第1話「暗黒世代」
黒光高校という私立高校が、今年の夏、甲子園出場を決めた。この高校の一年生、古堂黎樹は、その光景を甲子園のスタンドから見ながら、黒土の、高いマウンドに思いを馳せるのだった。
(俺も……あの舞台に立ちたい!)
『Dr.Kの鼓動』
夏。炎天下。甲子園の決勝戦をTVの前で見ていたことが何よりも悔しかった――と二三年生らは語った。今年の三年生の代はいわゆる『黄金世代』で、二年生の代は、それら金の卵をずっと見て育った。また、彼らは金ほどの派手な輝きはなくとも、堅実で唸るようなプレイが光ることから、『白銀世代』と言われていた。しかし、天才の三年生たち、秀才の二年生たちが束になっても勝てないほどの猛者が、全国には山ほどいた。そう、その猛者たちもまた、黄金世代なのである。
「おい、何やってんだ一年! 早く練習始めるぞ」
「はい」
そして、今年の一年生は、決して『天才』とも、『秀才』とも言われることはなかった。つまるところの、『暗黒世代』である。
ここにいる彼はそんな『暗黒世代』の一人だった。彼の名は、古堂黎樹。ピッチャーである。周囲からは野球バカならぬ、『投球バカ』と呼ばれており、本当に投球以外のことができない男。運動神経は悪くないのだが、とにかく考えなしに野球をするのだ。ただ、日々の練習だけは毎日欠かさず行っており、朝4時から始めている『超朝練』と呼ばれる練習は、チーム内でも話題になっている。
彼が通うここ、黒光高校、通称『クロ高』はかつては甲子園出場常連校で、最高成績がベスト8。しかし、ここ数年は成績が奮っておらず、今年の夏が十数年ぶりの甲子園出場となったわけだ。彼は今夏甲子園で投げたこのチームの元エース、閑谷明に憧れて入部した。そして、入部してからは、二年生ピッチャーで現エース、新田静の背中を追いかける日々が続いている。
「静先輩! 今日こそはカーブ教えてください!!」
「ええっ!? それはちょっと……」
「何でですか!! 俺はこの秋大会でリリーフ最有力候補っすよ!?」
「馬鹿言うなよ。うちの投手陣――特に二年生はすごいぞ。お前はそもそもベンチ入りできるかすら危ういだろ」
「うっ……」
現エース、新田静こそ、今夏の県大会予選決勝の最終回三イニングを投げた男である。多彩でキレのある変化球と、精密なコントロール、また、爽やかな顔立ちと笑顔も相まって、『変化球王子』と呼ばれており、県内の野球人、また校内の女子たちの注目の的だ。対してこの男、古堂黎樹は肩の強さと柔らかさだけが取り柄の外野手転向を薦められてしまう程度の実力しかなく、野球以外のことに興味を示さないので、クラスでも少し浮いた存在――そんな男だ。
「……でも、お前のその貪欲な姿勢は俺も好きだ。もし、お前が俺の球打てたら変化球教えてやる」
「あ、ありがとうございます!!」
新田はにっこり笑ってグラウンドを走ってマウンドへと向かっていった。古堂も自身に与えられたランニングメニューに取り組むために走りに向かった。
古堂は昔からピッチャーをしていた。ずっと昔から弱小チームにいた。打撃は誰よりも苦手だった。捕球も苦手だった。しかし当時の監督はこんなことを言ってきた。
「お前、点も取れねえし、ボールも捕れねえし、野手としては最悪な野郎だが、肩は強いんだ。ピッチャーやれピッチャー」
この言葉が、彼が投手となった理由の全てだ。しかし、彼は投手となった今でも毎日素振りを欠かさない。守備練習も欠かさない。『暗黒の世代』と言われようと、毎日弛まぬ努力を続けてきた。
(うしっ、せっかくだし今日の素振りは少し多めにするか。いつもより想像力を働かせて……)
手元で恐ろしく曲がっていき、内角をえぐり込むシュート。エリアの隅っこを斜めに落ちていくカーブ。そして揺れる魔球、ナックル。どれが来ても打つのはきっと厳しいだろう。彼は一人の男にアドバイスを求めた。
「え? 静の球?」
その男は、三年生の大滝進一。黄金世代の一人で、不動の一番バッターを務めていたチーム打率No.1の男だ。古堂は彼に、バッティングの秘訣を聞こうとしていたところだった。
「どうやったら打てるかって……静はストレート投げないからな……逆にコントロールめちゃくちゃいいから、エリアの淵に滑り込んでくるシュートを俺だったら打つかな」
「シュートですか……」
メモ帳とペンを手に取り、大滝の言葉を書き留める古堂。不思議に思った大滝が問う。
「んにしても何でおまえが静の研究してるんだ?」
「……俺の投手人生の為っす」
(そうか……こいつ研究熱心なヤツだな……)「いいこと教えてやるよ」
大滝がバットを持って練習場へと古堂を連れて行った。
「さあ静先輩! 俺と一打席勝負お願いします!!」
翌日の朝5時。夏の朝の外はだいぶ明るいが、まだ眠気の残る朝練習の前にいきなり新田に話しかけた古堂。眠気の残る新田の細く切れ長な目に、古堂の底なしに明るい声と顔が飛び込んでくる。
(や、やる気満々じゃん……)
左打席に立つ古堂。対する新田はマウンドのプレートの土を足で払う。
(シュート打ちシュート打ちシュート打ち)
頭の中で狙い球を連呼する古堂。新田とまっすぐ視線を合わせる。
初球、変化球王子の左腕から投げられたボールは――
(ゆっくり……曲がってる……カーブだっ!)
「ストライク!」
見逃した球種はカーブ。やはりエリアのギリギリのところに滑り込んでくるえげつないカーブだった。
(これが大滝さんが打つのをためらうレベルのカーブか……ますます教えてもらいたくなったぁ……)
再び集中を入れ直す古堂。新田は落ち着いた様子で二級目を投げるモーションに入った。
続いての球はエリアからボール二つ分外れたストレート。手を出してしまった。空振る。
「えっ!?(静さんがストレート!?)」
この一打席対決は、朝練前ということもあり、多くのチームメイトたちが見ていた。
「あの変化球王子から古堂が打てるのか? さすがに無理だろ?」
「明らかなボール球に手出してしまってるしな。ノーボールツーストライクと追い込まれたし、希望は薄い」
既に引退していた大滝も見に来ていた。
(内角の打ち方を教えたからと言ってすぐにモノにできるわけなどない。まあ、静から打つのはまだ無理だろう)
3球目。先程よりも球速が無い。そして、明らかに低めに来ている。これは――
(ナックルか!?)
「ボール!」
ボールを見続け、結局バットは振らなかった。否、振れなかった。揺れながら落ちるボールに、何も手が出せなかったのだ。
(マジで魔球じゃん……やばいぞこれは……)
なかなか投げられないシュート。追い込まれる古堂。焦っていた。
(次で仕留める!!)
そう言った思いで投げられたボールは、古堂の体のすぐ近くの内角で、回転をかけながら、少し浮つく。
(これは……)
その回転が加速し、一気にボールが斜めに降下していく。最初は危ないボール球だと思っていたカーブ、古堂が途端にバットを握った。
(内角に……ギリギリ入っている!?)
右足を半歩後ろに踏み込む。肩と腕の力を抜き、骨盤の回転を意識して、一気にバットを振り抜く―――
「当たった!!」
カキン、と小気味良い音を立てた打球。新田は少々驚いた顔で上を見上げる。
「……ピッチャーフライだな」
大滝は苦笑いした。天高く上がったかのように見えた打球はすぐさま降下し、新田のミットの中に収まった。
「むむ……むぁあああけったあああああ!!!!」
古堂は、悔しそうにホームベースにバットを二三度叩きつけた。そんな光景を見て、苦笑いを伴ったまま近づく大滝。
「ははは、まだちょっとスイングに力が入っちまったな。でも、踏み込みはすごくうまかったぞ(……昨日の夜教えたとは思えねえ。まさかこいつ)」
「ああっ! 畜生!! せっかく4時起きまでして内角に来たシュート打ちの練習してたのに!!」
「ははは……4時起き……じゃあ一時間ずっと……」
「そうっすよ! しっかり6時間寝て、この勝負に賭けてたのに……!」
バッターボックスにて悔しがる古堂を、新田はマウンドの上から眺めていた。
(シュート狙いか……なのにカーブに当てられたか。しかもあの内角……まぐれだとしてもちょっと悔しいな)
悔しがる思いとは裏腹に、表情はいくらか清々しさが見られた新田。自分との一打席勝負のためにわざわざ大滝から内角打ちの方法まで学び、朝早く起きて投手にも関わらず打撃の自主練習をする古堂の真摯な姿を少なからず認めているようだった。
「おい、古堂! 放課後ちょっと練習付き合え!」
「え?」
マウンドに立つ新田から叫ばれ少し困惑する古堂。
「教えてやるよ! 変化球!」
「……はい!」
朝早くから、古堂の大きな声がグラウンドに響き渡った。
フォーク…打者の手元で下に落ちていく変化球。
カーブ…山なりの軌道を描く変化球。
シュート…右投投手なら右側へ、左投投手なら左側へと曲がっていく変化球。
ナックル…魔球とされている変化球。回転数が少なく揺れながら落ちていく。
ツーシーム…指を縫い目に沿って握り投げる投球。一見ストレートとは変わりないようだが、回転数が異なり、打者の手元で落ちるのでミートはしずらくなる。
エリア…この話では、ストライクゾーンのこと。