってくるのは新たな世界。
自分の身に突如、何が起こったのかは、知る由もない。
立ち上がったモノは戸惑いながらも、震える足で移動を開始した。
一歩、一歩、また一歩と進む度に漏れる自分の吐息が白く、空気を彩り、それから霧散する。
この震えは、恐怖からか、はたまた単にこの空間の寒さからか。
やがてモノの目の前に現れたのは、沢山の金属の管が繋げられた大きい水槽。円柱型のガラスで出来た水槽の中には、仄かに光る半透明の正体不明の液体。
「なんだろう」と覗き込むが、そこには何も無く、ただただガラスにモノの姿が反射する。
何やら下から、泡がポコポコという音を立てながら、上っていたが、それだけである。
見れば、同じような水槽が、この空間にはズラリと規則正しく並んでいた。
隣の水槽へ、また隣の水槽へと、モノは移動し、それを覗き込むが、変化はない。しかし、覗き込んだ、またその奥の方に、同じような水槽があるのことに気付く。
そう、縦も、横も何列にも水槽が並んでいた。
「なんだよ……ここ」
モノは思わず白い息と共に呟く。
どれだけ周りを見渡しても、水槽、水槽、水槽、水槽――――、
「――――!」
と、首を動かし、水槽を次々に見送っていると、ある水槽の中に、不意に、丸いシルエットが浮かんでいるのが見えた。
そこに、重い足取りながら、近づいていったのは単純な興味。てっきり全ての水槽に中身がないのかと思っていたのだが、その水槽には中身があった。
だから、つい気になって、近づいた。
近づいて、そのシルエットの正体がハッキリと見えるようになった頃、モノはそれを直ぐに後悔することとなる。
「これは……!?」
丸まったシルエット。
それは魚ではなかった、かといって、何かのオブジェとかでもない。
――――それは『人』だった。
体育座りで、丸まった一人の人間の男。
それを見たモノにぞわりと、一瞬鼓動が止まるような、言い表せないくらいの悪寒が全身に波のように押し寄せる。
「ひ、ひとっ……! 人が閉じ込められて……」
――何故、こんな水槽の中に人が。
気を失っているようだが、男は時折、ピクピクと痙攣していた。何が、何のためにこんなことをしているのかは明らかではないが、モノは込み上げる恐怖に、鞭を打たれ――、
――逃げなければ。一刻も早くこの不気味な空間から離れなければ。
そうやって本能が警鐘を鳴らした、その時だった。
「――ぁ、が」
「!?」
水の滴る音と泡の音だけの空間だったそこに、奇妙な声の様なものが混じった。
反射的にモノは、眼前の丸まった男を見上げ、目を見開いてより一層注目する。
だが、その男に変化は見られない。
無意識に、モノの中の警戒レベルが最大限まで引き上げられ、全ての感覚が鋭くなり、冷や汗が垂れ、頬を伝う。
そこにまた――、
「ぅ、ぶ。あび、あぁう」
「誰だ!」
目の前の男は口を開いていない。
ならば、この空間には、他に声のような音を発している何かがいる。
そう思考を巡らしたモノは他の水槽へと再び視線を変えていく。しかし、幾ら見渡したとて、近くの水槽には何も入っていなかった。
そして――、
「……あぶぅ」
「?」
「あべっ! あげごあぎぎぎぎぐるっ! ぎゅるっ、ばびぼえばあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
「うわああああっ!?」
どこからか鳴り響いた、耳を劈くような長い絶叫。
女性の声だった。あまりの声量で痛んだ鼓膜に、モノはしゃがみこみ、目を瞑り、耳を両手で塞ぐ。
一体なんだというのだろうか。
こんな叫び声は聞いたことがない。人間の喉の限界を越えた声量、何が原因で、どういった感情で、こんな声を出しているのかが理解出来ない。
「――――止んだ」
暫くして音が止み、また静寂が空間に満ち始める。
困惑しながらも立ち上がるモノ。
同時に、モノの視界の淵で丸まった男性の痙攣が激しさを増した。
振り向いた先では、先程と同じように奇妙な声が漏れ――、
「ぁ、ひゅ」
「お、おい!? 大丈夫か!? くそ、『最終兵器』は……ダメだ、力加減が出来ない……! どうすれば!」
その声に、モノは嫌な予感を覚え、水槽のガラスを叩いて訴える。
一度、『最終兵器』の力を使おうかと思ったが、アゼルダ図書館の時と同じ理由で留まる。
もし、『無重力』を発動させ、勢いよく水槽を割ったとしたら、飛び散るガラスの破片が中の男性にどれだけダメージを負わせてしまうかが予測できない。
故に、モノは出来るだけ早く知恵を絞り、策を講じようと頭をフル回転させるが――、
「う、ちゅわ、あべびぶぶぶ、みちゃ、しぅ! うが、が、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!」
遅かった。
何もかもが手遅れだった。
叫び散らした男。その身体に異変が起きる。
腕がもりっと盛り上がったのだ。水が沸騰するかの如く、男の身体の至る所がグツグツと泡が弾けるように、膨れ上がっていく。
風船のように胸が膨らみ、腕が脚が腰が曲がり、苦痛に歪んだ顔からは内側からの圧に耐えられなくなったのか、舌が飛び出し、髪が抜け落ち、目玉が飛び出し――。
遂に限界を迎えた。
延びていた皮膚は、男の体積にキャパシティを越え、裂ける。
そこから赤黒い血が吹き出し、内蔵が破裂し、半透明だった水槽を濁った色へと染め上げていく。
人間が爆発した。
水槽の中で、抵抗も許されず、悲鳴を上げて、涙を流し、爆発した。
「あ、ああぁ……! うわあああああ!!」
その身の毛のよだつ、地獄のような光景を見た瞬間、モノの中で何かが崩れ去った。
血の気が引いて、より白くなった肌を擦りながら、モノは情けない声を漏らし、急き立てられるように、駆け出す。
ここに居てはダメだ。
逃げなければ、一刻も早く、少しでも遠くへ。
恐怖に追われるがままに、我武者羅に。
「なんなんだ、なんなんだよここぉ!!」
逃げ回っている内にも、何処かで誰かが叫び声を上げては消えて、上げては消えてを繰り返していた。
叫び声が消える度に、あんなおぞましいことが起きているなんて想像したくもなかった。
だから、出来るだけ知らないフリをして。自分は悪くない、たまたま、たまたま迷い込んだだけだと、他人だからと己に言い聞かせて。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げて――――、
やがてその必死の逃亡劇が、幸をなしたのか視界の先に現れる暗い色の金属で出来た扉。
呪いのような声を、助けを懇願しているかのような声を、自分を責め立てるように聞こえる声を、すぐにでも振り切ってしまいたかったモノは迷うことなく、その扉を開け――。
※※※※※
悪夢のような空間から抜け出し、厚い扉のお陰で聞こえなくなった声に、モノは全身の力が一気に抜けるのを感じた。
よろよろと、地獄と今の場所の境界線となってくれた扉に背を預け、そのままズルズルと地面にへたり込む。
「はぁぁっ……はぁぁっ……はぁぁっ……」
死に物狂いだった為か、気にならなかった大量の汗をかいた身体が、温度の低い空気で冷やされて寒い。
が、今のモノにはそれすらも少し心地いい。
それ程までに、あの空間から逃れられたことに、安堵を覚えていた。
そのまま思考を暫く停止して、じっとすることにより、息を整えることに成功したモノは、徐に天を見上げる。
「意味、わかんねえ……人間が、爆発して……」
いきなり知らない場所へと飛ばされて、水槽に人が入ってて、その人が爆発して。
モノが美少女として生まれ変わって以降、確かに理解出来ないことが多かったが、いずれもこのレベルじゃない。
明らかに一つどころじゃなく難易度が飛び抜けている。
「何よりここが何処なのかわかんねえのが辛い。なんかの実験施設かなんかだと思うんだけど……しかも残念。最悪なことに完全に人体実験系」
恐らく、ここは何かの実験施設だ。
何かよく分からない装置も沢山あったし、資料ぽいのも散乱している。
そこでふと、モノは足元にあった一枚の紙を拾い、天井を見つめた己の視界に持ってくるが、
「……読めねぇ。終わったな、完全に手がかりゼロ。取り敢えず、脱出は目指してみるけど、レベル高ぇぞこれ。ま、進むしかな――」
ミミズのような字で書かれた謎の文字は、読み取ることが出来ない。何か少しでもヒントをと思ったが、資料からは期待できなさそうだ。
まあ何を言ったところで、当面の目標はここからの脱出に決まりだ。多分変わることも無い。
その為には、行動を開始しないといけない訳だが、流石にあの空間には戻りたくない。
なら、進むしかないのだが。
と、思考しながら天を仰いでいたモノは、次の行動が決定したため、顔を下ろす。
「……はぇ?」
下ろして、モノは全ての動作を固まらせる。
地面と平行になった視線。その先には、気味の悪い影。
見たことの無い、肉塊のような異形の生物が、モノを鋭い『五つの』眼差しで睨んでいた。




