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15,陽炎稲妻水の月

バルトークの言葉で思い起こす、炎の瞳、写真の中の笑顔。




 沈みゆく太陽に向かい、街外れの邸宅へと歩く。賑やかな通りを抜けると灯る明かりはまばらに、すれ違う人は少なくなった。

 夕闇を渡る鴉の姿が目に入る。翼を広げた細い影が大きな夕焼けに呑まれ見えなくなるのを、クライスはじっと見つめた。夜が近かった。

 迫り来る夜闇を思うと背筋が震える。

 何故、自分は暗闇を恐れるのだろう。

 昔から、夜になると家中の明かりが付いていないと不安になる程、暗い所が苦手だった。眠りに就くときは勿論のこと、朝目を覚ましたときも、明かりが付いてないと癇癪を起こしたりした。ひどいときにはなりふり構わず暴れたこともある。

 今でこそ年と共に成長した自制心が物を言うが、幼い頃はどうにも自分を抑えることが出来ず、深い闇の中に一人で眠る自分を一瞬でも想像すると、もう訳が分からなくなった。我が身を抱く闇、それに自分が同化してしまうのが恐かったのだ。

 暗闇に輝く黄金の双眸に誘われ手を伸ばすと、頭から喰い殺される。そしてそのあとに残る、自分だが自分ではない存在。己の忌み嫌う金目をした、異質な自分がそこにいる。そんな夢をよく見た。

――誰だお前は――

 自分に向かってそう叫ぶと、いつも決まって目が覚めた。

 見開かれた目に映る普段と変わらぬ景色。変わらぬ顔。彼の瞳が瞬くのを見て初めて悪夢から解き放たれたのだと知る。飛び起きて彼の胸に抱きついて、溢れる涙を白いシャツに染み込ませる。そうしてようやく安堵するのだ。

 手枷、足枷。クライスを縛り付ける闇色の鎖。

 今夜は眠れない。耳元で息づく恐怖を振り払える自信がない。

 だからこうして二人について来たのだ。

「クライス」

 前方でテレサと並んで歩いていた彼が振り向く。茜色に染まった髪が揺れて表情を隠していたが、きっとコーヒーを飲むときと同じ顔をしているのだろう。名を呼んだまま動かない唇を目に、そんなことを思う。

 足を止め、言葉を待つ。舞い上がる風がクライスの、テレサの、彼の髪を浚う。

「疲れていないか」

 目元に浮かぶ心配の色。差し伸べられた手がクライスの髪に触れると、視界の端で一枚の葉が風に流れた。彼の手が下りる。

 長く伸びた影の上、黒いスラックスの裾が揺れる。そこから目線を上げると、静かに瞬く彼の目があった。

「平気です」

 力無い笑顔でそう返すと、彼は苦しげに眉を寄せた。

 強がりは止せ、と。

 風の囁きのように耳に入る彼の声。

「人の心が弱いことを、誰も責めはしない」

 蒼い目がクライスの顔を、心を映す。

 そこにいるのは泣き出しそうな顔をした子供。深い緑色の目が潤んでいる。

「無理はするな。少なくとも私の前では」

 切なくて、一つ。言葉が零れる。

「…………眠れ、ないんです」

 蒼眸に映る子供が泣き出す。喚いて、周囲に当たり散らして。他人も自分も傷つけて泣き疲れて、その場に崩れ落ちる。

「王女を手に掛けたあの日から、ずっと眠れない」

 ぐしゃぐしゃになった目元を拭う白い手が現れる。虚ろに開いた目にその姿を捉え、子供は安心したのか新たな涙を零す。

 縋り付く子供を抱き上げ、背を撫でてあやす、彼。

「夜に、暗闇に呑まれてしまいそうで」

 長く、深く瞬く瞳。泣きやまぬままの幼き自分を映す。

「恐いんです」

 声なく、色なく、命なき夢の世界。背後に迫る底なしの闇は何より恐ろしい。

「何を恐れることがある。深まる闇さえお前の味方だ」

 悪夢に溺れる意識を引き上げる魔法の言葉。冷えた指先を握る温かい手。命の在りようを示す強い眼差し。どれも幼い日の自分に与えられたものだ。

 失う物があり、手にする物がある。生きているからこそ繰り返されるこの苦楽。今はただそれらをこの身に刻みつけ噛み締めるしか、ないのだろうか。

――運命――

 もし、本当に存在するのであれば。人は抗えないのか? 生も死も選べない、人間は神の箱庭に遊ぶ人形に過ぎないのか? そうかもしれない。

 それでも――……

「だが眠れぬというなら、夜通しの話にでも付き合おう」

 箱庭に命を投じ、拾い上げる神の手。せめてその手を離れている時間くらいは、例え短くとも人間のものだ。

 与えられた限りある時間を自らの意思で生きるために、人間は選択を強いられる。

 唯一つ、自由という選択肢を選ぶ他ない。例えその先に待つものが死でも、その結果が数多の悲しみを招くことになっても。

 クライスは思い返す。

 穏やかなクレスロードの顔。死を望むカレンの声。

 愛を貫くという自由、か。

「ありがとうございます」

 今夜は眠れない。沢山のことが起こった、終結の夜だから。




*****




 月のない星空を見上げ、思う。

 昔も、こうして彼のヴァイオリンを聞いていたことがあると。うんと小さい頃、きっとテレサが生まれる前、クライスはここで暮らしていた。

 正方形の中庭や屋敷裏手の植物園は恰好の遊び場だった。ぼんやりとだが少しずつ記憶が戻ってきている。

「何て曲ですか?」

 目を閉じて音の余韻に浸る。クライスの膝では眠気に堪えかねたテレサが寝息を立てていた。

「“キリエ”」

 憐れみの賛歌。罪人が憐れみを乞う歌。

 咎人は、誰か。

 彼が意味深げに呟くと、その声とほぼ同時にテレサが目を覚ます。

「…………冷えてきた。中へ入ろうか」

「あ、はい」

 クライスの膝に頭を乗せたままテレサがあくびをする。眠気で機嫌の良くない彼女を宥めながら起こすと、暗かった足許に光が射した。前方にクライスとテレサの影が伸びる。手元の本を光源に、彼が扉を開けて佇んでいた。

「罪深き業の行い。その軌跡があの本だ」

 狂人の足跡。魔導書の如く目映い光を放つ件の本は、美しき王の子らを結果的に死に導いた、彼の著書。

 招かれた悲劇は、誰の所為でもない。だからこそやり場のない怒りと悲しみが、虚しい。

「クライス、テレサ。中へ」

 抑揚のない声が呼ぶ。二人は一度顔を見合わせてから、室内へと足を踏み入れた。

 夜空に月を探す。姿見えなくとも存在している、新月の夜。長い夜を、朝を繰り返すうち、この空に月が浮かぶ日はまた来る。必ず来る。

 閉まる扉の向こう、クライスは夜の闇に別れを告げた。




*****




 バルトーク曰く、『狂人の足跡』に記された魔導実験――人体甦生――を行うには強大な魔力と精神力が必要である、と。そしてそれほどの魔力を持つ人間はそうはいない。

 理論を構築した彼が言うのだから間違いはないはずだが、彼はクレスロードには些少な魔力はあれど実験を成功させるほどの力はないと言った。何者かの協力があったはずだ、とも。憶測と言うには迷いのない言葉だったところを見ると、彼はその何者かに心当たりがあるのだろう。クライスは詰め寄って問い質す。

「アイカ様ですね」

 バルトークの顔はあくまで変わらず、肯定も否定もしない。

 クレスロードの周囲の魔導師で、且つ彼に協力的な人物と言ったらアイカしかいない。

「アイカ様が殿下に手を貸した。そうでしょう?」

 クライスは平静な横顔に問いかける。が、返事はない。バルトークはただ黙々と書き物をして、クライスなど視界にも入っていないようだった。机上を動く視線は、一分の動揺も見せない。

「他に誰がいますか。俺は思いつかない。だってあの城には――」

 言いかけて、クライスは慌てて言葉を呑み込んだ。

 すると、淀みなく続いていたペンの音がぴたりと止まる。蒼い目が動き、クライスを捉える。

「あの城には彼らの味方などいない、か?」

 寸分のずれもなく言い当てられる。その言葉を取り下げることも出来ずクライスは表情を強ばらせ、額に滲む汗を感じた。

 昔、剣の稽古で対峙したときのミラーに感じたのと同じ感情が沸き上がった。彼の瞳には言い様のない大きな力が宿っている。

 抗い難く、しかし、越えてみたい。そう思わせる力が。

「そう思うか?」

 その問いとどこか試すような目の色に口ごもる。

 それが、王族の真実ではないのか。

 実父である王とは疎遠で、母君は早くに亡くなっていて、クレスロードは孤独だった。その心を解きほぐしたのがカレンだったと、本人がそう言った。カレンも同じだ。母に疎まれ、王権を奪われ、肩身の狭い思いをしていた。彼女もまた孤独で、それ故に二人はその心を溶け合わせることになったのだと、そうではないのか。

「彼らには兄がいるだろう」

 その言葉に、時間が止まった。

 サリヴァン……? クライスは声に出さず呟く。

 深紅のローブに、片眼鏡。艶めく黒髪と炎の瞳。脳裏にまざまざと浮かぶその姿。

――傲慢なだけでは飽き足りず欲まで深いか。ご立派なことだ――

 高圧的な物言い。不敵な表情。

 本人たっての希望で、一般教養学校に二年遅れて入学してきた彼とは同級だった。侍従に付き添われ構内を歩く彼を遠くから見ていた記憶がある。

 言葉を交わしたことなど、数えるほどしかないが。

 その割に、心乱すような言葉ばかり思い出す。彼はどんな人間だっただろう。

――つまらん幻想を捨てると誓えるなら、私のもとに置いてやらんでもないがな。しかし、子供じみた綺麗事を取り下げられぬのであれば、行く道は崩れゆく砂城へと続くだけ――

 ほど近い高さ、真っ向から見据えてくる橙の瞳。そんな気など微塵もないだろうに、卒業の際彼はクライスとの会話の最後をそのように締めた。

「あの人は……」

 クライスは必死で記憶を掘り返す。何か大切なことを忘れている気がした。

「彼こそ、二人にとって唯一の理解者だったと思うのだが。……ある意味では」

 写真。

 三人で映った写真だ。クレスロードが懐に入れ持ち歩いていた。

 無邪気に笑うクレスロード。

 はにかんだ笑みを浮かべるカレン。

 その間に。

 二人の肩を抱き、見守るように微笑むサリヴァン。あどけなさを残す、クライスの知らない笑顔。

 捕らえることの出来ないもの、命、心。確かにそこに写っていた。




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