第8話
月をも凍りそうな寒空の下、肌を突き刺す風に身をさらし、黒い海に向かって飛び込んだ。
黒い海は闇そのものであが、頭上に浮かぶ月は何故か綺麗に見えて、それが最後の俺の心に微かな安らぎを与えた。
そうして、死というものを感じる前に意識は彼岸に向かい消えていく。
自分の死について考えたこともなかった。
死生観とは、変哲な人間、暇を持て余した人間の極致ではないかと、そう考えていた。しかし、自分が死んだのだと自覚するとその言葉が頭から離れない。
そして、何よりも、あの死に直面する最後まで自分の感情が一切ぶれなかったというのは理解しがたい。
あの感情はなんだろう?
悲しみでも切なさでもない。そういった感情はとうに過ぎ去って、何も感じず、何かを考えようという気すら起きない。
あれは無だな。
バイクにまたがってあの崖にたどり着くまで、俺の感情は無そのものだった。何に対しても興味が湧かず。その先の未来についても気にならない。
店主との会話も、ホテルの受付嬢との会話にも感情はない。趣味も、仕事にも感情がない。
ただ生きているのみだ。傀儡のように人間の形をしていながら、感情が、魂がないようだ。
無気力に自堕落に生きていた。
そんな俺が最後に向かったのが死というものだ。
結局、無感情でいるのにも嫌になったのかもしれない。
しかし、何故そんな状態になったのか、今の俺には分からない。今の俺からすれば、死ぬことほど馬鹿馬鹿しいこともない。
そんなフウに唾棄すべきことだと胸を張って言える。しかし、記憶の俺を見ると、狂ってしまっていたようにも見えない。
ただ冷静に、すべての事柄を考えた上で、最終的にあそこに落ち着いたような面持ちであった。
なぜ、そんな状況になったのか分からない。
俺に何があったというのだろう?
いや、それは考えても意味がない。それよりも、現状、俺がどう生きていくかを考えるべきだ。
二度目の人生をどうするのかを考えるべきである。
さて俺はどうやらこのままでは死ぬかもしれない。
二度目の死というと何か小説のタイトルじみて、気恥ずかしい。
頭痛から始まった俺の二度目の人生は、事あるごとに既視感が襲う。あれは考えれば、前と同じ道を歩いているという証拠ではないだろうか。
転じて、その既視感が無くなれば俺は死なない未来を手に入れることが出来たということだ。
では、どうすべきだろう。
一つ、今までの選択で良い点がある。
本田の誘いを断ったことだ。
彼女と付き合うというのが前の選択で、今回はそれを断って、未だ俺は童貞野郎なわけだ。
これにより多少、未来は変わっただろう。
今後は既視感を忌避し、生きていけばいいだけかもしれない。まぁ。そうではないかもしれないが。
それについては結局、どうして前の俺が死のうと思ったのか。その原因が分からなければ、意味のないことだ。
そして俺はその過去について、一つ気になることがある。
それは宮藤 桔梗のことである。
彼女と会って、触れたその時、記憶が流れ込んできた。
彼女も同様に何かを見たのかもしれない。それゆえ、彼女は今も学校に来ていない可能性が高い。
夏休みが終わり、始業式。
今日も彼女は来ていない。
あれは偶然だろうか?彼女に触れたとき、たまたま記憶が蘇ったのか?
彼女はもともとおかしな娘で、急に泣き叫ぶ病気なのか?
いや。違う。何故かそう断定できる。
あれは何か原因があるはずだ。
彼女に触れて記憶が戻り、彼女が何かを見たのには必ず理由があるはずだ。
俺は彼女にもう一度、会わなければならない。彼女に会えば、何かが分かるはずだと、そう思った。
秋学期が始まり、9月に入った第一週目。
俺は放課後、橘たちの誘いを断って、担当の岩井に頼まれたという体で彼女の家に向かった。
「最近、付き合い悪くない?」と本田が文句を言っていたが、無視した。
引きこもりの更生に岩井は悩んでいるはずだという俺の推測は当たり、岩井に彼女が心配だと言うと、学校のプリント類を彼女に渡す役を易々と引き受けることができた。
俺が校門を出たとき、天気は荒れており、雨の降る中、彼女の家へと向かう。
電車が揺れて、灰色の空と古びた町が流れていく。それをボーッと眺めていると、ふと懐かしい気持ちが湧いて出た。
俺はもしかすると、前もこうして彼女の家に向かったことがあるのかもしれない。
それはこの間から覚える既視感に似ている。しかし、嫌な気にはならなかった。ただ、謎の緊張感があって、それは今から彼女に会いに行くからかもしれない。
そう自分を納得させることにした。
この先、いちいちこの既視感に振り回されていては、生きていくのもむつかしい。
学校から五駅離れた彼女の家に着いたのは、ちょうど夕方5時過ぎ。
空は未だ浮かない色合いで、灰色から徐々に黒い絵の具を重ねていけば、ちょうど今の空を表現できるだろう。
彼女の家は案外、早く見つかった。
岩井から住所は聞いていたが、携帯ですぐにマップを出すのも面倒な時代だ。地域看板を見ても果たして彼女の家が分かるだろうかと不安に思っていた。
しかし、駅を降りると自然と足は彼女の家に向かった。
勿論、俺は彼女の家に行ったことはないはずである。
だが、俺は迷うことなく十字路を曲がり、交差点を渡って彼女の家へと向かう。
知らない土地は知っている土地へと姿を変え、並ぶ民家も俺の知っているものへと変化していった。
そうして、今、彼女の家の前に立っている。
表札は少し字が薄れてはいるが、宮藤と読める。どこにでもあるような一軒家で、ガレージには白い軽自動車が止まっている。これも見たことがある。
玄関は黒で、確か、ドアを開けた先には靴の収納棚の上に花瓶が会って、色彩豊かな花が出迎えてくれるはずだ。
俺は迷いなくインターホンを押した。