第172話「白銀世代じゃなくたって」
氷室の家は、現在母子家庭である。それは、高校進学を決める直前に、両親が離婚したのがきっかけであった。彼の父親は野球の指導者でもあったため、氷室――当時の熱川玲也は、彼の指導の下、厳しいトレーニングに毎日励んでいた。
「お前に足りないのは……打ち気を逸らす変化球と、最後まで投げぬくスタミナだな」
「……」
鉄松シニア時代、いつも父親が試合を見に来ては、玲也にダメ出しをするという毎日だった。それもこれも、勝利のため、玲也の勝利ではなく、熱川家の勝利のために。こんな毎日が嫌だった玲也は、両親の離婚の際に、親権の話し合い云々をすっ飛ばして、母親の家に行くことを決めた。それは、熱川家であることを辞めると同時に、野球を辞めるということの意思表示でもあった。
しかし――苗字が氷室に代わってから進学した昂大高校にて、まだ中堅にも及ばないほどの規模だった野球部に所属する、シニア時代の先輩、鉄沢斗真と再会した。
「あれ? 玲也!?」
「あっ……鉄沢先パ――」
「てっちゃんで良いっつっただろ。お前にだけは」
鉄沢は、玲也が熱川から氷室に苗字が変わったことに対して、特に何も触れなかった。それどころか、再会を喜び、野球部に勧誘してくる始末だった。
「頼むって~。二年生俺含めて三人しかいないんよ。まだ1年生も武田っていう坊主のいかついキャッチャーと朝地っていう筋肉オタクしか入ってないんだって」
「……てっちゃん、もう俺野球辞めたんすよね……親父と離れて住むようになって……もう野球しんどいっす」
「えー、せっかくシニア準優勝チームのエースだってのに……」
「それは……親父の厳しい練習の上で勝ち取ったもんだからです。だから、俺のものじゃないから、いらない肩書なんすよね」
氷室のその言葉に、呆れた様子の鉄沢。
「それはもう仕方ないことじゃん? でも、親父さんのせいだーなんだー言っても、多少いやいやだろーと無理してよーと、頑張ったのはお前なんだしさ、今度は、お前がやりたいような野球を、俺たちとしてみねーか?」
「……俺がやりたい野球?」
氷室は考えた――思い出すのは、父親への怒りと、白銀世代への強い劣等感。
「強いて言えば……中学の時は準優勝だったから……親父の力を借りずに……準優勝……いや、それ以上まで行きたい。ってのと……白銀世代ぶっ潰したい」
「あ! 後半は俺も思ってたんよねえ。ちょうど武田ってやつも朝地ってやつも同じようなこと言ってたし、ちょうどいいじゃん。打倒白銀世代目指して、ガンバローゼ」
それが、氷室が高校野球を始めたきっかけだった。2年に上がってみた選抜――知多哲也のインタビューを見て、さらに打倒白銀世代への目標を燃やした。
(ゲン、クマ、アダム、しゅんぺー、つよぽん、スバル、しんちゃん……んで鉄沢先輩……もっと野球してえ。色々なつええやつ、この手でぶっ潰してえ!)
氷室が投げた一球目のストレート。アウトコースに鋭く突き刺さる球に、伊東は目を見張る。
(くっ……良い球投げやがる……9回に来て……衰えぬ球威……只者じゃねえな)
もう、彼らが“暗黒世代”などと蔑称を受けていることは、クロ高の者は誰も覚えていない。
氷室が投げた二球目のスライダー。低めにきた良い球だが、すんでのところで見逃す伊東。
(やべえ……手出るかと思った)
(なかなか振らねえな……こいつ……)
インコースのストレート――自分の全力をこの一球に注ぎ込む。
(来たッ!!)
伊東は構えた。そのまま身を乗り出し、バットを横に傾ける。
「セーフティだと!?」
ボールをバットに当て、飛び出してきたファーストの右斜め前へと転がしていく。
(くっ!)
ファースト熊野がボールを捕球するが、伊奈はとっくにサードベースに間に合いそうだ。
「こっちだ!」
氷室がベースカバーにしっかりと入り、熊野はそのままボールを投げた。
(ちっ……1アウト三塁か)
氷室が送球を受け取り、伊東をアウトにした。
「よしっ! 1アウト三塁!」
「よくやったぞ伊東!!」
ベンチに戻ってくる伊東を讃えるクロ高ベンチ。
(確実に一点。繋ぐ意識……よくやってくれたぞ伊東)
絹田監督は帰ってきた伊東を見ながら強く頷く。それに応えるように、頭を下げる伊東。
(頼むぞ金条……白銀世代じゃなくたって……氷室玲也は良い投手だ)
金条が打席に立つ。今日も冴えない打撃成績だったな、と嘲ながら。
(……ランナーサード。1アウト。流し方向に転がせば1点はありえる)
さっきみたいにランナーにサイン出すか? とも考えたが、看破されるのが怖い。
初球、バントの構えをする金条。ファーストサードが前に走り出してくる――が、バットを元に戻して見逃す。
「ボール!」
(外してくることなんて簡単にわかるんだよ……)
武田の警戒も、金条には手に取るようにわかる。二球目のストレートも、アウトコースに外れた球だった。
「ボール!」
2ボールノーストライクとなる。ここはやはり、カウントを稼ぎたくなる場面。金条は、少しベースに身を乗り出す。
アウトコースにストレート。打ち返す金条。しかし、ここはファウル。
(くっ……とらえきれないッ!)
サイドスロー独特の軌道に悩まされる。4球目――走り出す伊奈。
(エンドランかッ!?)
武田が身を乗り出して捕球しようとする。しかし金条はバットにボールを当てる――しかし三塁線を切れる打球。
「ファウル!」
「クソッ!」
悔しそうにしながら打席に戻る金条。2ストライク2ボールと追い込まれた。
(スクイズ、エンドラン……なんか巧いことやられてる気がする……)
氷室も焦っていた。虎視眈々と1点を取りに来る、クロ高のスタイルに、緊張感を促される。
(でも……ここはピッチャーの腕の見せ所……インコースに全力ストレートだ!!)
(ここはフルカウントにしてくるとみた……)
氷室が投げた5球目――インコースにノビてくるストレート。咄嗟にカットしようとバットを振る金条だったが――当たらない。
「ストライークッ! アウト!!」
(マジかよッ……!)
金条が三振に倒れる。2アウト3塁。
(おいおい……ここで点取れねえとちょっとマズイぞ……延長になったら……コドーや小豆がいる分こっちが有利だが……向こうが点を取らねえとは限らねえ以上、避けたいぞ)
三塁ランナーの伊奈も、汗を垂らす。
「代打、森下いけ」
「は、はい!!」
佐々木に代わって、代打、森下龍が打席に立つ。
(確実に1点を取るという場面で……俺を使ってくれたのか……)
これは、裏の回の守備も見越しての起用なのだが、森下はその起用がとにかく嬉しかった。
(絶対打ってやる……監督の期待に応えるためにも。先輩たちともっと野球するためにも)
ここでは終われない。全員がそう思っていた。ゆえに、森下に全力で声援を送る。
「打てよ森下ァ!!」
「気負うなッ! いつも通りで良いんだ!!」
「力むんじゃねえぞ!!」
佐々木や、芝、坂本と言った、打ちたかったであろう者たちの声がより目立った。
(先輩たちは……本当にいい先輩だ。選手としても、人としても尊敬できる人がいっぱいだし……俺、このチームに来れて良かったッ!!)
代打の森下が、初球をフルスイングで打ち返す。快音が響く。
「ショートッ!!」
氷室が咄嗟に叫ぶ。打球は三遊間を強く跳ね――抜けた。
どっ――と球場が湧く。伊奈がホームに還り、勝ち越しの4点目。森下の代打ヒットにより、さらに盛り上がる。
「うおおおお!!」
「ナイスバッティング!!」
「ヒムロン……わりぃ」
「大丈夫だ」
武田がタイムを取ってやってくるが、氷室は大して様子を変えていない。
「打たれちまったもんは仕方ない。今宮を抑えたら……裏、頼んますって感じでいくわ」
「……ああ」
そして、今宮を迎える。
(続きたい。もう一点、もう二点……先攻である以上、点はいくつあっても足りねえんだよ)
氷室の変化球も織り交ぜたピッチングに、2ストライク3ボールまでカウントを重ねる。
(次来たストライクを……狙い打ちだ!)
アウトコースに逃げるように走るスライダー。今宮はこれを丁寧にライト方向に打ち返す。
「晋!」
ライト小坂が打球の落下地点に滑り込む。芝を割く音。
「取ったぞぉ!!」
立ち上がった刹那に叫ぶ小坂の声。グラブにはボールが収められている。
「よっしゃああああああ!!」
「ナイスプレイだ!!」
小坂のナイスプレイで9回表を終える。今宮は舌打ちを一つしてベンチに戻ってくる。
「わりー。1点しかないが、伊東……」
「無失点なら勝ち。で分かりやすくて良い!!」
今宮の言葉に、伊東が強く答えた。その様子に安心した今宮は顔を崩す。
「よしっ、んじゃ任せるわ。こんなところで終わったら……新田が泣くぜ?」
「新田の泣きっ面はちょっと見てみたい――が、負けたくないので却下ァ!」
マウンドへと走る伊東。それにつられるように全員がグラウンドに出てくる。
(終わらせたるねん……3人で)
打席には9番氷室。ピッチャーだとしても……ここは強気で打ちに行く。
(負けねえんだよッ! ウチはッ!!)
初球のストレートを空振りする氷室。
「ちょっと大振りになってるぞ!」
「シングルで良いって!」
チームメイトから声をかけられ、冷静さを取り戻す氷室。
(シングルオッケー……シングルでいい……)
二球目、アウトコースのカットボール。これをひっかける氷室。サード正面にゴロが転がる。
(っし!)
しっかりと捕球する大滝。そのままファーストに投げ、1アウト。
悔しそうにする氷室を横目に、1番の岩城が打席に立つ。
(この状況でも……やることは一緒……このピッチャーは白銀世代じゃねえんだ。打つぞ)
伊東の初球――甘く入ったところを強く打ち返す。しかしこれはカットボール。ひっかけてしまう岩城。打球はファースト方向へ弱く跳ねる。
「っし!」
伊奈がそのままベースを踏んで、2アウト。
「お願いします!!」
2番の小坂が叫びながら打席に立つ。伊東の初球ストレート。高めの球だが、振ってしまう小坂。
(良い位に打ち気だ。アウトコースのボール球を振らせる意識で)
金条のサインにうなずく伊東。ボール球をなんとか見逃す小坂。
(ふう……まけねえ。負けねえぞ!!)
三球目のカットボールをファウルにする。
(ちっ……ストレートか? フォークか? それとも打たせてくるか?)
小坂の中で迷いを生じさせている。2ストライク1ボールと追い込まれたこの状況で、伊東のピッチングを脅威に感じていた。
(くそ……白銀世代じゃない奴にすら……俺たちは届かなかったのか?)
4球目、伊東の切れ味鋭いフォークが炸裂し、小坂は空振り三振で、3アウトとなった。
ゲームセット。
黒光高校 4-3 昂大高校
「……白銀世代じゃなくたって……強いもんはつええな」
一塁側の控室にて、鉄沢が涙を流しながら笑った。
「てっちゃん……」
「クソッ……」
氷室がクローゼットに右手をたたきつける。
「……何悔しがってんだよ。お前らのこと言ってんだぞ、俺は」
鉄沢の言葉の続きに、全員が首をかしげる。
「来年、暗黒世代しかいねえ。白銀世代はもう高校生じゃなくなる。でも、多分……来年は来年で強いやつらがたくさんいる面白い試合がたくさんできる……今日のお前たちを見てて……俺はそう思ったよ」
「俺は……お前たちと野球ができてホントに良かった……ありがとう」
鉄沢の涙が、床に落ちた瞬間、全員が言葉を失い、涙を啜る音だけがロッカールームに聞こえるのだった。




