二章第7話 それは全てを置き去りにして
「ふうぅぅぅ…………あああああ」
優しい緑の半透明なお湯に肩まで浸かったモノは、色々な要因で疲れ果てた身体に、知らず知らずのうちに張っていた力を抜いて、深く息を吐く。
浴槽の縁に上半身を預け、凭れながら両腕をその縁に乗せて広げ、両膝も離れさせて座る姿は、我ながら少女らしくない。
しかし、これはまた心地いいものだ。
じーんと全身に広がる温もりが、身体と心を同時に揉みほぐしていくようで、モノはどんどん、どんどんと安らいでいく。
時間の流れが緩やかになったかのように錯覚するほどの、リラックス効果。
これが温泉というものなのか。
「――ふふっ、良いですよねここ」
思考レベルが下がり果て、だらしない声を上げながら天を仰いだモノ。
そこに笑いかけるのは、モノの隣で同じく温泉に浸かっている、長い金髪を上に纏めた夕焼けの空のような瞳をもつ美少女だ。
「ああ……これはいい……誰かさんのせいで、何故か温泉入る前に疲れきってたからな……余計に沁みる」
「うっ……だからごめんってば〜。それと、モノたん脚は閉じた方がいいよっ★」
その『誰かさん』に視線をちらと移すと、そこには申し訳無さそうにした蜜柑色の髪の猫のような少女――ナナリン。
先程、ナナリンはモノに抱きつき、その柔肌に興奮した挙句、鼻から大量の血を流しながら気を失うなどという、パニックを引き起こしたわけだが。
そんな彼女は、金髪の美少女の治癒魔法のお陰もあり、もう目を覚ましていた。
まあ、失った血が戻る訳では無いので、まだ少しふらついているようには見えるが。
というより、そんな状態でお湯に浸かってていいのだろうか。
「で、さっきは助かったよ、ありがとう」
「いえいえそんな。あ、申し遅れました、わたくしドロッセル・リーリアと申します。ドロシーとでもお呼びくださいませ」
「これはこれはご丁寧にどうも。純白の髪に、紫の宝石のように輝く瞳、誰もが振り返る絶世の美少女――モノ・エリアスだ、よろしく」
丁寧にお辞儀をしながら名乗る少女――ドロッセル・リーリア。
モノはその挨拶に返すべく、力の抜けきった片手の親指と人差し指でどうにか顔の前でチェックマークを作り、ナルシズム全開の自己紹介をする。
お互い自己紹介を終えたところで、また流れる静寂。
もはや、喋ることすら面倒くさくなってきている。
温泉効果、恐るべし。
と、暫く経ったところで、突然ナナリンがバシャッと音をたてながら、立ち上がる。
「……ちょ、ちょっと待って!? ドロッセル・リーリアって言った!? リーリア家って言えば、街の有名な貴族、じゃ……ん……」
何やら驚愕したと思いきや、血の足りてない身体で急に立ち上がったため、立ちくらみを起こしたのか、フラフラと、またへたり込むナナリン。
モノはそんなナナリンの様子を見て、呆れ果てた表情を浮かべる。が、それはそうとナナリンの言った内容はとても気になる。有名な貴族とかなんとか聞こえた気がしたが。
モノが不思議に思って、隣の少女に視線を移すと、その少女は優しく笑う。
「ふふ、わたくし見事にこの温泉にハマってしまいまして。お父様や使用人の目を盗んでは、こうして足を運んでいるのです。ですので、このことはどうか内密に」
「まさかのほんとに貴族!? ……お、おほん。さっきは助けを求めるためとはいえ、とんだご無礼を! お願いします、首は刎ねないでください!!」
貴族とは知らず、さっきナナリンが倒れた時、笑っていたドロシーに思いっきりツッコミながら叫んでしまった。
モノが村で引きこもっていた時は、物語系統の本ばかり読んでいた。のだが、その本の中では、大体貴族は気に入らない奴がいたら、その場で即刻首刎ね。どんなにいい事をした奴でも、即刻首刎ね。
それに沿うなら、完全にやらかした。殺される。
よく笑う少女だが、モノの目にその笑顔が、恐ろしいものとして映り始めたところで、ナナリンが頭を抱えながらゆっくりと起き上がり、呟く。
「だからモノたんのその貴族に対する偏見はなに……?」
「ふふふ、やっぱり、面白い方達ですね。大丈夫です、私、そんなことしませんよ」
この二人の反応。もしかして本の中だけの話だったか。なら、良かった。不敬罪とかいって、追いかけ回されるような事態にならなくて済む。
そうやって、目の前の貴族に、一通りビビり倒したところで、モノはふと、先までの会話の中で、とあることに気づく。
「……というか、内密にって、そもそもじゃあなんで私達に名乗ったんだよ?」
「………………あ」
内密にするも何も、最初から名乗らなければいいのだ。名乗るにしても、何か他の仮名を使ったりとか、色々な選択肢があったはず。
言うなれば、ドロシーは、自分から私貴族ですと宣言したようなものだった。
モノのそんな何気ない興味本位での呟きに、固まり、唖然とするドロシー。
それから、ドロシーはみるみるうちに顔を赤くして、目を泳がせ、
「わ、わたくし、ドロシーという、ただの街の住民でございますっ!!」
「うん、もう無理だよ!?」
※※※※※※※※※※
「それにしても、うぅ……! お、お父様に人と話す時はまず自分から名乗れって……失敗しました」
あれから十分に温泉を堪能し、浴場を後にしたモノ、ナナリン。
二人は温泉のある建物内に備え付けられたベンチに腰をかけた金髪の少女――ドロシーを囲んでいた。
顔を両手で覆い蹲るドロシーを見下ろした、モノとナナリンは目配せして、慰めの声をかける。
「安心しろよ、別に私達、他の人にバラしたりしないから。なあ、ナナリン?」
「もっちろん! きゃはっ★ ナナリンは『可愛い子の味方』だし!」
ナナリンのよく言う、『可愛い子の味方』というのはまだあまりどういう意味か分かっていないが、とにかく。
モノとナナリンは、ドロシーのことを誰かに言いふらすつもりは無いということで、一致する。
そもそも、それを言いふらしたところで、こちらにメリットがある訳では無いし、なんなら言いふらしでもしたら、権力とかで存在ごと抹消されそうだ。
「そうですか……! 私まだ、ここに来ても良いんですね……!」
目を輝かせるドロシーに、その父や使用人とやらの苦労が偲ばれる。
目を盗んで、抜け出してきていると言っていたが、今頃、そいつらはドロシーが居ないことに気づきパニックになっているに違いない。
いやむしろ、どう考えても今日に始まった犯行では無いので、またか、と呆れているのかもしれないが。
「お優しい方ばかりで良かったです……これからは気をつけますね」
そう言って、大袈裟にほろりと涙を流し、それを指で掬いとるドロシー。
そんなドロシーは、ここへの行き来の際に、民衆に紛れるためか、茶色を基調としたエプロン付きのスカートに、ヘアリボンとそこら辺の町娘みたいな格好をしている。
それでも、整った顔立ちと溢れ出る気品を隠せていないように思えるが、まあ一応はここまでバレずに来れているようなので変装の効果はあるのだろう。
「……さーてと、そろそろ私達は宿に戻るとするかな」
「そうだねっ★ お腹も空いたし!」
そんなこんなで、騒がしい時もあったが、温泉で癒しの時を経たモノは、ぬくぬくとした身体を伸ばしながらナナリンに視線を送る。
それからナナリンはその視線を受けて賛成の意を示した。
「ではこれでお別れですね」
「ああ、またバレないように気をつけろよ」
「ふふっ、はい」
あの調子だといつバレてもおかしくないと、モノは若干心配が残りながらも、そのままドロシーとの短い挨拶を済まし、ナナリンを連れ、宿へと向かうため、その場を後にする。
「ふへへ、ドロシーちゃんも可愛かったな〜」
「お前、さては可愛ければ誰でもいいんじゃ?」
「きゃはっ★ あれあれ、もしかして嫉妬してる〜? 心配しなくても、モノたんが一番だよっ★」
「してないわ!」
その遠ざかっていく声を聞き、後ろ姿を見つめたドロッセル・リーリアがくすくすと笑ったことに、モノは気づかない。
それから少しして、彼女が何か思いつめたように眉を潜めたのにも、モノは当然、気づかなかった。
※※※※※※※※※※
ドロシーと別れ、温泉施設から出て数分。
モノ達は宿へと戻るべく、すっかり暗くなった夜の街並みを歩いていた。
温まった身体に触れる夜風が少しくすぐったい。
「いや〜いい湯だった! 最初はどうなる事かと思ったけど、意外と何とかなったし」
「だね〜っ★」
『温泉』というものに入ったのは、知識はあったものの、今日が初めてだった。
本当に気持ちいいもので、出た後も、こうやって全身の血行が良くなっているのがよく分かる。
「極楽……っつう表現も分からなくはないな、うん」
「きゃはっ★ なんでか上から目線っ★」
確かに温泉に行ってきたという、村のジジババ達が『極楽じゃった』と口を揃えるのも頷ける。
先程までの心地良さを思い浮かべていると、ふと、数歩先を歩いていたナナリンが足を止める。
どうしたのかと、その背中を見つめていると、ナナリンは振り返り、
「――少しは落ち着いたみたいで良かった」
「え?」
「きゃは。ほら、モノたん図書館行った後、めっちゃ思い詰めた顔してたから」
「……ぁ」
ナナリンの口から発せられた、思いがけなかった言葉に、鼓動が震える。
ウェルトが二年前に滅んだと知り、打ちひしがれていたあの時。夕焼けに刺され、ぽつりぽつりと歩いていたあの時。
こいつはそんなことを思ってくれていたのか。
出会って間もないモノの、表情を見て、それで元気にしてやろう、なんて、そんなことを。
もしかしてモノが邪険にしていたナナリンの過度なコミュニケーションも、モノを元気付ける為にやっていたのだろうか。
「お前……良い奴だな」
「当然っ★ ナナリンは何時だって『可愛い子の味方』だから。それに、モノたんの身体も堪能できたし、ナナリン大満足!」
「あ、やっぱりそこは私欲なんだな」
どうやら百パー善意という訳では無さそうだが、それでも彼女の気遣いのお陰で、気が晴れたのは事実。
ナナリンが居なかったら、今も立ち直れず、鬱々と過ごしていたに違いない。
「お陰様で割と気分値は上々だ」
「きゃはっ★ 良かった〜! モノたんポジティブな顔の方が似合ってるしね!」
「ははっ」
そう言って勢いよく親指を立てるナナリンの姿が、何故か可笑しくて、少し笑ってしまうモノ。
何か、心にかかっていた重圧が、取り払われたような感じだ。
「あ〜! モノたん笑った! 可愛い〜★」
「はははっ、そうだろ? 私、超可愛いよな」
「うん、可愛い可愛いっ★」
笑顔を褒めてくるナナリンに、当たり前だろといった態度で応じるモノ。
うん、いつもの調子だ。本当に、ナナリンには感謝してもしきれない。
「……おっとと、靴紐解けちゃった。モノたんちょっと待っててね」
「おう」
と、靴紐が解けてしまったらしく、いそいそと靴紐を結び始めるナナリン。
そんなナナリンに、目が合わなくなったからか先程より素直に話せるような気がしたモノは、改めて、彼女に感謝を伝えようと、口を開き、
「なあ、ナナリン――――」
『ありがとな』と言いかけた、その時だった。
「――――ッ!?」
ドクン、と心臓が、否、全身が跳ねた。
身体を巡る全ての血管が、鋭い熱をもって一つの脈を打った。
「な、んだ……これ……!」
次に来るのは悪寒。
背筋がまるで氷を直接当てられたかのように、冷えていく。
「ぁ、ナ……ナ……リン……!」
自身に起きた突然の異変に、モノは一番近くにいた少女へと声を振り絞る。
だが、その声は届いていないようで。靴紐を結び続けるナナリン。
しかし、こんなことは有り得ない。ナナリンはモノの言葉には絶対に反応してくれる。
過ごしたのはまだ短期間だが、その点は信用出来た。
「な、んで……だ、声が……届かない……!」
届かないのは、声だけじゃない。
伸ばした手も、彼女に触れることは叶わない。
それは何も、彼女が避けたとかそういう話でもなく。
彼女に触れる直前で、モノの方が何かに引っ張られたようで。
――遠ざかっていた。
モノの身体が彼女から、世界から遠ざかっていた。
吸い寄せられるように。はたまた落ちていくように。
「待ってくれ! ナナリン! 聞こえないのか!? なあ!?」
頭のてっぺんから、足の指先の一本一本まで。
細胞の一つ一つまで須らくが、世界から徐々に剥がれ落ちていく。
「くそお! なんだよこれ!! どうなってるんだ!?」
怖い。
怖い怖い怖い。
まるでありとあらゆるものに、己の存在を否定されるような感覚だった。
得体の知れない恐怖で、全身が震える。
しかし、次の瞬間には、その震えも遠ざかる。
寒い。
寒い寒い寒い。
何もかもを拒絶され、突に感じ始めた孤独で、心が凍える。
しかし、次の瞬間には、その孤独すらも遠ざかる。
「置いていかないでくれぇ!!!」
夜の街並みも、温泉特有の硫黄の香りも、火照った身体も、ナナリンの優しさも、伝える筈だった感謝の言葉も、その『現象』は何もかもを置き去りにして――――。
「…………っ!」
一度全てが離れていったところで、やってくるのはまた新しい感覚だった。
硫黄の匂いは、埃っぽく、生物を腐らせたような悪臭へ。
目に映る景色は、夜の街並みから、金属の管が張り巡らされた薄汚い空間へ。
温泉で温まった身体は、突如感じた凍えるような寒さで急激に冷えて。
出かかった感謝の言葉は、その伝えるべき相手を失った。
「こ……ここは…………!?」
そう、気付けばモノは見知らぬ空間へと投げ出されていた。
さっきまでとは空気も見た目も全く違う、別の場所。
当然の事ながら、突如自分の身に起こった事態に困惑するモノ。
その脳裏にはやはり、あの、感情のない声が響いて――、
『ピー……ピー……当機体に《異常現象》の発生を検知。原因は不明。起きた現象は――――
――《突発的テレポーテーション》と推測されます』
遂にやって参りました『異常現象』第一弾!
からの二章起き上がり&チュートリアル終了!!!
突然、テレポーテーションしたら怖くね? って思って書き始めたのがこの二章です。
ちゃんと今回もハッピーになるので、そこはご安心下さい。