第1話【勇者? いいえ、違います】
あいつのことを話す前に言っておくッ!
俺はあいつの力をほんのちょっぴりだが、体験した。
い、いや……体験したというよりはまったく理解を超えていたのだが。
あ……ありのまま起こった事を話すぜ。
【俺はあいつの前で化物と向かい合っていたと思ったら、いつのまにかあいつは俺の前にいた】
な……何を言っているのか、わからねーと思うが、俺も何が起きたのかわからなかった……。
頭がどうにかなりそうだった。
転送魔術だとか幻術だとかそんなチャチなもんじゃあ断じてねえ。
もっと恐ろしいものの片鱗を 味わったぜ…
あの野郎は、ただ高速で移動しただけだったんだから。
俺もだが、あの化物が指先一つ動かす暇もねえ程の速度で、だ。
まさに目にもとまらぬ、いや目にも映らない神がかった速度だったんだ。
後で聞いた話だが、その時のことを尋ねるとあいつはこう言った。
「よく覚えてないんですよ。もう、ただ助けなきゃって思ったら身体が勝手に、気が付いたら目の前に化物がいて、あぁ剣を振るんだって思って、次の瞬間には腕が化物を切り裂いてました」
剣や、あるいは武術に問わず、芸術や、学問においてさえもそこへと到達するものはいる。
けれど、それは努力やましてや才能だけでも行けるわけではない。
血の滲むような努力と人ならざる者と揶揄されるほどの狂気的なまでの才能の二つを持ち得て、初めて人はそこへと至る。
学問や魔術に秀でたものは賢者や大魔導士。
芸術においては、神の五感を得たものとして神奏者。
武術や剣に秀でたものは剣聖あるいは拳聖。もしくは武神とも。
そして、それら全て修め、さらに敵味方を問わない慈悲の心と強大な悪に立ち向かい、いかな誘惑や恐怖にも抗える類まれなる勇敢な意志を持つもの。
――人はそれを【勇者】と呼ぶ。
なんで今、そんな話をするかって?
簡単なことさ。あいつこそがその【勇者】様だからさ。
ん? なら、その勇者の話をするには随分と俺の口調が軽い?
不敬だ? もっと敬意を持って話せ?
おいおい馬鹿げたことを言っちゃいけないぜ。
あの頃から数年は経ったけど、あいつはまだまだ当時の俺よりも年下のガキんちょだ。
それに俺があいつに敬語を使う必要無いんだ。
だって俺は――。
「師匠ぉ――! お久しぶりです、勇者ローワンただいま戻りました」
「おう、おかえり」
だって俺は勇者の師匠ですけど、文句ある?
この町はとても入り組んだ形をしていた。
特に中心部から離れると元々、山を切り開いて作ったと言われるだけあってかなり高低差の激しい土地となっていた。
石造りの家も、その土地の複雑さに相応しいものとなっていた。
デザイン性などを度外視した土地に合わせることだけに注力した建築。
ある意味、芸術的と呼べなくもないが、町に住む層の関係もあって誰もここを話題にあげはしない。
誰がこんな場所に家を連ねたのか? それを知る者はなかった。
住人たちが勝手に作り上げた、と言われてしまえばそれまでだが、間違っても間違いなく、それはありえない話であった。
見た目の奇抜さを除いても、こんな場所に建築ということを成せる時点でその人物は貧民街などに住むべき人ではない。
ここの土地の不安定さは高低差だけでは収まらない。
一番のネックは中途半端に残る木々や草木などで、常に湿ったままの大地は到底、大型の建築物を支えられる地盤から程遠い。
けれど、短くとも10年以上はこの土地の家はきちんと立ち並んでいた。
どの家にもしっかりとした基盤となる土台が作られている証拠だ。隣接する家ですら、左の家の3階が右の家の1階にあった。間に挟まれた家の2階が左の家の3階で、右の家の1階にあたる。
並んでいるからこそ、余計にちぐはぐなその形には違和感が拭えない。
もちろん町外れとは、名ばかりに貧民街という言葉もここを称するに大きく間違いはない。
真っ当な仕事についているものや、少なくとも地位というものにわずかでも関りがある人間はこの辺りには近寄らない。
それどころか、こんな場所がこの町にあることすら知りもしないだろう。
ゆえに一般の人々はほとんどこの町外れには住んでいない。
こんなところに集まるのは町を追われたものたちだけ。
例えば、親に見捨てられ行き場を失った孤児がさまよい果てた先に。
例えば、戦いや病で四肢のどれかが欠損または一部が異形の様に変わってしまった人々が好奇の視線に晒されることを避けて。
例えば、町の喧騒に疲れた世捨て人が死に場所と住処を求めて。
例えば、罪を犯した者が身を隠すために――。
「師匠、おはようございます」
その町の一角、町外れのさらに外れ、崖の側にあるこの家を訪ねて来る物好きなこいつの名前はローワン。
ローワン=アンドリアゼス
「あぁ、おはよう」
「相変わらず朝は弱いのですね」
「うるせえよ」
「ははっ、全く健康な生活こそが全ての資本だ。と教えて下さったのは師匠じゃないですか」
「そんなこと言ったか?」
「言いましたよー。その頃から僕は町で休める時はちゃんと早寝早起きを心掛けているんですから」
そう言ってローワンは屈託ない笑みを浮かべる。
金髪に赤銅の瞳、身長こそ少々低いが、端正な顔立ちは風貌だけで貴族以上に高貴な雰囲気を漂わせる。
誰にでも平等に、他が為に生きていると言わんばかりに人助けを呼吸のように行う人格。実力は最早、語る必要すら持たない。
未だにこいつは俺を師匠と呼ぶが、俺がこいつに何かを教えていられたのはもう何年も前のことだ。
そもそもきっかけは妙な偶然の話だった。
○
この町にはいくつか外界に通じる地下道がある。
かつての戦争時代に緊急の逃げ道として作られたもので、近年は使われていないどころか、様々な問題の原因として厄介な代物と化していた。
当時の俺もまだ、今よりはいくらかちゃんと生きていた。
その地下道には、魔物や変異した怪物が住みついていて駆除しないと町にまで姿を出し、人々を襲うこともあるのだ。
当時、ギルドの依頼として、B級闘位討伐者の俺がいくつかのチームを率いて、その地下道駆除にあたっていた。
「よーし、このへんはもういないな。何人かは俺と奥の方も確認に行くぞ。残りの面子はこのへんに薬と聖水まいて予防しておくんだ」
駆除自体は格段、珍しいことでもなかった。定期的に行われているもので、この日も怪我人こそ出てはいたが死傷者はないまま一先ず無事に駆除を終えようとしていた。
地下道の中間点の少し先、そのあたりまで駆除をすれば、しばらくは問題はない……はずだった。
特に理由があったわけじゃない。
ただ本当に何となくいつもより奥が気になったのだ。
それだけの理由で俺は、少数で奥へと向かった。
それは一つの間違いでもあり正解でもあったような気がしている。
「な、なんだこれ」
共に来ていた討伐者の一人が呟いた。
口にこそしなかったが、俺は勿論、他のメンバーも同じ気持ちだったはずだ。
地下道の広さはそれなりに広かった。パーティー4人で横並びに立った陣形でも不便なく動ける程度に。その広さがあったからこそ、難なく魔物狩りが出来ていたと言っても過言ではない。
そんな地下道の道が、完全に白いなにかで塞がれていた。
壁のようにそれらは端から端までをきっちりと隙間なく埋め尽くしており、道は行き止まりと化していた。
俺の後ろにいたメンバーの一人が前に出て近づき、それに触れようとした。
「やめろ、危険だっ!」
俺は咄嗟に叫んで、それを制したが遅かった。
「えっ……何だ、くっついて、これは糸? え、ぐあぁっ!?」
白い壁を突き破るように飛び出した黒い二本の牙は一瞬にして、そのメンバーを白の中に飲み込んだ。
それも、上半身のみを引き裂いて。
残された下半身からは噴水のように血が噴き出し、一瞬で赤い血だまりを作ると、彼の下半身は力なく糸が切れた人形のように倒れた。
「きゃあぁぁぁぁ」
「嘘だ、うそだうそだ、うそだあぁっ」
俺を除くメンバーが声をあげて狼狽を始めた。
俺だって動揺していなかったと言えば、嘘になる。既にこの時、頭の中では自責の念で叫びたかった。
けれど、それ以上に今いる彼らだけでも守らなければ、ただその一念によって俺は偽りの平静を保っていた。
「とりあえずお前らは警戒しながら、早く戻れ。ここには俺が残る」
俺の言葉に彼らは若干の冷静さを取り戻したのか、ここに残って手伝うと言ってくれたが、正直、不測の事態には自分だけの方が対処しやすかった俺は何とか彼らを説得し、戻ってもらうことに成功した。
その間、白い壁は沈黙していた。さっき、メンバーを飲み込んだ部分の隙間も瞬く間に閉じ、再び一面の壁に戻ってしまっていた。
どうやら、これは網なのだと理解するのにそう時間はかからなかった。
持っていたバンドや老朽化して崩れた岩壁の破片などを投げ込む、先の時と同じように黒い二本の牙が一度の例外もなく喰らいついてきた。
幾度かの観察でわかったことだが、あの巨大な牙には羽毛のような細かい毛が大量に生えていた。白い壁の正体もこの時には理解した。
「蛇蝋蜘蛛か」
本来は森に潜み、大量の糸で道を塞ぎ、迷い込んだ獲物を徐々に閉じ込めて喰らう魔物。人間の数倍以上もある体格に、その蛇が如く長い首が名前の由来でもあった。
蛇の身体に似た首は本来のサイズを大きく上回る伸縮率を誇り、その狩りの成功率を高めていた。
複数の足は固定砲台がごとく、胴体を安全な場所に固定し、首だけを高速で打ち出して、網に触れた獲物を一瞬で喰らい殺す。
この地下道のように一本道の場所では森ほど獲物は来なくとも、何も知らない人が好奇心に駆られ触れてしまえば、いとも容易く蛇蝋蜘蛛は食事にありつけるだろう。
「火が、あれば簡単な話なんだが」
そう蛇蝋蜘蛛は火が苦手である。名前の由来のその二がその理由でもある。
彼らの粘着性の高い糸、それらの主成分は彼らの体内で生成される特殊な成分で構成される蝋で出来ていたのだ。
乾くまでは水分を多量に含み、どんな形や如何な場所にも張りめぐらせることが可能で、乾いてしまえば固い蝋の壁と化し、表面にはわずかな粘着性を残して、捕らえた獲物を逃がしはしない。
普通の蜘蛛の糸と違い、剣やナイフを用いても切り裂くことは容易ではなく、足を止めたその瞬間、巨大な牙に肉体を引き裂かれる。蛇蝋蜘蛛の狩りはまさに蜘蛛としての進化の一つの形だった。
ちなみに蛇蝋蜘蛛の討伐難度としてはC級闘位者であれば、容易に倒せるとギルドなどの図鑑では記されている。ただし、これは事前に準備や対策を練れている場合に限る。
単独でこの魔物に出くわした際には、逃走が最適解だ。
逃げることに悩んでいる内に逃げ道は完全に塞がれ、後はじりじりと真綿で首を絞めるようにだんだんと追い詰められるだけだ。
そういった意味では逃げ道は背後にしっかりと確保されているため、ここで出会ったことは幸福だったのかもしれない。
俺は討伐の準備のため一度、戻ることにした。
そして、振り返り歩き出そうとしたその時だ。
「……っ?」
気のせいかとも思った。けれど、かすかに音がしたのだ。
あの白壁の向こうから、何かの音が。
「まさか」
ありえない、頭ではそう決めつけていた。
だが、試さずにはいられず、足元の小石をもう一度投げ込んだ。
さっきまでと同じように牙が飛び出すはずだ。
「来ない」
そこから十秒ほど、待つも牙はおろか白壁に変化は無かった。
つまりは、この先で蜘蛛は何かに対している。
獲物を捕食しに来ないほどの何かに。
「くそっ、そんなことが」
腰にさした剣を抜いて、突きの構えをとる。
「狙うは一点、穿つは全力、好機は一撃」
ゆっくりと深呼吸して、全身の力を抜いて、また力を込める。
それを三度繰り返し、最良の力を練る。
蛇蝋蜘蛛の蝋糸に絡めとられれば、脱出は難しい。仮に既に事を終えていたら、一瞬で自分も餌食になってしまう。
「やれるか、いや……やるしかない」
踏み込んだ右足を石の地面にめり込ませ、大きく後ろを引いた左腕を真っすぐに突き出す。さっき投げた小石に切っ先をぶつける。
蝋の壁が波打ち、大きくクレーターのように白壁がゆらいだ。
「もういっちょ!」
剣の柄頭に右手で、全力の掌底を打ち込む。すると、クレーターが一瞬の静止の後、粉々に砕け散った。
障害物が無くなり、音の正体が杞憂でない事を知る。
白壁の先は、蛇蝋蜘蛛の根城に変じていた。
天井から吊るされた繭玉のようなもの、あれはおそらく人だ。
蛇蝋蜘蛛はその性質上、待ちのスタイルが強い。ゆえに大量に獲物を捕れた際には貯蓄を作る。
繭玉がまさにそれだ。捕らえた獲物を蝋で包み吊るしておく。
あの繭玉の中はやつが作った特殊な液体で満たされており、若干の養分もあり、中の生物は死ぬことが出来ない。しかし、意識もほとんど無い。
夢を見ているかのように液体の中でかすかに生きながらえる。
気がつくこともなく、頭蓋を砕かれ、血肉を噛み千切られて、その胃袋に溶かされるのを待つだけ。
「前回の討伐統括はどいつだ」
こんな住処、二月や三月では作られはしない。つまりは、前回、もしかすると前々回の討伐隊はここまで奥には来ていないのかもしれない。
仕方ない、で済まされることではないが、この任務自体が不人気であることは事実だった。町の安全確保の為に行われるこの討伐は、実質ボランティアに近いものだ。
参加人数はもちろん、討伐する魔物の数もそれに比例して非常に多く、手間や時間は他の依頼に比べても段違いだ。加えて人数で割られる報酬は割に合うわけもなく、小一時間で終わる適当な依頼の方がコストパフォーマンスも良い。
その上、この依頼はギルドに名前のある人間の場合、参加は順番に強制だ。期間が決まっているせいもあって、前後の行動も制限されかねない。不満が募り、ちゃんと実行されないのも理解出来ないでもない。
「ここまで来たなら、狩るしかないか」
そこで俺は違和感を覚えた。
おかしい、あれだけ豪快に壁を破れば、やつが襲ってこないはずがない。
そうなると答えは一つだ。
「誰かが戦っている……?」
食事なら中断するだろう、寝ているなら起きるだろう。縄張りへの侵入者があっても来られない理由は他に害がある。それしかない。
駆け足で奥に進むと、そこではやはり想像通り蛇蝋蜘蛛は交戦していた。
ただ一つ想像と違ったのは、蛇蝋蜘蛛の牙を受け止め、戦っていたのが、まだ年端も行かぬ子どもであったということだ。
「くっ、このっ!」
手には小さなナイフ、蜘蛛の身体にはわずかばかり傷もついていた。
蛇蝋蜘蛛は、C級闘位者が準備を万全に期して倒せる。つまりこれは準備を怠れば、C級闘位者でも勝てないということだ。
そんな魔物を相手には幼い子どもがあんなに小さなナイフ一本で生き延びている、まさに信じがたい光景だ。
蛇蝋蜘蛛は蝋の網を少しずつ広げながら、小さな敵の行動範囲を奪っていた。
そのせいで、俺もそちらに寄るための道が見つけられないでいる。
そんな時、やつは狩りの瞬間を楽しむように飛び込むように子どもに牙を向ける。それを受け止めようとする姿に俺は思わず声を出した。
「おまえ、二歩後ろに飛べ」
「えっ」
その子どもは俺の言うとおりに後ろに下がった。
すると、突然の後退に勢いを見誤った蛇蝋蜘蛛は牙を地面にめり込ませた。
「そのまま後ろに回って、毒針の根元の指三本分上を抉り出せ」
「は、はいっ」
子どもは俺の指示通りに正確に蛇蝋蜘蛛の蝋袋の蓋を抉り出す。
これでやつは蝋を生成することは出来なくなった。
「よし、それでいい。正面に戻って次は目を潰せ、戻るついでに足の関節にも切れ目を入れておけ、折れ曲がっている部分のやや下に見えるコブのようなものが関節の継ぎ目だ」
今度は返事はなかったが、その子どもは確実に言ったことを理解し、実行する。
集中しているようだった。行動力、思い切りの良さ、何よりも大の大人どころか優れた討伐者でも怯むような魔物を相手取って、一歩も恐れを感じさせない胆力を持ち合わせている。
「いいぞ、もう虫の息だ」
鼓舞の意図もあったが、事実でもあった。
俺の言うとおりに着実に蛇蝋蜘蛛の急所を、ナイフ一本で正確に、ミスすることなく仕留めていき、既に蜘蛛は逃走する素振りすらあった。
本来、好戦的で気性の荒い蛇蝋蜘蛛は余程の格上の敵でない限りは逃走は試みない。つまり、あいつはこの時点で既に蛇蝋蜘蛛に勝っていたのだ。
目に見える結末も、それから時間はそうかからずについた。
「一気に眉間に突き立てろ」
「わかりました」
ナイフが蜘蛛の頭に深々と突き刺さり、その多くの足は力なく全部折れた。
子どもは疲労から倒れることもなく、肩で息をしながら天井を見上げていた。
「た、隊長。ご無事ですか?」
「お前ら」
「蜘蛛対策の装備と、仲間を連れてきました。あの白壁の破壊と……蜘蛛ももう討伐を終えたんですね」
「俺じゃない。俺は壁だけだ」
「えっ?」
戻ってきた討伐隊のメンバーは目を丸くして、俺の言葉の意味を考えていた。視線の奥にいる子どもが勝ったとは一片も想像が及ばないのだろう。
それにしても、今回の討伐隊は比較的に真面目な面子が多かったようだった。引き返させた面子のほとんどが蜘蛛用の武具などを用意して戻って来たのだ。
それらは本来の討伐の用途には使われることなく、巣の処理と繭玉の中の人々の救出に使われることになった。一人の子どもが討伐した蜘蛛の後片付けに。
エピローグを添えるならば、この事件の顛末はというと、後の調査でわかったことだが、町に住むある旅の行商から始まったものだった。
全世界、津々浦々を巡ってきた行商人の男の荷物に一つの卵があった。
それは既に半年以上も孵らずに手元にあったらしい。それを男は既に中身は死んでいて、珍しいものだとお守り代わりにしていたそうだ。
けれど、それが実は蛇蝋蜘蛛の卵だったのだ。
ある晩のこと、卵は長い期間を経てようやく孵った。最初は小さく蜘蛛に行商人もペットとして手元に置いて、餌をやっていた。そうしているうちに蜘蛛はどんどん大きくなっていき、ついに空になった酒樽にすら入らないほど巨大になったある日、行商人は泥酔して宿に戻った。
すると、自室に入ると只ならぬ雰囲気に息をのんだ。暗闇を明かりで照らすとそこには鮮血の後、満足げに自身で張った網の上で蜘蛛は熟睡していた。まるで満腹で睡魔に襲われたように。
行商人は、恐れながらも叫び声を飲み込み、ゆっくりと部屋の中へと入った。足元にはちぎれた布切れが散乱しており、それが自分と同じ宿の隣の部屋に滞在しているかっぷくの良い男のものだとわかった。
男はいつも夜になると酒をせびりに行商人の部屋に来ていた。たまたま自分がいなかったため酒だけ持って行こうと強引に部屋に押し入ったのだということは簡単に思い至った。
行商人は、蜘蛛の寝る網に触れて、それが蝋であると知り、この蜘蛛の正体に勘付いたのだ。持っていたマッチでくっついた手のひらを丁寧に外し、すぐに酒場でごろつきを雇いにいった。
特製の睡眠薬を通常の数十倍濃くしたものを寝ている蜘蛛に注入し、男は雇ったごろつき達を使って、深夜のうちに蛇蝋蜘蛛を地下道に放棄した。
――これが実に、俺が討伐にいく半年前の出来事だった。
事件の後、繭玉の人たちも救い出し、彼らを連れて地上に、町へと帰還した俺はギルドに今回の報告書を提出のために他のメンバーとは別行動をとろうと集団から離れた。
「待ってください」
そんな俺を呼び止める声、振り向くとそこにはやはりあの子どもがいた。
「なんだ。お前は、さっきの」
「先ほどはありがとうございました」
「いや、よく倒せたな。良い討伐者になれる」
混じりっ気なしに本音の言葉だ。天性の才覚を見たと思って、俺はかすかに敗北感にも似た気分の悪さがあったことを覚えている。この時で既に五年以上、B級闘位から上がれずに、かつての呼び名の知名度のせいで俺を万年B野郎と揶揄する声に変わっていたからだ。
「事情は知らんし、聞く気もないが、とりあえず毒の検査はしておけ。後で後遺症が残るかもしれない」
「はい。ですが、その前に言いたいことが、あなたにお願い事があります」
「断る」
「あなたの弟子に……ってえぇっ!? まだ言ってないのに」
「俺は願い事は断る主義だ。弟子なんか取ったこともないし、取る気もない」
「そこを何とか」
この日は、結局ギルドの奥の部屋での報告で何とかこいつをまいたのだが、その日から毎日のように追いかけ、つけて来るしつこさに俺が根負けするのは約一か月後のことだった。
そうして子どもこと、ローワン=アンドリアゼスは俺の弟子になった。
誠に遺憾ながら、俺は師匠となってしまったのだ。
この時はまさか、こいつがそこまで大それた存在になるとは予想もしていなかった。せいぜい、強くなっても限界はある……なんて一般的な幻想をまだ抱いていた。
そう本当に現実は不平等で、不誠実で、突拍子もない奇劇だ。
最期まで読んで頂いてありがとうございます。
この作品は深夜のテンションで思いついて見切り発車したもので
続きを書くかは完全に気まぐれになります。
一応考えてはいますが、書くかは本当に未定です。
仮に続いた場合、内容としては悪魔が出てきたり、天使や獣耳、エルフ
などなどファンタジーの定番要素を全部ぶっこみますww
後、念のためですが主人公は師匠なので勇者は主人公ではありません。
世界的には主人公は勇者ですが、物語的には師匠が主人公です
ま、もし続きが見たいよってもの好きな方は、ご連絡なり評価なりよろです