表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/20

02,町酒場パメラ(1)

友人とコーヒーと蒼い瞳。暑い日に呑む酒が染みる、親父くさい十九歳。




 食器を片づけたテレサが厨房からホールに戻ると、先程までいなかった二人の客がカウンターの奥に座っていた。

 鍔のない帽子をかぶった男児が、隣りの父親であろう人物に懸命に話しかけている。微かに耳に入ったのは、理解に苦しむ言葉だった。

 店内を見渡すと、客は全部で三組、六名。カウンターの父子、店奥のテーブルの母子、そして、よくわからない男女の二人組。

 昼時にしては珍しく、客が多い。

「テレサ、カウンターのお客さんに注文を聞いて」

 片手に二つの料理を持ちながら、振り向きざまに店主が言った。松葉杖をせっせと動かして、どうやら店の奥の母子に料理を運んでいるらしい。想定外の客の入りに、彼も戸惑っているようだった。

 カウンターに入り、仲睦まじく話す父子の前に立つ。テレサに気付いた父親が、何が飲みたいかを子供に尋ねた。すると子供は難解な口調で何事か呟くと、さっと顔を逸らして壁の方を向いた。人見知りだろうか、テレサの顔を伺いつつも、決して視線は合わせようとしない。

「ミートパイを二人前、あと水も」

 注文に頷いて応えると、テレサは後ろにある棚からグラスを二つ取り出し、厨房に向かった。ホールと厨房とを隔てる木戸に手を掛けた時、“お腹空いた”と言う子供の声が聞こえた気がした。

 厨房に入ると、流し台の奥にある丸い椅子に腰を掛けて休んでいる人物がいた。彼女はあくびをする自分の横顔に注がれるテレサの視線にも、まったく気付く様子はない。

 味気ない天井を見つめたまま動かない茶色い瞳。テレサはそのすぐ横に立ち、袖に隠れた手を彼女の細い肩に乗せた。

「あ、ビックリした! どうしたの?」

 すると、彼女はバネ仕掛けの人形のように椅子から飛び上がった。その拍子に、膝に乗っていた布巾がはらりと床に落ちる。目を丸くした顔はテレサの方を向いたまま、彼女は布巾を拾おうとその場に屈んだ。しかし、伸ばされた右手は布巾寸前で空を切るだけだった。

「ミートパイ二皿」

 流し台の蛇口を捻りながらテレサがそう告げる。その言葉に彼女は慌てて布巾を拾い、立ち上がる。エプロンのポケットに布巾を突っ込むと、

「ミートパイね!」

と元気良く返事をした。

 なみなみと水をついだ二つのグラスを手に、テレサは既に彼女に背を向けていた。慎重に足を運ぶテレサの後ろで、彼女はいそいそと材料を準備し始める。

 昼時のこの店には、とんと見られない光景である。

(なんか今日、忙しいなぁ)

 忙しなく動き回りながら、彼女は思った。そして、先程からほとんど前に進んでいないように見えるテレサの後ろ姿を、盗み見る。肩は強ばり、袖から覗く白い手は妙に力が入っていた。それを見て、なんだかおかしくなる。

 いつもは、テレサが注文された物を持っていくことなんてないのだ。

(それにしても水、多すぎないかしら)

 危なげに揺れる液面を横目に、彼女は胸の内で呟く。

 余所見をしつつも彼女の手は正確に動き、動かされた包丁は見事に玉葱を刻んでいく。その一方で火にかけた銅鍋への注意も怠らない。

 あと三分たったら中火にする。

 これは日が暮れてからの忙しさだ。手元に視線を戻し、思う。

 この時間、いつもなら兄と、自分と、時にはテレサも交えてカウンターのところで雑談しながら昼食をとっているはずだった。とは言っても、テレサが発言することは皆無に等しく、ただその場にいるだけだが。

 客足が増えてくるのはその後。二、三時間暇を持て余したのち、日が暮れる頃からだ。それなのに、何故だか今日は朝から客のいない時間がなかった。

 お客さんがたくさん来てくれるのは嬉しい。だが、慣れない忙しさが妙に身体を疲れさせるのだ。小さな溜息を漏らし、彼女は首を回した。

 でも思い返すと、今までも年に何度かはこんな日があったかもしれない。

 細切れになった玉葱を鍋に流し込むように入れて木ベラで軽くかき混ぜると、彼女は一度手を休めた。腰に両手を当て、後ろに伸びる。後はパイ生地が焼ければ終わりだ。

 二度目のあくびを手で隠しながら、目尻に溜まった涙を空いた手で拭う。

 ふと見ると、ホールへ繋がる短い廊下の開き戸の前で、ようやくそこまで進んだらしいテレサが立ち止まっていた。手が使えずに困っているのかと思って傍によると、ちょうどホール側から松葉杖をついた兄のレイが現れた。

(あ、ぶつかる!)

 と、彼女が肩を縮ませた瞬間、押し開かれた戸はテレサにぶつかる寸前で止まる。一瞬の静寂の後、レイが大袈裟に息を吐いた。

「あぁ危なかった。テレサ、大丈夫?」

 空いている方の手で戸を押さえながらレイは硬直したテレサの顔を覗き込む。テレサは驚いて半分開いた口を閉じると、数秒の間をおいてから小さく頷いた。

「なら良かった。もう、休憩していいからね」

 そう言ってレイはテレサの手からグラスを取り、片手で器用に二つ持つ。そしてそのまま踵を返し廊下の向こうに消えた。床を打ち鳴らす松葉杖の音が、少しだけ遠くなる。

 グラスを奪われたテレサはと言うと、不満な顔をするでもなくレイに続き、音もなく木戸をすり抜けていった。

「あ。鍋、鍋」

 残された彼女は、忘れそうになっていた鍋に駆け寄る。が、ちょっと目を離した隙に、吹きこぼれた中身がコンロを汚していた。

 火を止め、肩を落とす。昨日、コンロを綺麗に掃除したばかりだった。

(ま、いっか)

 気を取り直し、オーブンを覗き込む。後少しで焼き上がるだろう。彼女は再び丸椅子に腰を下ろし、今日のまかない料理は何にしようかと思いを巡らせた。




*****




 テレサの働く酒場は、王都の中心街の一角にあった。

 王都には五叉路と呼ばれる、大きな通りが五本交差する場所があり、その一帯を人々は中心街と呼ぶ。各々の通りには民家や商店が所狭しと並び、どこも全て朝から晩まで灯りが消えなかった。昼はそこで生活する市民や他国よりの商人、田舎から出てきた者達が行き交い、夜になると海へ出ていた者達が帰り、酒場を賑わした。

 そんな夜の舞台の一つ、街酒場“パメラ”は城下町に続く通りの、中ほどにある。

 木造りの洒落た看板を掲げ、けして大きくはない店舗を構えたこの酒場は、レイとナナという兄妹が、店を作った今は亡き両親の後を継いで経営している。余談ではあるが、店名は、高名な魔導師として国に仕えていたこともある彼らの祖母の名前をそのままつけたらしい。という話を母から聞いたのだと、兄のレイが言っていた。

 どこか温もりの感じられる造りの店内に窓はなく、昼間でも傘を被った丸いランプに照らされていた。赤褐色の石を積んだ壁も綺麗にしてあり、所々に小さな絵画が掛けられている。そしてテーブルの上に置かれた香りの出る蝋燭の揺らめきが、不思議と心地良いのだった。

(昼はいつ来ても静かだな、此処いらは)

 クライスは店の入り口手前で馬を止め、身軽に飛び降りる。手綱を引いて建物の横に回ると、日の当たらない場所に繋いだ。鼻をすり寄せてくる愛馬の鬣を撫で、その場を離れる。

(もう昼休憩にでも入ってるかな)

 店の入り口、両開きの木戸に手を掛けて中を覗く。

 この時間帯は大抵暇なのだと、店主の妹ナナがぼやくのを聞いたことがあった。その代わり酒場というものは総じて夜をめがけ忙しくなるものだと、当たり前のように兄のレイがそれに答えていたのも覚えている。

(…………あれ?)

 しかし今、クライスの目に映るのは早足で二つの皿を運んでいるナナの姿。その対角には、空いた皿を数枚重ねそれを片手に持とうとしているレイ。

 クライスの予想した、それぞれが思い思いの場所に座りのんびりと昼食をとっている光景など、何処にもなかった。

(もしかして今、忙しいのか?)

 まずい所に来てしまったかと、頭の後ろを掻きながら戸を離れ、後退するクライス。遠目にもう一度様子を伺うと、やはり店内には数名の客がいるようだった。

 客がいるなら、店員と話しに来たようなやつはお呼びでない。と、頭を切り換えたところで、はたと記憶を巻き戻す。

 今、中にテレサはいただろうか。

 以前来たのは、昼よりも少し前の時間だった。が、やはりレイやナナの言うとおり客はおらず、二人は向かい合ってカウンターのところで喋っていた。テレサは、確か、カウンターに背を向ける形で店の一番奥のテーブルに着いていたはずだ。何をしていたわけでもなく、覚えている限りずっと壁に掛かった絵画を見ていた。ひょっとしたら寝ていたのかもしれない。が、店内にいたことは確かだ。

 その前に来たときは、一人だけ客がいたのだが、彼はクライスが入ってくるなり逃げるように出て行ってしまった。邪魔をしたわけではなかったが、暇をもたらしてしまったので多少悪いような気がしていた。しかし、暇だ暇だと言いながら、二人は客を待ち望んでいるわけでもないらしかった。その辺りのことはクライスにはよく分からない。

 そのときは、テレサは二人が歓談する横で、高めに作られたカウンターの椅子に座っていた。あたかも会話に参加しているかのように見えたが、実際は一言も発することなく、グラス一杯に注いだ水をチビチビと飲んでいただけだったらしい。

 だがとにかく、とりあえず店にはいた。いるだけだったが、店内にいたのは確かだ。

 再び戸に身を寄せ、店内を見回した。が、いない。店の奥にもカウンターにもその姿は見えない。

(今日は店に来てないのか?)

 一瞬、カウンター横の厨房に続く廊下を見て、すぐに目を客席のあるホールに戻す。

 厨房に立つことはないと、テレサが自分で言っていた。元々店員として雇われている訳ではないテレサだから、それは当然と言えば当然だった。

 やはり何度見ても、ホールに姿は見えなかった。となると、今日は来ていないということだろうか。定休日以外はほぼ毎日来ていると聞いた気がするのだが。

(用心棒のくせに何やってんだか。……まぁ、夜だけいればいいのか。あいつは)

 溜息を吐きながら、戸から離れる。壁に背中を預けて腕を思い切り前に伸ばした。かっちりとした造りの制服は、肩が凝るのだ。

 有事の際の用心棒としてテレサを雇っているのだと、レイからそう聞かされたときは眼球が飛び出る程驚いた。いや、本当に飛び出た訳ではないが、それほどの衝撃を受けた。

 屈強な肉体に、天井に届くかと思うほどの上背。そんな男達が酒に酔って起こす喧嘩をテレサに止められるとは、クライスには到底思えなかった。

 身長は低く、体つきは細身。長ったらしい袖に隠れた腕は顔や首と同じく色白で、肉付きも良くない。とても腕力があるようには見えなかった。脚だって、ひょっとしたら多少の筋肉が付いているのかもしれないが頑丈というにはほど遠い気がした。

 それに何より、テレサは女だし――いや、この広い世の中、用心棒を名乗る女は少なくないが――まだ子供だ。出生ははっきりしていないが、確実に、今年で十九になるクライスよりは年下だった。

 実際は、クライスより年下でも腕の立つ子供はいるだろう。探せばきっと。

 言ってしまえば、テレサが剣を振り回し酒に酔った巨漢を相手に戦っている姿を、クライスが想像出来ないだけであった。

(あれで役に立つんだろうか……?)

 いつからこの店にいるのかも、どのようにして雇われたのかという経緯も、クライスは知らなかった。余計なこととは思いつつも、激しい乱闘が起こった時テレサがどう出るのか心配になる。

(第一、戦えるのか? ……って、俺が心配することじゃないか)

 と、強引に思考を中断させ、クライスは眼前に伸びる照り返しの強い通りに目を向けた。

 豪華絢爛な馬車が、ゆったりと目の前を横切っていく。中には気位の高そうな女性が一人。毛羽だった扇を片手に、道行く人には目もくれず前を見据え、座っていた。

 クライスはぼんやりとその女性を見送り、遠ざかる馬車をしばし目で追った。

 やがて、車輪が舞い上げた砂埃だけが残る。クライスはその向こうに、見慣れた顔を見つけた。

 霞んだ道を店に向かって歩いてくる、変わった風体の少女。抱えた茶色の紙袋からは、細長いパンが顔を出している。どうやら、酒場の斜め向かいにある、彼女行きつけのパン屋から出てきたところらしい。

 クライスは、のろのろと近付いてくる彼女を見、意識的にその腰に目をやった。

 二重に巻かれた革のベルトに下がった、一振りの剣。体格に似合わず大ぶりで重そうなその剣は、長年雨風に晒されたようなくたびれた鞘に収まっていた。柄部分に巻かれた布も随分と擦り切れていて、初めてそれを見たときは使い込まれた剣なのだという印象を受けた。しかし、彼女がそれを抜いた所はまだ見たことがない。店に出るときはいつも身に付けているようだったが、定休日などに街で出くわしたときは丸腰だった。

 剣というものがテレサにとってどんな意味を持つものなのか、そしてその剣は実際にテレサが使っているものなのか、はたまた単なる骨董品であったものなのか、クライスにはおよそ見当がつかない。

「よぉ、テレサ」

 壁に寄りかかったまま、軽く片手を挙げる。それに、テレサは伏せがちな目を上げて応えた。乱れた前髪の隙間から見える瞳は、やはりどこか眠たそうである。

 テレサは何か言いたげにクライスを見上げていた。が、ふいと顔を下げると、クライスを通り過ぎ店に入っていった。クライスは何気なくその後について行く。

 木戸を押し薄暗い店内に踏み込むと、パンで一杯の袋を抱いたまま、テレサがカウンターに背を預けて立っていた。

 開いた反動で戻ってきた戸に背をしたたかに打たれ、クライスは前方にのめる。けたたましい音を立てて軋んだ戸が、余韻を残しつつ揺れる。

 その音を聞きつけてか、店の奥で空いたテーブルを拭いていたレイが振り向いた。

「やぁクライス。よく来たね」

 白い歯を見せて笑うレイに、クライスは小さく笑って返す。

 改めて見渡すと、数名の客が入った店内は以前と違うように見えた。そこそこで話す声や食器同士の当たる音がし、夜とはまた違う穏やかな賑わいを見せている。

 台布巾を手に、松葉杖を使ってひょこひょことレイがやって来た。右足は添え木の上から頑丈に包帯で巻かれている。怪我をしたのか。

「足をどうしたんです」

 その問いに、カウンターに手をつきテレサの横にある椅子に腰を掛けたレイは、恥ずかしそうな面もちで頬を掻いた。そして何度か口ごもってから、諦めたように口を開いた。

「いや、家の階段を踏み外して落ちたらぽっきりとね。間抜けだろ」

 レイはからからと笑いながら、杖の先で足をつついて見せた。その横で、テレサは無関心な顔をして平坦な目を戸の外に向けている。既に聞いた話なのか、レイの話を聞く意思はなさそうである。

「それで、今日はどうしたんだい?」

 急に思い出したように言うと、レイは台布巾を持ったまま腕を広げる。話すときに大袈裟な身振り手振りをするのは、彼の癖だった。

「昼飯でも、と思って来たんです。テレサに話もあったし。でも、なんか今日忙しそうだから出直そうかと思っていたところで」

「そうか。ならゆっくりしていきなよ。もう落ち着いたから」

「いいんですか?」

「もちろん。テレサも休憩に入ってるしね」

 と言ってレイはテレサの肩に台布巾を持った手を乗せた。

 唐突に話を振られ、テレサはにこやかに笑うレイの顔を横目で見る。そしてそのまま視線を滑らせ、クライスを見やる。が、別段言うことがあるわけでもなかったらしく、その目は再び外へと向けられた。

「何か飲み物を頼んでも?」

 完全に動きの止まっているテレサは放っておくことにし、クライスはカウンターについた。

「ああ。……そうだ。良い酒が入ったんだよ」

 横にいたレイが嬉しそうに言って、足早にカウンターの中に入り松葉杖そっちのけでしゃがみ込む。杖だけを残し姿が見えなくなったレイは、がたがたと音を立てながらも何事かを捲し立てていた。九割以上は聞き取れなかったが、おそらくは今言っていた酒のことでも説明していたのだろう。

 酒の銘柄にも年代にも興味の薄いクライスは、「へぇ」とか「すごいな」とか相槌を打ちながら、頬杖をついてあくびをしていた。

 カウンターの奥に座っていた父子が、壁のメニュー表を見てごそごそと動いていた。勘定だろうか。そう思って見ていると、数枚の硬貨を手にした父親がキョロキョロと辺りを見回して、何者かを探しているようだった。

「あったあった。これだよ、外国物の」

 と、そこへ具合良くレイが顔を出す。

 緑色の透明な瓶が、見せびらかすようにクライスの前に置かれた。鼻先に立てられた瓶に思わず仰け反ったクライスが、ラベルの文字を指して自慢げに喋るレイに言う。

「レイ」

「ん?」

 その声にようやく我に返るレイ。クライスは小さく息を吐き、困り顔で立ち尽くす客を目で示した。

「ああ、すみません。勘定ですね」

 ぺこぺこと頭を下げながら差し出された硬貨を受け取り、レイは頭を掻いていた。

 気にした様子もなく帰り支度をする父子の後ろに、もう一組の親子が様子を伺うように立っていた。長い髪を垂らした母親らしき女性の手には、くすんだ色の紙幣。また勘定だ。

「あ、奥さん。どうぞこちらへ」

 今度はレイも気付いて、真っ当な接客態度を見せた。

 一枚の紙幣を渡し釣り銭を受け取った母子は、そそくさと店を出て行った。その後を追うように、先程の父子が律儀に頭を下げ、退出していく。

 店内が一気に静かになった。徐々に小さくなる木戸の音だけが、いやに響く。

 客は、クライスを覗いて一組。壁際のテーブルで、注文した物もろくに食べず額を寄せ合う男女の二人組だ。二人は、周りなどまるで見えないといった様子で語らっている。夏だと言うのに、テーブルの上で握り合った手が暑苦しい。

「さぁ、クライス」

 耳元で呼ばれ、頬杖に乗せていた顎を浮かし前を見る。そこには満面の笑顔のレイが、これから芸でも見せるのかと思うような、両腕を大きく広げた格好で立っていた。

「存分に味わってくれ」

 そう言ってすっとグラスを差し出す。薄褐色で透明な液体の注がれたグラスからは、爽やかな甘い香りがした。

「じゃあ、頂きます」

 クライスは磨りガラスのような手触りのグラスを手に取って一度レイに掲げる。が、口元に運び、さあ飲もうかと言ったまさにその時、入り口の戸が軋んだ音を立てて開かれた。

 クライスは一瞬手を止めた。新たな客が来たのだ。

「いらっしゃいませ」

 酒瓶に手を掛けたまま、レイは店員らしくお好きなところにどうぞ、と言った。

 入ってきたのは、二十から三十代に見える男。癖のない銀髪を揺らし、射すような陽射しを背に受けて、入り口付近に立っていた。

 何となく、クライスはその男の様子を盗み見ていた。

 男は一通り店内を見渡したのち、カウンターの奥に席を決めたらしく、その方向に歩き出す。靴音一つさせず歩き、そして流れるような動作で椅子にかけた。

 男は黒の上下をすっきりと着こなし、中には襟の立った白いシャツを着ている。タイはしていない。

 やっと酒瓶を手放したレイが、カウンターに手をついて移動する。男は斜め前に立ったレイに気付き顔を上げると、低い声で、

「コーヒーを」

と言った。

 こんな時期に熱い飲み物を頼むなんて、物好きな客がいたもんだ、などと考えつつ、クライスは手に持ったままで口を付けていないグラスを置き、芳しい香りを放つ液面に視線を落とした。

「では、少々お待ち下さいね」

 と、人好きのする微笑みを残し、レイは厨房に向かった。床を打つ松葉杖の音が振動してグラスを震わせる。液面に生じた波紋を見つめていると、やがて、静かに消えていった。

 左の肘に何かが当たるの感じ、振り向くと、肘に触れていたのは、パンの詰まった袋だった。が、そこには抱えていた者の姿はなく、袋だけがちょこんと椅子の上に置かれていた。クライスは周囲に目を配る。すぐに、テレサがふらふらと厨房に入っていくのが見えた。

 普段入らないという厨房に一体何をしに行ったのだろうと、不思議に思いテレサが戻るの待っていると、コーヒーを準備しに行ったはずのレイが松葉杖だけの手ぶらで戻ってきた。そしてそのレイは、心配そうな顔で厨房の方を覗き込んでいる。

「慌てるなよ、落ち着いて。足許に気を付けるんだぞ」

 厨房から出てきたのは、火から下ろしたばかりであろうコーヒーメーカーを右手に、既にコーヒーの注がれたカップを乗せたソーサーを左手に持ったテレサだった。ゆっくりとカウンターに入り、注文してからピクリとも動かない男の前に立つと、そっと、コーヒーを差し出した。それと同時に、クライスの横にいたレイがほっと安堵した。

 なるほど、とクライスは心の中で手を打ち合わせる。テレサはレイの手伝いをするために厨房に向かったのだ。殊勝なことだ。

 いつもならなんでもない作業も、松葉杖で片手の自由が利かない今のレイにはなかなか難しい。確かに、熱いコーヒーを松葉杖をついて運ぶのは危険な気がした。

 しかし――と、鍋敷きの上にコーヒーメーカーを置き、満足げな――ように見える――顔をしたテレサを横目にクライスは考える。

(あいつに持たせる方が危ない気がしないでもないがな)

 それでもテレサなりの気遣いが窺え、見直す反面なんだかおかしくなり、クライスは喉の奥で笑いを堪えた。口元を手で押さえながら顔を上げると、カウンターの奥にいたはずのテレサが正面から怪訝な視線を寄越していた。

「な、なんだよ」

 思わず声が上擦る。眉こそ寄っていないが、少しばかり低い位置から見上げるその目はクライスのにやけた顔を明らかに怪しんでいた。ややあって結ばれていた唇が物言いたげ開いたので、クライスは言葉を待った。

「おかわりは自由ですので」

 後方から、おそらくカウンター端の男に言ったのだろう、レイの声が聞こえた。

 男は半分ほど中身の入ったメーカーをちらと見たが、それ以上の反応は見せず、それまでと変わらない動作でカップを口に運んでいた。

 テレサの言葉を待ちながらも、クライスは視界の隅で動く人形のような男を気にした。

 男はやがて音もなくカップを置いた。僅かな間を空けてから、男の腕はコーヒーメーカーに伸びる。次の瞬間、時間が止まったかのように男の手が静止し、クライスはつられるようにして男に目を留める。

 刹那、クライスの心臓は射抜かれ、凍りつく。えも言われぬ戦慄が背筋を走り総毛立った。引きつった喉から小さく息が洩れる。

 顔はコーヒーメーカーを向いたまま、しかし、その眼球は確実にクライスを捉えていた。蒼天を思わせる眼差しが、クライスの深緑色の瞳にしかと喰らいついていたのだ。

 男の目は鬼気とした狂気を帯びていた。が、それは刹那に掻き消え、あとはただ深く、蒼い瞳だけが向けられていた。

 目が合っていたのはほんの二秒足らずだろう。だが、クライスにはその微々たる時間がひどく長く感じられた。

 男は、視線を外すと何事もなかったかのようにコーヒーメーカーを取りカップにコーヒーを注いだ。そしてまた、しずしずと飲み始めたのだった。

 硬直の解けたクライスがぎこちない動作で正面に向き直ると、そこにテレサの姿はなく、代わりに厨房から出てきたらしいナナが、洗い立てのグラスを戸棚にしまおうとしていた。

「……あれ、テレサは?」

「え?」

 独り言じみたクライスの呟きに、棚の上段に手を伸ばしていたナナが振り向く。緩く編まれた髪が鼻先を通り過ぎた。クライスはそのほのかな香りに酔いしれつつ、再度尋ねる。

「あいつ、どこに行った?」

「私が来たときにはいなかったよ」

「ナナは今、来たんだよな?」

「うん」

 椅子を回転させ、カウンターに背を向ける。薄闇に浮かぶ八つの蝋燭。若い男女の座る一つを除き、それらのテーブルのどこにも、人影すらない。

 カップルの話し声も然る事ながら、店内は直と、静か。背後、厨房の奥からレイの松葉杖の音が時たま響くぐらいで、音らしい音のないそこは町中にある酒場とは思えないほど閑寂で、平穏だった。

 馬を駆り剣を振るうクライスの日常とはかけ離れたこの空気こそが、この国で生きる多くの人々にとっての日常なのだ。

 そう考えると、安らぎを覚える反面、居ても立ってもいられないような焦燥に駆られた。

 クライスは無意識に、左腰にある剣の柄を握りしめる。手に馴染む皮の感触。金属の重み。それは誠を尽くす心、王の守護者たる証。

 ふと、思う。こんなに安穏としていて、いいのだろうか。

「君は、お昼ご飯を食べに来たの?」

 食器同士のぶつかる音の合間に、ナナの声が聞こえた。クライスはそれには振り返らず、空な返事をした。そこからナナが続けた会話は、聞いていなかった。が、楽しげな笑い声が耳にとまり、つられて笑った。


 一年と少し前、任務中に初めて人間を斬った。相手は敵国の密偵だった。

 王都を巡回していたクライス達に迫られ相対したその男は、まるでそうなることを予期していたかのように応じた。しかし、いや、やはりと言うべきか、話し合いがもつれた末、険悪な雰囲気の中先だって男が刃を向けてきた。

 対峙した男が腕を振り上げる。

 クライスは上官を庇うよう無意識に前に出ると、次の瞬間、剣を抜いていた。

 肉を断つ音がし、振り抜いた剣が赤い尾を引いた。とどめを刺したのは一緒にいた中隊長だったが、男の傷口から流れる生々しい血に、クライスは否応なしに気付かされた。

 王騎士の誇りは、命を断つ刃だった。善悪を問わず斬り伏せる剣は、使える者が持つことによって人々を護ることが出来るのと同時に、護るべき人々の脅威にもなり得るのだ。


 こんなにも平和でいいのか――――いいのだろう。剣を振り上げ、そして振り下ろす機会など、少ない方がいい。この国の刃は、人々によって希求された平和を、護る為にあるのだ。

 戦乱期を離れ、人は平坦な日々が続くことに慣れる。考えてみれば、贅沢なことだ。平和であることは当たり前ではない。それを、いつも忘れそうになる。

「あ、帰ってきたよ」

 声の音調を上げ、ナナがクライスの肩を叩く。それに振り向くと、上着に付いたフードを目深に被ったテレサが、戸を押して入ってきたところだった。

 クライスの隣の席に着き、テレサはフードを後ろに払う。露わになった彼女の細い髪はくしゃくしゃになっていた。とりわけ頭頂部辺りが、そこを持って引っ張られたかのように盛り上がっている。

 クライスは軽く吹き出し、表に置いてきた愛馬の仕業であろう、テレサの乱れた髪を直してやった。

「またジャビルと遊んでたのか」

 半ば呆れたようなクライスの言葉に瞬きで応えると、テレサは脇にあった酒瓶を引き寄せた。

「…………飲むの?」

 その様子にナナが目を剥く。瓶のくびれた部分を握ったまま、テレサが頷く。困ったような顔をしながらも、ナナは仕舞ったばかりのグラスを一つ取り出し、テレサの前に置いた。

「やめとけって。ガキなんだから」

 テレサの手から瓶をもぎ取り、クライスはそれをナナに返す。おもしろくないと言った顔のテレサを宥めつつ、酒瓶を隠してナナが別の瓶を取り出す。

 コルクの栓を開け、静かに中身を注ぐ。ふと広がった甘い香りに思わず唾を飲む。そう言えば、喉が乾いていたのだ。

「よし。ほら、乾杯しようぜ」

 クライスは自分の前にあったグラスを取り、テレサの視界にかざす。表面についた水滴が数粒落ち、小さな音を立てた。

 長い袖から出した手でグラスを掴み、テレサがそれを軽く持ち上げる。そこにクライスがグラスを当てると、小気味好い響きが澄み切った空気を伝った。

 クライスが半分程に減ったグラスを置くのとほぼ同時に、テレサはほとんど水位の変わっていないグラスをコンとカウンターに置いた。   




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ