第5話
記憶があやふやになって約3カ月が過ぎた。
季節は7月。
雨期と暑さ、それに伴った湿気に嫌気がさして、教室では、漆原が自分のうねりを帯びた毛先を気にしていた。
教室の窓から見える、外の景色は雨粒によってぼやけて見えて、そこに自分の歪んだ顔が映し出され、ふと、若いなぁ自分と達観してしまう。それとも単なる思い込みなのか。
ため息とともにそういった感情も全て吐き出してしまいたい。
この数カ月で錯綜する記憶との折り合いを自分なりにつけてきた。
窓を眺めていると、漆原はトイレに行ってくると、ワックスを片手に消えていった。
今日の放課後、橘たちとまたカラオケに行こうと言っていたが、漆原は先輩の女子とデートだから行けないと先ほど告げられた。
彼らや教室を見渡し、自分の記憶と合っている部分と、どこか間違っている部分を検証する。
そういった細やかな差異を発見すると、どこか自分という存在の是非を問われている気分になり落ち込んでしまう。
俺は3ヶ月間、そんなフウにこのぼやけた記憶の謎を解明するべく動いていたわけだが、とくに確証の持てるものはなかった。
単に頭をぶつけただけだと思えば、その通りであるが、どうにも腑に落ちない。何かがおかしいのだ。
俺という人間の人間性を周りの人間に訝しがられ、妹にまで変だと言われれば、不思議に思っても仕方ないだろう。
何かが決定的におかしい。
この何カ月か、俺は同じクラスの宮藤 桔梗さんを見れば、胸が高鳴るという謎現象にも悩まされているわけであるが、それも考えてみればおかしな話だ。
俺は彼女との接点はないし、話したことすらない。
一目惚れを理論的に解明したいとかではないが、それにしても、あの初めて見たときの感情の激動は自分の中で納得できるものではない。
この想いももしやあらぬ記憶に踊らされているだけではないのか?と勘ぐってしまう。
これに関しては彼女に話しかけてみるしか、自分を納得させる方法はないが、しかし二の足を踏んでしまう。
当たり前である。
好きな子に話しかけるのがむつかしい年ごろなのだ。
おかしな点は他にもある。
テストでの点が何故か著しく上がっていた。
曰く、激怒し、友のために走り、かの邪知暴虐の王を改心させるそうだ。曰く、四大文明は全て大河流域に発生しているとか。曰く、微分積分は生活にはあまり使われないが、今後の生活のどこかで活きてくる知識だとか。
曰く、学校での知識も馬鹿にできたものではない。
最後のは俺の経験則に基づくものだが、果たしてどこでそんな経験をしたのか?
俺の今までのテストの点は橘に聞けば赤点ギリギリを死守するほどの点だったらしい。そんな俺が70点台をどの科目でもキープしているのがおかしいらしい。
テスト週間なんてものがあって、勉強し放題ならば勉強しないほうがおかしい。勉強とは時間も金もかかるものなのだ。
そんなフウに勉学を捕えるようになったのは、はていつの頃からだったか?
それを小西に言うと、苦笑されて「美月はいつから真面目になったの?」と少し驚かれた。
他にもまだある。
目につくすべての店やら、社会事情がやけに古く感じることだ。ニュースを見ていたら、ああ、こんなニュースを見たことあるなと感じることが増えた。
それはよくあることであろうが、どうにも頻度が多いように感じる。
既視感とでも言うのか。それは記憶が朧気になっていることと関係がありそうだが、頭を打って、新しい知識を得るなんてことは聞いたことがない。
それとも、急にIQが湧いて出て、記憶力が驚くほど上がったとか?いや、そもそもIQが湧いて出るものかも知らないが。
まぁ、その線は、たまに弁当を忘れるところからして、間違っていると断定出来た。
そのたびに、怒って持ってくるうちの妹は多分、良い娘である。
なので、先日、駅前のケーキ屋でケーキを買って行ってやると、妹は驚きながらも、どういう反応をしたらいいか分からないと言った顔で、「………ありがと」と小さく呟いていた。
しかし、これだけの問題を抱えていながら、俺は特に生きるに困っていないことに気が付いた。
そうして、この諸問題を早急に取り除く必要性を感じず、放置してもいいかとさえ思い始めていた。
「んー確かに、おかしなことだが、まぁいいんじゃないか?」
カラオケで歌い疲れた一同は、今、近所のファミリーレストランにいる。そして、イケメン橘はそんなフウに俺に言う。
小西、橘に今の自分の現状をかいつまんで説明し、相談していたのだ。やはり自分の中だけでこの問題は解決できるものではない。
勿論、本田の記憶など、変な記憶についてはあまり触れていない。
なんでも、その記憶が消える前の俺は、前述したとおりの悪童ぶりで、小西に対する扱いは酷かったらしい。
参考までに、どのような感じであったか尋ねれば、パシリに使ったり、無闇に頭を叩いたり、卓球部を馬鹿にしたりとやりたい放題であったらしい。
ちょうど、俺に注意していたらしい橘は今の状況はむしろ良いと誉めていた。
俺は小西に「なんか……今までの件に関しては誠にすいません」と頭を下げると、彼は頬を赤く染めて、手をわちゃわちゃと振って、「大丈夫。大丈夫。美月は僕みたいな暗い人間に声をかけてくれたわけだし」と何故か許されたので、今度何か奢って謝罪しようと考えた。
この小動物系のショタにそんないじめまがいの事をしていたと思うと、心が痛む。俺はすまん、すまんと頭を撫でると、「なんで撫でるの!?やめてよ~!!」と小西は藻掻く。
俺はすまんなぁ、すまんなぁと続けると、何故か橘は笑ってそれを見ていた。
「そういえば、俺が橘や、小西に初めて会った時のことって覚えているか?」
俺は自分の記憶が薄れていることを彼らに打ち明けたついでに、出会いの話を聞いてみることにした。
「なんだ、そんなことか?上原から俺に声をかけてきたんだろ?………なんだったか……あ、そうだ。高校一年の時、イケメン君、宿題見せてって言ってきたんだ」
「あ、そうなのか………めっちゃウザいやつだな。それ」
「そうだな。うざい奴だと思ったが、まぁ話してみれば、それほどでもなかったから今もこうしているんじゃないか?」
「あ、そうっすか」
俺は橘にへコへコすると、橘は俺を鬱陶しそうにあしらう。
「小西はどうだったっけ?」
「僕は、サッカー部の人達と揉めてるときに、美月が助けてくれて、そこからじゃないの?ほら、あの高一の夏に」
「ん?………えっと、ああ。覚えてる。覚えてる。当たり前だろ?」
俺が満面の笑みで答えると、小西は苦笑する。俺はここ最近、彼を困らしてばかりだ。
「ああ。忘れちゃってるのか………えっと。サッカー部の人たちに、なんか体育館を使わせろって詰められてるときに、先生呼んできてくれたのが、美月だったんだよ。それからクラスでも話すようになって………。それからは、それをダシにパシリにされてたような」
小西が話し終わる前に、イケメンの鉄槌を甘んじて受け入れ、俺は話を続ける。
「あ、わかった思い出した。なるほどな。漆原は中学からの仲だよな?」
「いや、それを俺らは知らねーよ。漆原に聞けよ」
橘は苦笑しながら答える。なるほど、聞けば聞くほど、俺は周りに恵まれているなぁと感じながら、彼らの話に相槌を打っていた。