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05,消えた頁

気に掛かる手記の行方。「もう一度、愛を」……ざわつく胸を過ぎるのは何か。




 執務室の扉を叩き、クライスは部屋の主を呼んだ。

 目の高さに上げた拳もそのままに、暫し返事を待つ。が、応答はない。

「団長?」

 音量を上げ、二度目の声をかける。しかしうんともすんとも返らず、訝しく思ったクライスはそっと扉から離れた。いないのだろうか。

 ついさっき朝礼が終わったばかりで、珍しく遅刻せず出席していたクライスに嫌味をくれた後、ミラーはすぐに執務室へ向かって行った――ように思われたが、もしかしたらその足でどこへやら出かけたのかもしれない。

「クライス中隊長。団長なら中にいらっしゃるはずですよ」

「え」

 思わぬ声に目を見開き、振り返る。と、そこには誰もいなかった――

「下です」

――訳ではなく、単に視界に入らなかっただけらしい。再び聞こえてきた声は、振り向いたクライスの足許辺りに蹲った人物が発したものであった。

「アリス」

「どうも、こんにちは」

「ああ、どうも」

 吹き抜ける風が、アリスが取り落としたらしい書類を廊下の向こうへとさらっていく。

しかしアリスがそれに気づき立ち上がる前に、クライスは腕を伸ばしてそれを掴む。

「あ、すみません」

「いや…………それで、団長は中にいるって?」

 ギッシリと文字の書き込まれた書類を差し出しながら、クライスが尋ねた。するとそれを受け取りつつ、風に乱された髪を除けながらアリスが答える。

「はい。この時間はいつも……居眠りを」

 躊躇いがちに言うアリスの旋毛を見下ろし、何も彼女が申し訳なさそうにすることはないのに、と思う。

「皆さんが訓練している時間帯は大抵いらっしゃいます。たまに私用で出られることもありますけど……」

 放蕩気味なミラーに振り回され、アリスはさぞ苦労していることだろう。気の毒だな、とクライスは顔には出さず気持ちの上で苦笑する。

「やっぱりサボってたか」

「そうなんです。それで、実は私も、団長に用があって」

 ばらばらになった紙束を整え、アリスはにこやかに答えた。

「返事ないけど開けて平気だよな」

「と、思いますよ」

 顔を見合わせてから、クライスがそっと取っ手に手を掛ける。ガチャリと音を立て、木目塗りの扉が開く。その隙間からアリスが小さな顔を覗かせ、中の様子を確かめた。

「あれ?」

 頓狂な声を上げ、アリスが小首を傾げる。

「いません」

 困ったように見上げるアリスを顔を見合わせ、戸を押し開いてクライスも中を見た。

 もぬけの殻、だ。

 入り口正面に置かれた、どこの城から持ってきたのかと思うような装飾だらけの机。その上は山積みになった書類が雑多に散乱し、持ち主のずぼらさを露わにしている。

「どこに行かれたんでしょう」

「さあ……」

「困りましたねぇ。速急に目を通してもらわないといけない調書があるのに」

「それは」

 大変だ――と言いかけ、クライスはふと来客用のソファの上に目を留めた。

「うーん。あの、中隊長。私、団長探しに行ってきますね」

「あ? ああ」

 これまた無駄にでかく無闇に派手な皮張りのソファ。そこに置かれた二つのクッションの間に、垣間見えた黒い手帳。

 クライスは視線を吸い寄せられた。

「見つかったら、中隊長が探していたこと伝えましょうか?」

 酷い散らかり様の室内を気にも留めず、アリスは既に扉から離れようとしている。その横で、クライスは取っ手を握りしめたまま硬直していた。

「いや、大した用じゃないからいいよ。ありがとう」

「そうですか? じゃあ、失礼します」

 室内を見つめてぼうっとしているクライスに深々と腰を折り、アリスははす向かいの総務室に入っていった。

 その様子を視界の端で捉えながら、クライスは開いた口を閉じ、息を呑んだ。

 あれは、あの時の手記だ。

――私は何を望み、求めていたのか。

 不意に、最終頁の冒頭部分が頭の中で再生される。

 クライスは誰もいない部屋の中に踏み込んだ。廊下とは違う絨毯の床を踏みしめ、音もなく、ソファに近付いていく。細く空いた窓から吹き込む風に、書類がばたばたと鳴った。

 目的の物の手前に立ち、クライスはもう一度、室内に人がいないことを確認した。開け放した扉が気になったが、取り立ててまずいことをするわけでも無し――と開き直り、意を決する。

 波打つ白いカーテンを横目に、半ば放り出されたような格好の黒い書物を取り上げる。以前手にしたときにはわからなかった、焼け跡と同じ臭いがした。

 あの日見た、瓦礫の下の物言わぬ黒い顔が思い出される。光を宿さない暗い眼窩、虚ろに開いた口から覗く歯列。彼らの身体の在った場所には、それが何なのかさえ判然としない灰の塊しか残っていなかった。

 克明な記憶に吐き気がした。今更、とクライスは思う。

 その通り、今更だ。

 捜索をしている当初は遺体など気にもせず歩き回り、掻き集めた灰が人間の焼けたものだともわからずにいたに違いない。無念のうちに死んでいったであろう人々を足蹴にし、弔うということにさえ考えが至らなかった。

 今にして思えば、なんと非人道的な振る舞いだったことだろう。

 クライスは、黒ずんだ表紙に鼻を近づけた。生き物の、人間の焼ける臭いだ。そう思うととても、居たたまれなかった。

 表紙の、消えかけた金文字にそっと額を押し当てる。心の深きにおいて、後悔の念が渦巻いていた。


 気が付くと、手記を手に持ったままソファに腰を下ろしていた。

 来賓の為に用意された物を気安く扱うなと、ミラーの文句が聞こえてきそうで飛ぶように立ち上がったが、幸い、彼はまだ戻っていないようだった。

 開いた扉の向こうから、訓練に励む団員達の声が聞こえてきた。

「『私は何を望み、求めていたのか』」

 息の洩れる音にさえ消えてしまう程の声で、クライスは何気なくそう呟いていた。

 焼け跡に残された手記。それを締め括る頁に綴られた、過去への乖背。執着。

 気にならない、と言えば最早嘘になろう。知りたいのだ。“私”が望み、求めていたものが何か。“私”の足跡であり、行き過ぎた時間であるその過去に、何があったのか。

(……何故……?)

 前兆なく焼け落ちた研究所。そこでは尋常でない人体実験が行われていたという、まことしやかな噂。更にそれを黙認していたいう法政部。それらの全てが、集束していた。

(『バルトーク・ロルカ』)

 その名の下に、集束していた。

 この手記の影に、何か得体の知れない大きなものが沈んでいるような気がしてならない。しかし、魔導研究所というだけあって、魔的な力に惹きつけられているだけなのかもしれない、という思いも消えないではなかった。

 神妙な面もちで、ゆっくりと表紙を捲ったその瞬間、耳に痛い音を立てて扉が弾かれた。


「何か良いものでもあったかね? クライス」

 自室の扉を蹴飛ばしたであろう右足をゆっくりと下ろし、ミラーは意地悪そうに片眉を上げた顔をクライスに向けていた。

「師匠! 戻って……」

 突然のことに、クライスは思わず慣れ親しんだ呼び名を口走った。はっとして言葉を切ったときには、既にミラーの柳眉がぴくりと動いた後だった。

「失礼しました、団長……。お戻りに、なられたのですね」

「そうとも、たった今な」

 大股に部屋に入り、クライスの前に立つミラー。身長はクライスがやや勝っている為、ミラーは上目遣いに翡翠の瞳を睨み付けた。

 濃淡の緑色の目が、瞬くこともせず互いを見据える。

 先に動きを見せたのは、淡い緑――ミラーの方だった。ゆっくりと視線を下ろしていき、やがて黒ずんだ書物を抱いたクライスの胸の上で止まる。ミラーの睫毛が揺れるのに合わせてクライスの手が震えた。

「それをこっちに寄越しなさい」

 白い手袋の掌を見せ、ミラーが目で示す。手記を返せと。

「団長、これ……」

「それは貴重な遺留品なのだよ。返しなさい」

 目に見えぬ圧力に押され、クライスは胸から離したそれをミラーの手中に預けた。確かめるように脇に抱え、ミラーは一つ頷く。そして不満げな表情を隠せないクライスに向き直り、子を叱る親のような口振りで尋ねる。

「何か言いたいことでもあるのか?」

 クライスはふてくされたように目を逸らし、落ち着きなく揺れるカーテンを見つめながら渋々首を振った。

「なら良し。訓練に戻りなさい」

「団長」

 派手に散らかった机の奥に回り、定位置の椅子に腰を掛けようとしたミラーが、呼びかけられてはたと動きを止める。

「まだ何か?」

 椅子に腰を下ろし、頬杖をついて次の言葉を待つミラーの前、机の向かい側に立ったクライスは、いつになく真剣な表情で切り出した。

「その手記、一日だけ貸していただけませんか」

 クライスは書類の上に手をついて身を乗り出すようにし、目を丸くするミラーに懇願の視線を送った。ミラーは驚いて開いた口を一度閉じ、数秒考え込む。手袋の指先で細い顎を摘み、手許に置いた書物に目をやってまた数秒たつと、ようやく口を開いた。

「手記とは、これのことか」

「そうです」

「……中を見たのか?」

「最後の頁だけ」

「ほう」

 最後ね……と呟きながら、ミラーは人の悪い笑みを浮かべる。焦げた表紙を開き、細い指を繰って頁を捲っていく。時折挟まっていた灰が宙に舞ったが、気にも留めずミラーは音を立ててページを進めていく。クライスは黙ってその様子を眺めていた。

「最後の頁のみを見てこれが手記だと判断出来たとは、見上げたものだと誉めておこうか」

「え?」

 言葉の意図がわからず、クライスは思わず顔をしかめた。しばらく様子を伺ってから、ミラーは溜息混じりに言う。

「見てみろ」

 ミラーが、閉じた手記の裏表紙を手の甲で叩いて見せる。

 慎重に裏表紙の端を持ち上げるクライスの動作を、ミラーは汚れた手袋をはずしながら流し見ていた。そして予想とは違う結果に見舞われ、クライスが驚愕の声を上げた。

「ない」

「何が」

「何も。何もない」

 貴重品だということも忘れ、乱暴に他の頁を捲った。が、黒く焼けた紙面があるだけで、あの日クライスが見た文章はどこにも記されていなかった。

 そんなはずはない、と夢中で頁を捲るうち、一枚だけ、白い紙面を残した頁を見つけた。

「……あ?」

「お前がそれを持ち帰った日、アリスが遺留品の整理をした。この手帳に関して文字が記されていると報告があったのは、見てわかっただろうがその頁だけだ」

 全体の真ん中より少し前。焦げずに残ったその頁の上部に、ただ一行。

――もう一度、愛を――

 その言葉をなぞった瞬間、クライスは心を抉られたような気がした。

「まあ、お前の言う通り手記か、日記であるのかもしれん……が、気に掛けるような物ではないと思うがな」

 クライスは一度頁を閉じ、表紙や裏表紙を確かめる。あの時目に、手にしたものであることを再度確信する。しかし――

 あの頁は、消えてしまった? テレサの声で聞き自分の目で見たあの文章は幻だったとでも言うのだろうか? クライスは訳がわからなくなり、頭を抱えた。

「何を思ってこれを開いたか知らんが、気が済んだのなら訓練に戻れ」

 ミラーに宥められ、クライスは茫然自失なままふらふらと鍛錬場に戻った。

 去り際にミラーが背後で呟いた言葉だけが、妙に記憶に残っていた。

「……『もう一度、愛を』か。こんな一文だけが残るというのも皮肉なものだ」

――もう一度、愛を。

 声に出さず、喉の奥で囁いてみる。

 帰らない思い人の名を呼ぶようで、少し悲しくなった。

  



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