06,壁磨き開始断念
副団長ルドから渡された書状。「早急に来られたし」、クライスは再び王城を目指す。
鍛錬場に戻る途中、階段の踊り場で難しい顔をしたルドに呼び止められた。
「何怖い顔してるんですか」
「……これは元々だ」
一層顔をしかめるルドに肩を竦めて見せ、クライスは改めて用件を尋ねる。
「お前に伝令が」
言うと、ルドは胸のポケットからその通達を取り出した。クライスの目の前に突き出されたそれは、通達と言うにはあまりにも粗末な、単なる紙切れだった。
「確かに渡したからな」
「あ、はい。ありがとうございます」
クライスの礼に一つ頷くと、ルドは上ってきたばかりの階段を足早に下りて行く。ゆったりと広がる黒いマントは、すぐに見えなくなった。
クライスは三つ折りにされた紙切れを持て扱い、結局、鍛錬場に出て訓練の準備をすっかり終えてから、ようやくそれを開いた。
「え」
内容と差出人の両方に、クライスは驚きとも戸惑いともつかない声を上げた。
それは、王室付き魔導師のアイカ・ミストラル女史直々の、壁磨きの催促状だった。あの日クライスの出した掃除用具はそのままにしてあるから、とっとと磨きに来て終わらせろ、と。簡単に言えばそういうことが、慇懃無礼な文語体で書かれていた。
「……何故?」
急かされるようなことだろうか、とクライスは腰に手を当てて首を捻る。
アイカ・ミストラル。
一昨日、倉庫で出会った彼女がそうだったのだ。
装飾の一つもない漆黒の外衣を纏い、同じ色の長い髪を後頭部の中央辺りで丸く結った、線は細いのに妙な存在感のある女性だ。
クライスは、暗闇の中現れた、病的に白い彼女の顔を思い出した。細長く尖った目尻と薄い唇だけが紅色の、色彩に乏しい細面。
天候を操るほど強大な魔力を有し、年輪を重ねた言霊で対峙する者をねじ伏せたという、かつての大魔導師。しかし百年以上生きているとは思えない程に彼女は若く、美しかった。
王暦が変わったのを機に彼女は前線を退き、現在は第一王子であるクレスロードの教育係兼お目付役を担っている。
クライスに壁磨きを急がせて、彼女に何か利点はあるのだろうか。
――早急に来られたし。
この最後の一文が一番引っ掛かるのだ。
例えば、城下町に面してはいないけれど城壁のある一面が苔まみれのカビだらけだから一刻も早く何とかして欲しいとか、心ない人間の悪戯で目も当てられないような落書きがされていて早く消さないと体裁が悪いとか、そういうことであるなら、まだわかる。だが実際はそんな理由めいた事柄は一切記されていない。ただ早く来いと、言葉を変えて幾度も綴ってあるばかりだった。
案外、大した理由はないのかもしれない。
本当に、あの煌びやかな城の壁に急ぎ清掃の手を必要とする大事が起こっているのだとしたら、わざわざ伝令を出してクライスを呼ぶ前に、城内や外壁の周りをうろついている軍部の警備兵を捕まえれば済むことである。
まあしかし何にせよ、壁磨きはせねばなるまい。行くだけ行ってみるか。
文面に読み漏らしがないか確かめてから、クライスは紙切れを折り目通りたたみ、更にその上から二つに折り、ズボンのポケットに仕舞った。
ミラーには訓練に戻れと言われたのだが――まあ、ミストラル女史に呼び出されたのだと言えば、大目に見てもらえるだろう。
脇に置いたマントと上着を肩に引っかけ、クライスは厩舎へと向かった。
*****
愛馬に跨ったままクライスは上着の前を閉め、乱れた髪を整えた。気持ちを引き締め、ゆっくりと城門に近付いていく。門番は、あの時と同じ男だった。
「よう。話は聞いてるぜ。入んな」
強面の門番は、クライスの顔を見るなりにやりと笑う。
「お前さん、この間地下倉庫に閉じこめられたんだって? 騎士様のくせに、随分と間抜けなんだな」
門番は日に焼けた顔をクライスから逸らすように横に向け、腹を押さえる。言葉の端々に、押し殺したような笑いが含まれていた。
「誰に聞いたんだ?」
「倉庫番だよ。なんでも、サボってる間に倉庫に人が入っていて、掛け忘れた鍵を自分が掛け直した所為でそいつが何時間も閉じこめられちまったってよ。それで、アイカ様に呼び出しをくらったらしいぜ。今回は大目に見るけど今度サボったら解雇だって。災難だよな。そいつも、あんたも」
「……全くだ」
普段よほど暇なのだろう、始終楽しそうに話す門番を前に、クライスは自嘲気味な笑いを浮かべた。そして、この話がこれ以上広がらないことを願った。
「それと、アイカ様から言付けを頼まれてんだ。『壁磨きを始める前に、西の離れ塔に来て下さい』ってさ」
首を傾げるクライスに、門番は城の奥に隠れて頭だけを出した白い塔を指す。先細りの巨塔は、城を離れた所に、それでも城壁の中に立っているらしかった。西の――と示されたその塔の反対側にも、似たような白い建物が建っていた。
「塔って、城の裏手の? あそこには何が?」
馬の鬣を撫で、クライスは視線を白い塔に向けたまま門番に尋ねる。
「あれは魔導研究塔だよ。聞いたことくらいあるだろ?」
魔導研究塔。確かに聞いたことはあるな、とクライスは記憶を巡らす。
現国王暦より以前、戦争の絶えなかった頃に魔導兵器の導入のために造られた施設。もっとも国同士の大きな戦争のない今、その機能はほとんど形骸化している、とのこと。
実際に見たことはなかった。あれがそうなのか。
「今でもその、研究をしてるのか?」
「さあな。詳しいことは知らん」
逞しい腕を組み、門番はうんうんと唸る。そして、決まった人間しか入れないし、実際には何やってるかわかったもんじゃないぜ、と口を尖らせた。
「俺がそんな所に行って、何になるんだか」
クライスの独り言に、愛馬が鼻を鳴らして応える。
「最後にもう一つ。あの人を怒らせちゃあいけないぜ」
「あの人?」
クライスが聞き返すと、門番はちっちっと舌を鳴らし右手の人差し指を立てた。馬上にいるクライスを上目遣いに見上げ、周りに人がいる訳でもないのに声をひそめ、言う。
「アイカ様だよ。あの人を怒らせて目を付けられると、この国では終わりだって話だ」
「それは大袈裟過ぎないか? いくら大魔導師だったって言っても、今は一教師だろ」
クライスの返答に驚いた門番は、これでもかというくらいに目を見開いた。クライスはその顔に思わず少し身を引く。
「知らないのか? 法政におけるあの人の発言権はすげえんだぞ。それはもう、おれ達の大将に匹敵するくらい」
「……本当かよ。あんた達の大将って、あの、仮面の――だろ?」
「そうともよ」
「そうなのか、知らなかった。凄いんだな、アイカ様って」
「ああ。だからあんまり待たせない方がいいんじゃないか?」
「そ、そうだな。もう行くよ」
「おう。そうしろ」
先日話をした際に、失言はなかったろうか。
内心冷や汗をかきながら、門番によって開けられた門をくぐる。すれ違いざま、門番の男がクライスの腿をぽんと叩いた。
「壁磨き、正面壁のとき手伝ってやるよ」
振り向いたクライスに、顔の横で拳を作ってみせる門番。日に焼けた肌に、剥き出した白い歯が眩しい。
「そりゃ助かる」
同じように拳を作って返す。
今日の経験値は、間抜け話が繋いだ小さな友情、といったところ。
*****
馬上から見上げたそこに、天高くそびえる白い塔。
(……てっぺんが見えない)
間近に見ると、一層物々しい建物だった。
手入れの行き届いた前庭とは打って変わって、陰湿な雰囲気が場を占めている。日当たりが悪いにも関わらず、足許に生い茂る草木は伸び放題。陰性植物ばかりを生やした、根っから暗い場所のようだ。
「よくぞお出で下さいました」
薄暗い塔の袂から、落ち着いた女の声がした。クライスが周囲を見回していた顔を正面に戻すと、塔の入り口と思しき場所にアイカが立っていた。
「……アイカ様」
「ご存じでしたか」
黒い外衣の裾を従え、アイカはゆっくりとクライスに歩み寄った。クライスが愛馬から飛び降りたのと、アイカが辿り着いたのはほぼ同時だった。
今日は髪を上げていないのか。
腰まである黒髪は、耳にかけられているだけ。柔い風に揺れるアイカの髪から、ほんのりと香の匂いがした。
「早速ですが、中へ」
「あの。ここって」
「魔導研究塔です」
迷いもなく答えると、アイカは一人でさっさと歩き出した。慌てて後に続いたクライスだが、厳かな、というよりは禍々しい空気を放つこの塔に、なんとなくだが入りたくなかった。しかし、当のアイカがクライスの先で扉を開けて待っていて、引くに引けなかった。
往生際悪く入り口で足を止めていると、扉を押さえていたアイカが強引に背中を押した。思いも寄らない力の強さに、クライスはよろめきつつ内部に踏み込んだ。正しくは、押し込まれた。
「急に呼びつけて申し訳ないと思ってます。でもですね、とても、耐えられなくて」
見るからに厳重な扉を封鎖すると、アイカは唐突にそんなことを言った。
「何に耐えられないんですか?」
「この散らかり様にです」
忌々しいといった顔つきで辺りをねめつけるアイカ。クライスはその視線を追う。
見渡す限りの本、本、本。横倒しになった本棚から零れた様々な書物が、入り口近くに至るまで散らばっていた。
海だ。間違って泳ごうものなら埃まみれになること請け合いの、本の海だ。
「それで、ワタシとても良い案を思いつきまして」
「はあ」
本の多さに呆気にとられていたクライスは、気のない返事をする。それに構うことなく、アイカは続ける。
「壁磨きをして頂く前にですね、ここを片付けて頂こうかと」
ちょっと待て。
聞き間違いだろうか、とクライスはまじまじとアイカの顔を見た。すると視線に気付いたアイカもまた、まじまじとクライスの顔を見返した。ゆっくりと吊り上がるアイカの口元を見て、クライスは恐る恐る口を開いた。
「……誰に、ですか?」
「貴方にです。片付けて下さい。ワタシも手伝いますから」
手伝うから――――と言いつつ入り口横に転がったスツールに座るアイカに、クライスは二の句が継げなかった。
「ご心配なく。ミラー・ローレン騎士団長殿には、その旨お伝えしてありますので」
「その旨……」
「研究塔の清掃をした後、晴れて壁磨きに取り掛かって頂くと。その代わり、壁磨きは城下町正面部分のみに限定、ということです」
あの人は、本当に勝手なことをしてくれる。それならそうと言ってくれれば良いものを。
しかし――
「……本当は、壁磨きなんてどうでもいいんでしょう。違いますか?」
「まあ、急を要する状態ではないでしょうね」
「塔の掃除……通達にそう書いてくださったら、もっと早く来たのに」
「これからそうします」
これからなどあるわけない。……ことを祈る。
騎士団における位置づけが、中隊長ではなく雑用係に確定してしまいそうだ。
しかし、ミラーの弟子で部下である限り、何かと理由を付けて雑務をやらされることは逃れられない、とクライスは悟っている。入団以前ミラーの屋敷で世話になっていた時も、むしろクライスが世話をしてやっているようなものだった。
だから理不尽に雑用を押しつけられることには慣れている。だが、しかし。
「どこから手を着ければ……」
途方に暮れる他ない。いっそ泣きたくなった。
「どこからでも」
手伝う気など微塵もない、アイカの無情な声がクライスの耳を右から左に抜けて行く。
クライスは塔の内部中心を貫く長い螺旋階段を見上げる。一体何階建てなのだろうと、考えただけでも気が遠くなった。