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10,禍月の夜明け

悪いこととは続くものだ。夜が明けて朝が来ても、暗闇は拭えない。




「怪我はありませんか」

 愛剣を丹念に拭きながら、深い緑色の目がルドの方に向けられる。

 額を隠すように巻かれた布を直し、ルドは細い目をより細め苦々しく応えた。

「俺はない」

 足許に散った血しぶきに目を落とすルド。しばらく沈黙してようやく滑らせた視線の先には、制服の一部が裂けたクライスの左足がある。

「……深いのか」

「いえ。平気ですよ」

 怪我を負わせたことを気にしているのか、ルドは普段から見られる眉間の皺をより深め、クライスの左大腿を眺めた。

 裂けた真皮が血を滲ませぬめりのある光沢を放っている。当人の言葉とは異なりその傷は思いの外、深い。

「傷をよく洗っておけ。今薬を持ってくる」

 ルドは返事を聞く間もなく宿舎にとって返し、黒いマントを揺るがせて歩いて行く。がたいの良い後ろ姿を見送り、クライスは細く息を吐き出した。

 輝きを取り戻した刀剣を静かに鞘に収めて地に腰を下ろす。

 分厚い雲に遮られた空を見上げて思うのは、朝なのに暗い嫌な日だということだけ。こんな日は気分まで重くなる。カレン王女の葬儀に出て以来クライスの心地はただでさえ沈みゆくばかりだというのに。

 あれから、一週間。

 これと言って何も起こらない日々を、剣を振ってやり過ごした。

 鍛錬場で丸二日休みなく打ち込み続けた縄巻き丸太は、六つあるうちの四つ駄目になった。勢い余って切り飛ばした丸太が運悪く執務室の窓を割りミラーの大目玉を食らった。そうして与えられた罰のせいで宿舎の窓拭きに一日を潰されてベッドに突っ伏し、目が覚めたら翌日の夕食を過ぎたところだった。その日はそのまま何もせず寝た。くどくどと説教という名の嫌みをたれるミラーの声が頭から離れず、何をする気にもなれなかったからだ。残りの三日間は、ひたすら一騎打ちを申し込んだ。剣の相手を探していた部下に始まり、同格の中隊長たち、そして副長のルド。団長のミラーはあれでも忙しい身であるため相手はしてもらえないことがあらかじめ予想されたので、声をかけなかった。

 ミラーに次ぐ上司であるルドとの一騎打ちは半日程かかった。昨日の日が落ちる頃から為合い、切りよく終わらせたのがついさっきだ。勝負が付かないので日が昇るのを了としたのだ。

「待たせた」

 傷当て布と包帯、それと掌大の平べったい缶を手にルドが戻る。何も言わぬうちにクライスの傍らに膝をつき、手当を始める所作は几帳面な彼らしい。

「ありがとうございます」

「怪我を負わせた身として当然の処置だ」

 薬を塗りつけた布を傷口に当て包帯を巻いていくルドを横目に、クライスは苦笑した。

 堂々たる言葉とは裏腹に不器用な手先。取り落とした包帯がクライスの足にぶつかって止まる。顔を背けながら手渡すと、何かを誤魔化すような咳払い一つ。クライスは堪えきれずに吹き出した。

「笑うな。動くな。手元が狂う」

 ルドの眉間に寄った皺が海溝の如く深くなる。尚も笑い続けるクライスにルドは握りしめた拳をわななかせ、包帯を地に叩きつけた。

「……何がおかしい!」

 ルドの怒りが温度を上げれば上げるほど、クライスの腹にいる笑い虫が激しく踊り出す。浅黒い肌を見る見る赤くし、ルドはクライスを睨め付けこめかみに青筋を浮かべた。

 クライスはよくルドを怒らせる。

 それは二人を知る者が見れば喧嘩がするほど仲が良い証拠であり、日々意見の食い違う二人しか知らぬ疎遠な部下たちが見れば一触即発の危険な場面でもあった。

 しかし、時として火花散る二人の間に割って入ることの出来る人間はそういない。飛んで火に入る夏の虫にはなりたくない、触らぬ神に祟りはなしだと言わんばかりに、目にした者はこぞって止めに入らない。そしてそれは今日もまた同じだった。

「自分でやりますよ。ありがとうございました」

「馬鹿にするな。このくらい出来る。……手が滑っただけだ」

「そんなに意地にならなくても」

「誰が意地など。俺は自分のやるべきことを途中で放棄したくないだけだ」

 堅そうな印象を与える見た目どおり、ルドは頑固者だ。クライスは彼と話しているといつもそう思う。他人にはわからぬ程の僅かなぶれも許さない、丈夫で真っ直ぐな芯が彼の中心を通っている。羨ましく、時に恐くなる真面目さがルドの魂に根付いている。

 不真面目過ぎると指さされる謂われはないが、真面目と評価されたならきっと自分には不似合いな言葉だと感じるだろう。

(相変わらず、頑なだな……)

 ルドがミラーお墨付きの実力者であることも団員の信頼を集める人格者であることも十二分にわかっている。

 幾度とない手合わせで感じてきた剣圧、その技術。日々鍛えられた腕力もさることながら、幼き頃より染みついているであろう流派剣術は彼が騎士になるべく、そして騎士として生きてきた年月により鍛え抜かれていた。構えから抜剣、防から攻への切り返し。流れるような一連の動作は鋭く、美しくさえあった。

「じゃあ……最後までお願いします」

「初めからそのつもりだ」

 溜息混じりに包帯を拾うとルドは中途半端に放られていた作業に戻る。傷に触れぬよう慎重に、丁寧に包帯が巻かれていく。表情を緩め一呼吸し、ルドは顔を上げずに言う。

「痛むようなら薬師の所へ行け」

 労りの言葉は低く深く心に浸透する。

 ルドを信頼し心開いているのは仲間たちだけではない。冗談は通じず規律にうるさいルドは取っ付きにくいが、どんなに大変で忙しくても、悩んだり困ったりしている団員を見捨てはしない。ルドは彼らの話を聞き、励まし、共に解決する糸口を探した。

 身についた価値観の相違を改善することは互いに難しい。正直あまり気は合わない。だがクライスも、他の団員するのと同じようにルドに相談を持ちかけたことがあった。

 今よりずっと幼い自分。まとまらない話を整理のつかない感情に任せて話したその内容はきっとうまくは伝わらなかった。それでもルドは黙って頷きながら聞いていてくれた。そうやって話を聞いてもらうことで当時悩んでいたことが解決したかどうかははっきりと覚えていないが、気持ちが楽になり肩の力が抜けたように感じたのは覚えている。誰かに話を聞いてもらうということは大事なのだと、そのとき知った。

「ご心配なく。丈夫さだけが取り柄なんで」

 それなのに、顔を見るとルドの逆鱗に触れるようなことばかりが口をついて出る。何故なのだろう。わからない。

「……そうか」

 彼に比べて自分が幼い所為もあるかもしれない。と近頃はいつもそう結論づけた。

「本当ですよ。傷の治りは昔から早いんです」

「ああ、わかってる」

 うるさく喋る子供をあしらう大人のように、ルドは顔も見ずに言う。

 なんとか傷を覆うのに成功し、ルドは納得したように頷き、立った。差し伸べられた手に腕を取られクライスも立ち上がる。

「ありがとうございます」

「……お前」

「?」

 引っ張り上げた腕を掴んだまま、ルドは何とも説明しづらい複雑な面持ちでクライスの目を見ていた。居心地が悪くなりクライスが目をそらすと、それに気が付いたようにルドがようやっとで手を離した。

「どうしたんですか?」

「背が、伸びたようだな」

「は」

 片眉を上げ頓狂な声を上げるクライス。

 瞬きを一つ挟み、ルドは再び眉間に深く皺を刻むと直ぐさま背を向ける。ひらりと舞うマントの裾を、口を開けたまま見送るクライスは彼の姿が見えなくなってからようやく動きを取り戻した。

 計らずも漏れる笑い。クライスは前髪を掻き上げる。

 自分が思っているよりも、ずっと多くの人に見守られている安心感は嬉しくもあり、照れくさくもあった。


 両親はなく、身元はわからない。それを嘆くつもりはないし特別な事とも思わないが、父や母と手を繋ぎ歩く子供を見るとなんとなく羨ましく思うことがあった。だが今なら、それが子供じみた愚かさだったとわかる。

 血の繋がりなどなくとも、クライスを見守り、手を引いてくれる人はいる。

 クライスは、幼い時分ミラーに手を繋いで歩いて欲しいとせがんだことを思い出した。あれは確か八つになったばかりで、教養学校に通い始めた頃だ。

 道端ですれ違った級友が父親らしき人物に肩車されているのを見たのが、きっかけだった。それまで意識していなかった父母の不在を急に肌で感じ、言い知れない疎外感を味わったのを覚えている。

 クライスにはないものを、皆当たり前のように持っていたのだ。

 家族。

 幼い頃から、随分と縁遠い言葉だったように思う。恵まれない子供たちの少なくないこのこの時世に、クライスは、やはり恵まれない子供の一人であった。

 ミラーの元で暮らし育つようになった経緯は知らされていない。彼の口からそれが語られることはなく、クライスも聞こうとはしなかった。

 知りたくないのかと問われれば、首をひねるだろう。しかし――事はさほど重要ではなかった。少なくともクライスにとっては。

 家族はない。大切な人がいる。

 そう胸を張って、声を大にして言える。それで十分だったからだ。

 恵まれない子供だった。それは端から見ればの話である。

 ミラーは父で、母で、兄であった。クライスのため、そうあるように努めていた部分もあるだろう。聞けばミラーも早くに親兄弟を亡くしているとのことで、同じ境遇にあるクライスが望むものを、彼は知っていたのかもしれない。

 惜しみなく注がれる親愛の情は家族のそれと何ら変わりなく、クライスを包んできた。口をついて出る厳しさも、頬を張る掌の熱さも思いやる心あってこそなのだと知ったのは、物事の分別がつくよりずっと後のこと。幼い心の反発を、気恥ずかしさで思い出すのだ。

 数えるほどの回数、クライスはミラーに手を引かれて歩いた。閉じた瞼の裏に浮かぶのは、夕暮れに長く伸びる大小二つの影。

『立て、クライス』

 立ち止まり、空いた手でクライスの黒髪を掻き回す。蹴躓いて転んだクライスに、ミラーは手を貸さなかった。ひどい怪我をした時も、泣いて地に崩れている時も、どんな時も。立てと声を掛けるだけで、差し出す手はなかった。

『お前が倒れる時、いつも俺が傍にいるとは限らないからな』

 成人もしていない青年が、指折り数えて両手で足りる年の子供に言う。

 こんな時クライスはいつも、十と少ししか違わぬ年齢をとてつもなく遠く感じた。

 大人であらざるを得ない環境で育ち、ミラーは同年の者たちより大人びていた。あらゆることを自分一人の力でこなさねばならないために、彼は子供だが子供ではなかったのだ。そしてそれを、彼はクライスに教えようとしていた。

『周りに人がいなければ助けてもらおうなどとは思わんだろう。立て、クライス』

 繰り返される言葉はクライスを突き放すものではなかった。

『自分の力で、どんな時も。頑張れ、クライス』

 一人でも立ち上がれる、強さ。

 それは誰にでも必要な力だった。

 両の手で大地を押し返し、投げ出した足で砂利を踏みしめる。打ち付けた体が痺れ血の滲む膝が痛んでも、立ち上がる。

 零れた涙を拭ったミラーの手が、そのままクライスを抱き上げた。

 柔らかく手を繋ぎ歩くミラーの背中を、涙目で見つめていた。夕焼けと、今より短い金髪が揺れていた。二人の後ろに落ちた長い影も同じように手を繋いでいた。それを見て何故だか、より涙が溢れた。

――頑張れ、クライス。

 そう言って頭を撫でては、抱き寄せた。今でこそ抱きしめられることはないが、繊細な指先の手で荒っぽく撫でる癖は変わらないままだ。三年ほど前だろうか、クライスがミラーの身長を追い越してからも、相変わらずミラーは頭を撫でてくることがあった。

 頑張れ、と。立ち止まるクライスの背を一番強く押すのはいつも彼の言葉だった。

 屋敷の庭先で剣を振っていた時も、学校の授業参観で当てられた時も、どんな時も。手は貸さずとも、見守ってくれていた。


 背が伸びた、か。

 著しく身長が伸びていた時期、それ以上伸びたら屋敷に入れないとミラーに言われたことがあった。

 一度、作りつけの小さい戸口に額をしたたかに打ち付けたことがある。ミラーに現場を見られていた上にひどい衝撃がだだっ広い屋敷に響いた。急に呼びつけられて部屋に駆け込んだのがいけなかったのだが、それ以来、ミラーはめきめきと背を伸ばすクライスに時折顔を顰めるようになった。

 もう成長は止まっていると思っていたが。

 些少の間を息抜きに、クライスは傍を通る部下の手前あくびを噛み殺して今一度空を見上げた。

 厚い暗雲に隠れた太陽が気持ちだけ辺りを明るくしている。今は朝だが、昨日の夕刻との差があまり見られない。額に滲んだ汗をシャツの袖口で拭い、クライスは嘆息を漏らした。

 夏の曇りの日は嫌いだ。じめじめと湿り気のある空気がまとわりついて、息が詰まって仕様がない。照りつける太陽の下の方が十倍ましだった。

 玉になった汗が耳の後ろから首筋へ落ちる。襟刳りに染み込んで肌を冷やすそれは気分の良いものではなく、クライスはルドを真似て眉を寄せた。が、すぐに戻す。思ったより疲れる動作だった。これが癖になるとは相当だ、とクライスは唸る。そこへ――

「中隊長! クライス中隊長!」

 鍛錬場を縦断し掛けてくる団員。彼はクライスの隊の人間だ。

「王城より急報です!」

 風を受けた髪は乱れ、顔面は蒼白。ただならぬ様子にクライスは身を固くする。全身の汗が一気に冷えた心地がした。

 クライスの眼前で立ち止まった団員は膝に手をついて肩で息をしながらやっとで口を開く。思いも寄らぬ言葉が鼓膜を震わす。

「クレスロード・キリ・グランドロス殿下がいなくなられたとのことですが。中隊長、一体どういうことなのです。何故、貴方に直接……」

 後に続いた言葉は、もう聞こえなかった。


 瞬く度に見える。揺れる月光が、闇に消えて行く光景。

 手を伸ばせば触れることの出来た背中。呼び掛けて振り向かせることの出来たあどけない顔。別れを告げる澄んだ声が遠くに聞こえる。ずっとずっと昔のことのように。

 生ぬるい風がせせらかすように過ぎる。クライスは呼び止める声を振り切って厩舎に駆け込むと、直ぐさま愛馬に飛び乗った。

 あの人のところへ、急げ。

 呼ばれるように、押されるように。全速で馬を走らせた。

 

 閉ざされた太陽。月のない空。暗闇へ身を寄せる雲の海は、まだ明けたばかり。



  

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