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一先ず順を追って振り返ってみようと思います。
今朝、私は早めの朝食を終えてまあまあ動きやすい服装に着替えました。
最早この時点から私が早々に事の起こりを予見していたとか、世情ニュースに敏感で事前準備に勤しんでいただとか、そういう事ではありませんでした。
本日は大学のレクリエーション、それも私の通う文系学科のレクリエーションが行われる日でした。私の暮らす市の隣町での、そこそこ大きい図書館に見学に行くという何とも微妙な内容です。
隣町というとさほど繁栄もしていない、市のベッドタウンとも言い難い、まあ過疎一歩手前の中途半端な田舎と言いましょうか。
そこで図書館を見学した後、併設しているキャンプ施設で一泊という謎の日程をこなして帰宅する手はずなのです。正直中学生のレクリエーションかとも突っ込みたくなりましたが、昨今中学校でもこのような微妙な日程を組む学校は無いのではと私は危ぶんでいます。
一泊と言ってもほとんど施設に揃っているので、我々が用意する物と言えば一泊分の着替えと洗面用具ぐらいでしょうか。
しかし私という生き物は荷物がかさばるのがとても嫌いな人間なので、着替えなどというスペースの取る物は入れてきませんでした。一日二日くらい同じ物を着ていた所で何の問題も無いでしょう。
周囲の視線という問題はどうしようもないでしょうが、これもまた些末な事です。
私は小さな手提げ巾着に財布とスマホを入れ家を出ました。
え、洗面用具はどうしたかと?
行きに使い捨て歯ブラシをコンビニで買って一本巾着に忍ばせました。
後のものはとりあえず誰かに借りれば何とかなるでしょう、と厚かましい事を考えつつとにかく私は大学へ向かったのでした。
レクリエーションに出発する前に、一度学生は講堂に集められます。
そこで予め決めていたチーム毎に最後の打ち合わせをしてバスに乗り込む流れになっているのですが、私はそれを全てスルーして大学に着いたその足でバスに乗り込みました。
どうせみんな最終的にはバスに乗り込むのです。私は他人より体力が無いと自負していますので、後から合流した同チームの人達に概要を聞けば良いだろうと高をくくってのんびりとバスの後部座席に座っていました。
それ程気乗りもしないレクリエーションではありますが食って寝て本を読むというちょろい内容ですし構えずに行きましょう。
そんな事を考えつつぼんやり車外の学生達を眺めていた時でした。
何ともつかない凡庸な風景が徐々に変容を見せたのです。
まず目に留まったのはふらふらと覚束ない足取りで構内へ向かう男子学生でした。
一歩、二歩と歩を進める内にその学生は突如がくりと体制を崩しその場に倒れ伏しました。私が「あ、」とついつい声を出した時には傍に居た別の学生が彼を助け起こし何事か声をかけていました。
恐らく、体調を慮るような言葉をかけてあげていたのでしょう。
一連の行動をいささかの安堵と共に見届けた瞬間、助け起こされた彼は相手にゆっくりと覆いかぶさりました。
二人同時に倒れこんだ彼らはバスの死角になっていてそれ以上の様子はうかがえません。
訝しい想いを抱きながら私が立ち上がると、俄かにバスの前方が騒がしくなりました。
前方の入り口に目をやりますと女の子が必至の形相で一人駆け込んできたではありませんか。
「助けて! 助けて助けてたすけて!」
助力嘆願の連呼です。
よくよく見ると二の腕からごっそりと肉が削がれ血液がドロドロと湧き出ているその女の子は先程男子学生に雪崩れ込まれ倒れ伏した学生でした。
「たすけてたすけてだずけっああぁぁああいたいいたいいたいよお」
今度は脇腹を抑える女の子の手に視線を下すと何やら得体のしれないものがそこに思い切り噛みついています。
肉が腐って爛れたような、ケロイド状の人型の塊とでも言いましょうか。
どういう事でしょう。
どういう、本当にどういう事でしょう。
混乱していました。ただただ本当に混乱していました。
まともに働かない思考を置き去りに、私はとっさに後部座席の足元に身を隠してしまいました。
彼女を助けるだとか、そのような善意は微塵も沸き起こらず本能のままに身を隠しました。
彼女はもう声にもならない様子でひたすらに濁音交じりの嗚咽を零すだけです。脇腹にくっついているケロイド状の人型の塊は異様な呻き声を上げながらも未だ彼女に噛みついているままです。
あれが終わったら次は私。
まともな推察でもなく直感でそう感じ取りました。
不思議と体は震えませんでしたが手足がすうっと冷えていくような心地がしました。
とうとう女の子の動きが鈍くなっていき、絶望だけが私の頭を支配した、その時です。
混乱しきった私の視界に、運転席の後ろにある座席からのっそりと起き上がる人影が映り込んできました。
「え、なにこれ」
起き上がった人影は学生に噛みつくケロイド状の人型の塊を見て低い声でそうつぶやくと、数秒固まったかのように動かなくなりました。
ああ、あんなに近くに居たらあの人も危ない、声をかけるべきでしょうかと混乱の最中にある頭の片隅で考えた瞬間、何を思ったのかその人は片足を高く振り上げました。
ぐじゃあっという、濡れてじゅくじゅくの物に衝撃を与えたかのような汚い擬音と共に、その人が蹴り込んだ女の子と人型の肉塊はバスの外へと吹っ飛んで行きました。
そう、女の子『も』、吹っ飛んで行ったのです。
呆然と、そしてひたすらそれを眺めているしかない私などものともしないその人は、素早く身を翻して運転席に目を走らせるとおもむろに何かのボタンを押しました。
そうしてバスの扉は空気の抜けるような音を立てて閉まったのでした。
車内に一先ずの沈黙が降りる中、その人…いいえ、鷹嘴先生はのっそりとこちらを振り向きました。
「やあ、藤堂君。災難でしたね」
これが事の始まりとなります。