16 崩れ始める空閑
イリーナと話し合いをしてから翌日の放課後、俺は日直だった為皆より出遅れてしまった、椿や焔は先に学内のテラスへ向かったらしく、俺も日直の仕事を手早く済ませて、テラスに向かう。この学園に来てからは目まぐるしい日々で、気がつけば一月を過ぎようとしていた、椿の事や焔の事で走り回っていたせいか、軽く一年くらいこの学園で過ごしていた気分になる。
実際はそんなに過ごしちゃいないが、忙しい時間ばかりを生きていると、老けたような感覚にもなるもんだ。まだ10代だからそんな事を言うのも早すぎるが、たまにはゆったりとした時間を過ごしたいものだ。俺は階段を早足で降っていく、購買の前を横切ってそのままテラスの入り口に入る、するとテーブルを椿達が囲み優雅に紅茶なんか飲んでいた、青田達もその様子を見ながら待機している。
なるほどな、流石はお嬢様という所か。座っているだけなのにかなりさまになっている、誰も寄せつけない空間と言うか、近づいちゃいけないような雰囲気。ゴージャスだと古い言葉のようで、神秘だと言い過ぎている、超上流階級の人間になればあの雰囲気を出せるのだろうか。
「すまない、遅れた」
「日向、アンタ日直なら日直って言いなさいよ」
「忘れていたんだ、許せよ」
「お疲れ様です日向様、こちらへ」
青田に誘導され、黄島が席を引いてくれて、そこに座ると赤川が冷えた緑茶を出してくれた。俺はこう見えて紅茶が飲めない、あの花の香りがどうにも慣れなくて、こういう話し合いの場では緑茶を出してもらっている。日本人ならやっぱり緑茶が一番だ、カテキンも含まれていて健康的だし、外れも少ないし。
緑茶を一口飲みながら周りを見るが、やはりルリの姿は見当たらない、昨日から様子がおかしいとは思っていた、特にイリーナが帰宅した後からだ、暗い表情よりも何か思い悩んでいた様な顔をしていた。そして今朝になってルリは俺に『申し訳ございません、今日は体調が良くないので、青田さん達にお世話をおまかせしております』と言ってきた、今までこんな事は無かったのにどうしたのか、色々考えたがわからなくて、本当にただの体調不良なら言うことも無いが。
「じゃ、話を始めましょうか」
「始めると言うより渡すだけなんだがな」
「うるさいわよ、ちょっと盛り上げようとしただけじゃない」
「椿の事はいいので、空閑日向? 準備できていますか?」
「あぁ、これだろう?」
鞄から1枚の白い封筒を取り出し、それをテーブルの上に置く、中には政略結婚をしない事が書かれた紙が入っている、もちろん差出人は総帥の名前を記入してある。そしてイリーナも同じ様に封筒をテーブルに置いた、イリーナが出した封筒を俺が受け取り、その逆をイリーナが受け取る。
中に入った紙には『政略結婚は白紙、今後の企業関係も全てそれに含まれる』と書かれている、もちろん本当に総帥が書いた訳じゃなく、青田がパソコンで作成した偽物の撤回書だ。お互いにこの書類を当主に見せればどうなるか、当たり前だが両者共に責め立てる事だろう、例えこの書類を偽物だと気がついても、公表してしまった後ならそれを撤回する事も出来ない。
世間は風当たりが冷たいからな、嘘だろうと本当だろうと、面白い方へ転びたくなるものだ、椿の時と同じで人は『虚言』を本当の様に話されると、簡単に信じてしまうものだ。ネットに書かれた事を信じる人間と一緒だ、そいつが本当の様に書いて、少しだけ真実を混ぜればもうわからなくなる。よくある言葉だが『嘘を吐くなら真実も一割混ぜろ』と言う、占い師がバーナム効果を発揮する為に、当たり前の事をさも『見えている』ように話したりするのもそれに近い。
「確かに受け取りました、それより空閑明はまだ来ないのですか?」
「アイツはお前に会いたくないらしいから、メールでこの事を伝えてある。アイツはアイツで動くらしい」
「空閑明、ナンパしまくりゲス野郎に会わないで済むならよかったです」
「話せば良い奴なんだがな」
ふんっ、とそっぽを向くイリーナ。用事と言う用事は終わったのだが、一応再確認しておく必要がある、それはルリを連れて帰らない約束の話だ。この女は最後まで気が抜けないからな、いきなり何かをし出すこともあるし、釘を刺しておかないと痛い目を見そうだ。
「イリーナ、ルリは連れて帰らない約束だぞ、わかっているよな?」
「はい、連れて帰りませんからご安心を。それにしばらくすれば私はイギリスへ戻りますから、この学園もあまり居ませんし」
「アンタまだ来て数日じゃない、なんの為に留学しに来てるのよ」
「元々要件が済めば帰国する予定でしたので、短期でここに入りました。その要件も済みそうですし、少し楽しんだら帰ります」
その用事がルリを奪還する事なら、お前は失敗だな。だが空閑を攻め落とす為の準備は出来ただろう、それは俺自身もやる事だったから問題は無い、むしろ損なんて一つも無い、ルリも奪われない、そして空閑に致命的なダメージを与える事も出来る。正直願ったり叶ったりで少し興奮している、このまま行けば空閑をぶっ潰せる、ようやくあの両親やその関係者を地獄へ叩き落とせる。
思わず笑みを浮かべてしまった、イリーナは椿と焔の会話に集中しているのか、こちらの表情に気がついていない、あまり表に出さないように気をつけないといけないが、高らかに笑ってやりたい気分になる。
しばらく優雅な時間を楽しんだ後、テラスの入り口が開きこちらへ向かってくる人影が見えた、ゆっくりと歩いて近づいてきたのはイリーナの執事だった、前から気になっていたが本当に男なんだろうか、髪は束ねてあるが女にしか見えない。口に出したら何を言われるかわからないし、下手に見つめたりもできない、いつかコイツの性別も探ってやりたいとか思ってしまったが、そんな機会は二度と来ないだろう。
「では皆さん、私は帰ります。また明日」
「はい、イリーナさんまた明日です」
焔だけ立ち上がりイリーナへ挨拶をした、俺と椿は座ったまま、彼女がテラスから立ち去るのを見届けた。俺達もそろそろ屋敷へ戻ろうと立ち上がった時だった、背後から着信音が鳴り響いて来た、振り向けば青田のスマホから鳴っていたようで、『申し訳ございません、直ぐに済ませます』と言いながら通話ボタンを押した。
最初は普通に話しているように見えたが、少しずつ表情が崩れていく、そして『わかりました、直ぐに戻ります』と電話の相手に告げた後、俺を見つめながら、
―――当主様が病院へ運ばれました
と、慌てる声を何とか落ち着かせながら、俺達に報告をした。




