あるのかないのか
初めて入った彼の部屋。わたしは物珍しさにきょろきょろと室内を見回した。
間取りは1LDK。わたしが通されたリビングの他にもう一部屋、恐らく寝室として使われている部屋があるはずだった。あのドアが洗面所。クローゼットの扉は明らかに形が異なっている。
「珍しいのはわかるが、とりあえず適当に座ってくれ」
脱いだジャケットを無造作にポールハンガーに引っ掛け、彼が呆れたような口調で言った。
「ねえ、テレビってここだけ? むこうの部屋にもあるの?」
恐らく寝室に続くと推察される扉を指差し、気になる事を確認してみた。
「いや。ここだけだが、それがどうかしたのか」
「訊きたかっただけ」
小首を傾げて見せると、彼はさして表情も変えずに頷いた。
「コーヒーでいいのか」
「カフェオレにしてくれる? お砂糖たっぷりで」
「了解」
短い会話を交わし、彼がキッチンに向かうのを見届けると、わたしはソファに腰を下ろさずテレビのそばに膝をついた。
ボードの中を覗き込むと、シルバーに輝くオーディオ機器が見て取れる。わたしはあまりこういう物に詳しくはないのだけれど、いつも家で見ている物よりもいい物だろうという事だけは、何となく分かった。
視線をずらせて、DVDやVTRなどのソフトが入った棚を覗きこむ。知っているタイトルの物もあれば、初めて見るような横文字の物もある。恐らく彼が編集したのだろうとと思われるDVD-Rの類には、手書きのレーベルもちらほら。
そんな中、レーベルに何も書かれていないケースを見つけた。
「もしかしてこれ、かな」
念のためキッチンの彼を確認すると、こちらに背を向けてなにやら忙しそうに動いている。
思案したのは一瞬の事で、わたしは棚に手を伸ばしてそのソフトを手に取った。やはり何も書かれていない真っ白なレーベル。ケースを開けて中身を見ても、綺麗なエメラルドグリーンのソフトの中に収められている物を推測する手がかりはどこにもなかった。
「これじゃ中身が分からないじゃない」
思わず呟いた時。
「何をしているんだ」
至近距離から聞こえた声に、飛び上がるほど驚いた。飛び上がった拍子に、手に持っていたケースが中身ごとフローリングの床の上に落ち、かしゃんと乾いた音を立てた。
「え。あ。いや、ほら。せっかくだから何かDVDを見せてもらおうかな、とか思って」
どくどくと自分の心臓の音が耳に響く。
「別に構わんが、これにはまだ何も入っていない」
わたしの体に伸びて来た彼の手に思わず体を竦めたが、その手はわたしの脇を通りすぎて、落ちたDVDのケースを拾い上げていた。
「え。あ。そう、な、の」
どうやらこれはわたしが探していた物ではなかったらしい。ほっとすると同時に残念な気がするから不思議だ。
「本当は何を探していた?」
「え」
ぎくり、と肩が強張るのが自分でも分かった。
「な、なんのこと?」
しらばっくれようと思っても、顔が引きつって上手く笑顔を作る事ができない。まずい。これは非常にまずい事態だ。
「映画のDVDなんか、少ししか持っていないからな、俺は。テレビに興味がないから録画もしない。あとは仕事の資料とデータばかりだ。本当の目当てはなんだったんだ?」
無表情で詰め寄って来る彼に、反射的に後退るわたし。額には嫌な汗が浮き、背中を冷たい物が流れていくのが分かる。
頭の中で言い訳を考えてみるが、軽くパニックに陥っている状態では上手く頭が働くはずもない。その間にも彼はじりじりと近付いて来ていて、とうとうわたしの背中がボードに行き当たってしまった。
「素直に白状した方が、身のためだぞ」
彼の目は少しも笑っていない。元々表情の変化が少ない人だけれど、さすがにこれはヤバイなと感じた。
「お、怒らない?」
「事と次第によるな」
見下ろして来る視線は限りなく威圧感があり、わたしなど簡単に押し潰されそうだ。
「怒らない、って約束してくれるなら、言う」
器用にも片方の眉尻だけ持ち上げ、彼は思案しているようだった。
「分かった。怒らないから言ってみろ」
顎をくいっと動かし、わたしの言葉を促す彼。せめて目線をもう少し下げてくれればいいのだけれど、この状況ではそんな要求など言うだけ無駄というものだ。
「あ、のね。あるかな、と思って」
「なにが」
彼の顔をまっすぐ見ていられなくて、目が左右に泳いでいるのが自分でも分かった。
「ほら、あれよ、あれ」
「だから、なんだ」
言葉に出して言えるくらいなら、最初から彼に尋ねている。それができないからこそ、一人でこっそり探そうと思っていたのだから。
「独身の、若い男の人が持ってるっていう、あれ」
彼の眉間に縦じわがよる。
「なんの事だ。データじゃないのは確かだろうが」
彼の仕事に興味がないとは言わないが、仕事の中身まで覗くつもりなどないわたしは、ぶんぶんと首を横に振った。
「そういうのじゃ、なくて。えーと」
ああ、だめだ。顔が火照って来る。言えない。が、言わなくては彼の不興を無駄に買ってしまう。
わたしはごくりと唾を飲み込み、目を固く閉じ意を決して口を開いた。
「え、えっち、ビデオ」
「は?」
「だーかーらー! 男の人って誰でも、えっちビデオの一本や二本、持っているものだって言うから!」
できたばかりのわたしの彼もやはりそういう物を見ているのだろうか。もしそうだとしたらこれはけっこうショックだな、などと思いながらも、知りたい思いに勝てなかったのだ。
ぷっと、小さく吹き出す気配が伝わり、わたしは恐る恐る目を開く。目の前にいる彼は、口元を手で覆って変な顔をしている。この表情は、あれだ。笑いを堪えているもしくは笑う寸前というやつだ。
「お前、ばかか」
「ばかは、ないでしょう」
くつくつと。今度は本当に笑い始めてしまった彼を、わたしは呆然と見つめるだけ。彼の笑顔は見た事があったけれど、こんな笑顔は未だかつて拝んだ事がなかった。
もっともまだ知り合って日が浅いのだから、知っている事の方が少ないのだけれど。
「どこで仕入れた情報かは知らんが、少なくとも俺は持っていない」
「え」
途端に上って来る羞恥の熱に、頬が真っ赤に染まってしまう。
「じゃ、じゃあ、欲求不満とか、ならない、の?」
上目遣いで見上げて訊ねると、彼が不意に笑いをおさめ、わたしの顔をじっと見つめて来た。
「今までは、特には感じなかったな」
その言葉と真剣な表情に、本当にえっちな物を持っていないのだろうと信じる事にする。わたしってなんて単純なんだろうか。
そして気付いた。気付いたら気になって、彼に訊かずにはいられなくなる。
「今までは? じゃあ、これから、は?」
彼がにやりと口角を上げ、指の背でわたしの頬をくすぐるように撫でる。途端にわたしの肌が粟立って、嫌な予感が体を走り抜けた。
「そういう顔をされると、まずいな」
そういう顔とはどういう顔でなにがまずいのだろう。そうは思ったが、怖くてそれ以上は何も言えない。
半ば覆いかぶさるような体勢でわたしの前にいた彼の体が僅かに下がり、ようやくほっと息を吐く事ができた。緊張のために気付かなかったけれど、かなり息苦しかったらしい。
「とりあえず、せっかくいれてやったんだから、冷めていても飲めよ」
大きな手がわたしの頭をくしゃりと撫でたかと思うと、彼がそのまま立ち上がった。ソファの所まで歩いて行く後ろ姿を、わたしはただ呆然と見つめる。
それがさきほど頼んだカフェオレの事だと気付いたのは、それからしばらく経ってからの事だった。




