08,赤い彼岸の花
とても、悲しいことが起こった。赤い花とその花言葉に隠された報われぬ想い。
白蓮の姫。
胸の上で手を組み横たわるその人は、死してなお宝石のように美しかった。腰まである長い髪が白い光のように、棺に敷き詰められた花の上で輝いていた。
――カレン・ダイ・グランドロス王女、逝去。
長い間、病で臥せっていた十六才の王女。生まれつき身体が弱かったこともあり、生きているうちに彼女が公の場に出ることはほとんどなかった。壊れ物のように、王城の奥深くに抱かれ、育てられてきたのだと言う。
第一王子クレスロードの異腹の妹にあたる人物であったが、彼女は生前に王位継承権を放棄していた。外部から圧力が掛かりそのように差し向けられたのだという噂が立ったのは、まだ記憶に新しい。
病弱で、おそらく子供は望めまいとされていた。国に有益な縁談を組むことが出来ず実母にさえ疎まれていたという話が真実であったなら、彼女は城の奥で何を思って生き、そして死んでいったのだろう。
ただ一度姿を見せただけで、民衆の心を掴んだ美しい王女。今、この場では、誰もが彼女の死を悼んでいる。
穏やかに見える彼女の顔。最期の時、彼女の目に涙はなかったのだろうか。閉じられた瞼の下、彼女の瞳が最期に映したものは何だったのだろうか。
「いらしていたのですね」
棺に花を手向け佇んでいたクライスは、聞き覚えた声に顔を上げる。
数歩離れたところに、顔の前に黒い薄布を垂らしたアイカの姿があった。
「はい」
「お一人なのですか」
そう聞かれてから、クライスは隣りにいたはずのミラーとルドの姿を探した。
「団長と副長が一緒で……」
「貴方も、お席に戻られた方がよろしいです。後がつかえておりますので」
では失礼します、とアイカは王室関係者の自席に戻っていった。
どうやら、参列者の流れを止めていたクライスに注意をしに来たようだった。
後ろに控えていた参列者に頭を下げ、クライスはそそくさと席に戻った。
横目に見た列は、クライスの後数人で途切れている。誰も皆、どこぞで見た顔ばかり。法政部の役人や国内でも指折りの富豪。前方の席には隣国の要人も見える。
密葬とまではいかないが、ごく小規模に行われているこの葬儀には、人数は少なくとも錚々たる顔ぶれが揃っていた。
「柄にもなく考え込んで、人様に迷惑をかけるな」
人の間を縫って、弔問客席のほぼ中央辺りに位置する騎士団の席に辿り着くと、腕組みをしたミラーがばつが悪いと言った面もちでクライスを見るなり不平をこぼした。
「すみません」
「……まぁ、今回ばかりは大目に見るが。事が事だけに、何かと思うこともあるだろうからな」
「え?」
振り向いたクライスに横顔を見せたまま、ミラーは静かに目を閉じる。
「噂は真実だぞ」
ミラーが事も無げに呟いたその言葉の意味に、クライスは言葉を詰まらせる。
いつの間にか鳴り始めていた鎮魂歌が、王女の命が本当にこの世を離れたことを告げる。
話し声一つない式場の中で、響く歌声に呼応するように、人々は組んだ手に額を寄せ祈りを捧げた。
ミラーも、ルドも、同じように王女の命を慰めていた。しかし、祈りを捧げるべきこの時にクライスの両手は凍ったように動かない。皆が目を閉じて頭を垂れる中、一人、王女の眠る白い棺を見つめていた。
王室の席に、カレン王女の母の姿はない。王女の兄である第二王子も、また。
彼らがそこにいない理由は定かではないが、そのことに気付いた瞬間、クライスは自分のものではない、誰かの悲しみを感じた。それは王女自身のものであったかもしれず、また別の誰かのものであるかもしれなかった。
怒りにも憎しみにも繋がることのない純粋な悲しみに触れ、クライスは、無性にやるせなかった。
俯く人々の向こう、歌っていたのはアイカだった。天窓から吹き込んだ風がアイカの黒い面紗をさらい、あらわになった瞳がふとクライスを捉えた。
表情のない黒い瞳は、瞬きもせずただ一筋の涙を流し、歌い続ける。
けして大きくはない声が、頭の芯を震わせるように響いていた。
今は、少なくとも今だけは、この場にいる全ての人が王女のために祈っている。どうか安らかに眠って欲しい。どうか光ある場所へ向かって欲しい。
どうか、この祈りの届かんことを。
アイカの鎮魂歌は王女の命を慰め、聴く者の心を慰めた。
結局、クライスは歌が終わり周りの人々が顔を上げるまで、動くことが出来なかった。
やがて、客席の人々がそろそろと帰り支度を始める。葬儀は終わったのだ。
弔事責任者のもとに挨拶に行ったミラーを待つ間、クライスはもう一度王女の所に向かった。早々に地下墓地に運ばれるのだろうと思っていた棺が、まだ残っていたからだ。
棺の真上に位置する天窓から、柔らかい光が射し込む。眩しさに目を細めクライスは棺の脇に立った。
眠れる王女は、客達の手向けた追悼の白い花に囲まれ、胸に一輪の赤い花を抱いていた。
(……赤い、花……?)
葬儀の際、弔問客は各自で花を用意する。そして一般的にそれは一輪の白い花と、明文化された決まり事ではないが、言われている。それは王家でも同じ事だ。しかし。
追悼花ではない、赤い花。
その花の意味するところをクライスが知る由もなく、誰が添えた物であるかもまた、知る手だてはない――はずだった。
「その花には、悲しき思い出という花言葉があるんだそうです」
いつも気付かぬ内に近くにいるな、と思い、クライスは声の主を振り返った。
面紗を上げ、何とも言えない微笑を浮かべたアイカが小さく腰を屈める。つられるようにしてクライスは胸に手を当てて騎士の式礼を返した。
「そんな意味が……。名前は何て言うんですか?」
「シビトバナと呼ばれています」
「シビト……」
「聞いたことはないでしょう。この国には咲きませんから」
「はい」
棺を挟んだ向かい側に立ち、アイカはクライスが手向けたのと同じ白い花を王女の身体の脇に置いた。涙こそ零さなかったがひどく憂えた顔で、アイカはしばらく王女の顔を見つめていた。その様子を見ていたクライスは、また少し悲しみに胸を痛めることとなった。
ややあって、クライスが立ち去ろうかと声を発しかけたそのとき、アイカは徐に口を開いた。
「この花、もう一つ別の花言葉があるのです」
風に揺れる髪を押さえながら、アイカはクライスの顔を見上げる。平坦な言葉とは裏腹な沈痛な面もちに、クライスは困惑した。今までに数度会い目にしてきたアイカは、こんな表情をしたことがない。する人ではないと、そう思っていた。
これは何かある。そう思わずにはいられない空気を肌で感じた。
「『想うは貴方一人』」
往時の鐘が、鳴り響く。一つ、また一つ……。
寂静な式場に染み渡り、聞く者の心、罪を洗い流すかのようなその音は悲しみを回顧させ、そして風化させる。
強くあれ、命を生きよ――初代国王の遺詔に則った音色を奏でる国宝の鐘。葬儀に参加することの出来ない国民は、この音色を聞き、亡き王女の安息を祈る。
「……あの方が、カレン様の為にお取り寄せになったのです」
風が止み、太陽が雲に隠れる。薄闇に包まれた式場の中、他に言葉を交わす者はいない。鐘の音に掻き消えそうなアイカの声は、かろうじてクライスの耳に届いた。
――あの方?
クライスに向けられていたアイカの視線が、何かを追うように動く。温度の低い平静な眼差しではなく、悲哀をたたえた優しい目が、クライスの背後で動く何か――誰かを追っていた。
「あの方って、どなたです」
アイカの視線の先に、振り向く。
雲間から刺す光の下見事な金髪を靡かせ、黒い外衣に身を包んだその人は――。
「…………クレス様です」
横顔に煌めく涙。手に追悼の白い花を持ったまま、彼はいた。
棚引く黒衣は夜の闇。美しい月を浮かべた夜空のような、その姿。もう二度と忘れはしない、この国の王子。
が、どうも様子がおかしい。
――……殿下……?
頬を切り裂く、血の涙。
揺れる瞳に垣間見えるは心の闇。宙を舞う蝶の如く、彷徨う視線は迷える魂を追うかのように定まらない。光の中で、クレスロードの周囲だけが不穏な空気に包まれていた。
引きずるように、しかし止まることなく、クレスロードの足は進む。
弱々しく握られていた花が滑り落ち、彼の足許を転がる。気付かれることなく踏みにじられた白い花。その花弁に滲む血は儚い幻か、それとも真の現れか。
予期せぬ死ではなかっただろう。望みのない命が天に還ることを、心の奥深くたとえ無意識下だとしても、望んでいる者がいた。そんな生臭い事実が、第三者にさえ伝わってしまうような葬儀だった。
見て見ぬ振りをすべきなのか。気付かぬ振りをすべきなのか。王女を送るに相応しい感情さえ持ち得ず、彼女を取り巻く状況もわからなくなるくらい、何一つしてやれることがなかった。
今、あの時と同じ想いを感じている。
鎮魂歌に乗って伝わってきた悲しみは、クレスロードのものだった。
「クレスロード殿下」
呼び止める声は弱く、かの人の耳には届かない。届いたところでかける言葉などない不甲斐なさに、クライスは彼の危なげな足取りを見守ることしか出来なかった。
散り散りになった白い花びらは、風にふわりと舞い上がる。そのうちの一枚が硬直したクライスの頬を撫で、振り向く間もなく飛んでいった。
こぼれ出た涙が地に落ちる。俯く頭の影に一つ、二つと。心が震えて、止められない。
愛しくて、愛しくて。その何倍何十倍も、悲しくて苦しい。愛する者を亡くしたこの悲しみに、行き場などないのだ。
『想うは貴方一人』
知られざる恋は露と消える。季節を過ぎた花のように、人知れず枯れ落ちてゆく。明け方の空に浮かぶ星のように、小さくなりやがて見えなくなる。
けれど。
それでも想いは変わらない。たとえ許されぬものであったとしても。たとえその先にはもう道がないとしても。想うのは唯一人、貴方のことだけ。
「…………?」
クレスロードの姿から目を逸らすように伏せられた瞼の下で、アイカの黒い瞳が翳る。
誰の声もしないこの場所は、まるで外界から切り離されたかのようだった。先ほどまでちらほら見えた他の客もいつの間にやら帰路に就いて、悲しみで満ちた空間の中クライスの目に映るのは王子と棺とアイカだけ。沈黙を守る彼女と見知った人物像とはまるで食い違うクレスロードを交互に見やり、クライスはのしかかるような重たい空気を呑み込んだ。
ややあってアイカは面紗を下ろすと、いまいち状況の掴めていないクライスに深く御辞儀をし、ゆっくりと背を向けた。
何の反応もせずそれを見送っているとふと、視界の端に目映い光を感じ、クライスは僅かに視線を落とす。
王女の組まれた手を上から包み込む、死者である彼女のものより白い手。祈るように閉じられた瞼に浮かぶ涙には、血の色は混じっていない。
「殿……下……?」
返事はない。クライスはさっき見たクレスロードの様子を思い出す。
おぼつかない足、虚ろな目。そして血の涙。見間違いだったと言ってしまえばそれで終わりなのだが、あの赤い涙を忘れることは出来なかった。
何があったのだろう。
しかし、そう心の中で問いつつも、その解答はアイカによって既に示されているようなものだった。
この国には咲かないという彼岸の花の持つ意味に、深い悲しみと心の答えがある。答えは一つ。想いも、一つ。
浸み入るようにずっと伝わってくる思いをどう慰めればいいのか。それがわからなくて勝手に動く体は、それでも意志に反してはいない。気が付くとクライスの手はクレスロードの肩に置かれていた。
一騎士が王子に触れるなど、許されるどころか常識があれば考えもしないようなことだが、もう遅い。
「……あ」
軽率だったかもしれない。
でも今にも壊れてしまいそうなクレスロードを見て、彼のために何かしてやりたいと、あの日、初めて会ったクライスににこやかな笑顔を向けてくれた彼の助けになりたいとそう思ったことは事実だ。こうすることが正しいのかどうかはわからないけれど、消えそうな影を震わせて涙するこの少年を、放っておくことは出来なかった。
揺れて開けた前髪の暇から、白く輝く丸い月。驚いて見開かれた瞳にはクライスの影が映る。言葉もなく見返してくる表情には先刻の不可思議な様子はもう見られない。
はっとして触れていた手を離すと、瞬いたクレスロードの目から新たな滴が落ちる。
「も、申し訳ありません。ご無礼を」
我に返るように数度瞬き、一呼吸置くと、クレスロードは静かに微笑んだ。
「……来てくれていたのか」
ありがとう、とクレスロードが力無く呟く。
誰かの笑顔を見て、痛ましいと思うのは初めてだった。