09,想うは貴方一人〜懐古〜
思い出を語る王子とそれを聞く騎士。叶わぬ恋の始まりを知る。
話は、現時より三年の時を遡った。
亡き王女カレンと王子クレスロードが、生まれて初めての対面を果たしたという、その頃に。
*****
東宮の中庭。この国の栄華と共に咲き誇ってきた花々の芽吹く季節が、その年もやって来た。白い花の絨毯のようなその情景は、何度見ても美しく見飽きることはない。
春の麗らかなる日射しの下、その庭を散歩していたクレスロードは“彼女”に出会った。
――あれは、誰?
傘を持つ背の高い女性と、その隣の少女。
花畑の中に緩い弧を描くように通る道を、しずしずと進み歩いてくる二人。見知らぬ訪問者たちに、クレスロードは花を摘んでいた手を止めて見入った。
差し伸べるように日傘を差していた女性は、よく見るとクレスロードの周りにいる侍女と同じ服を身につけていた。色合いこそ違えども、確かに王室付き従者のそれであった。一方、日射しから守られるようにして歩く少女は、見目美しい水色のドレスを着込み、白いレースのストールを羽織っていた。
いずこから招かれた貴族の娘だろうか。
クレスロードはそう自分の中で考えると、摘んだ花を胸に抱いて立ち上がり服の裾を払う。先ほどより近くに来た二人を何ともなしに見ていると、従者の女と目が合った。
侍女は涼しげな目を驚いたように開き、しかし直ぐさま平静な表情を取り戻して恭しく頭を下げた。クレスロードはそれに会釈で応える。
しかし五、六歩先に立つクレスロードの存在に、俯く少女は気付く様子がない。それを受けて侍女がそっと耳打ちをすると、少女がゆっくりと顔を上げた。
束ねられていない光色の髪が肩口がさらりと落ちる。その上の小さい顔はまだあどけなく、少女がクレスロードより幼いことが見て取れた。
見返してくる丸くて大きな瞳は月の色。この国の王と同じ。その子どもであるクレスロードと、同じ。
ドレスの裾を柔らかく持ち上げ、軽くを腰を折る。そんな何気ない動作一つをたどたどしく、真剣にこなそうとする少女を見てクレスロードは思わず笑みを零した。粗相を見せまいと一生懸命なその姿を好ましいと感じたのだ。
「……カレン・ダイ・グランドロスと申します。ご、御機嫌よう。クレスロード様……」
鈴を転がすような心地よい声が紡ぐ家名は、幼き頃より聞き覚えたもの。王家の血の証で、この国において他のどんあ一族にも名乗ることの許されない唯一つの名。
その夜、父王により腹違いの兄と妹の存在が明らかになった。驚きと入り交じり感じられた嬉しさは、早くに母を亡くしたクレスロードにとって、孤独の世界に差し伸べられた一筋の救いの光に等しかった。
*****
過去を懐かしむクレスロードの目元はもう涙が乾き、遠い日々を愛おしむ声も以前と同じく涼やかだった。クライスの隣で話す横顔には、先程のような鬼気迫る表情はない。純粋な懐古か悲しみを紛らわすためかはわからないが、話を聞いて欲しいと言ってくれたことがクライスは嬉しかった。
式場から歩くこと三十分。辿り着いたのは東宮の中庭、二人の始まりの花畑。王女とクレスロードがよく二人で遊んだというその場所へ、先導するクレスロードの後に従った。
たくさんの思い出が眠る風景。美しい花たちが咲き乱れ、足を踏み入れることさえ躊躇われた。
最後の別れを惜しむに相応しい所だと語るクレスロードの顔は、今にも泣き出しそうで、彼の気丈な態度がいっそ悲しかった。
足許の花を一輪摘み取って向き直ると、クレスロードはそれをクライスの胸のポケットに飾る。
何の変哲もない白い花。
この国の都会に、田舎に、山に、海辺に。いつでもどこでも傍にいる。寂しくなったらその花を見つけて、語りかけて。どこへ行っても繋がっているから。
死者と遺された者双方の心慰める、優しい花。この花が城の庭に植えられているのは、今は亡き栄光ある先人たちへの思いからだ。
「ありがとう」
突然の言葉がクライスの思考を遮る。声を発した本人は息をのむクライスを前に微笑んでいた。来てくれてありがとう、ともう一度呟くとクレスロードは点在する白い石像の台座に腰を下ろした。招かれてクライスもその隣に座る。
「クライス、というのだったな。アイカに聞いた」
遠くを見つめたままクレスロードが訪ねる。
「はい。クライス・ローレンと言います」
それから、切り貼りしたような会話が続く。
まるで紙に書かれた項目を読み上げるかのように様々なことを聞いてくるクレスロードに、不躾とは思いつつもクライスも同じように質問をした。その一つ一つに彼は丁寧に答えてくれて、流れるように止まらない質問に笑いもした。目を閉じ、時折記憶の断片を探るような素振りを見せては、また答えた。
クレスロードは今年で十七になり、勉強が好きだ。しかし第一王位継承者と決まった時から学ばされている帝王学には、ほとほと嫌気が差している。植物を育てるのが好きで、この庭にも何種類かクレスロードが植えた花があり、毎日様子を見ては世話をしている。父の補佐として携わっている政治も、異母兄と共に習わされている武術も性に合わないと感じている。たまに行く国立図書館で童話や作物語を読むのが好きで、城を抜け出して一人で行ってしまいアイカにひどく叱られたことがある。
ついに適当な質問が思いつかなくなるまで、互いに聞き合った。言葉をなくして二人同時に空を見上げると、夕闇が迫っていた。
本当はこんな問答をするためにここへ来たわけではないことに、クライスは気付いていた。ただ、白んだ空が嘘を吐かせ、花々の明るさが悲哀を拒んだ。
忘れられない悲しみならば今だけは少し遠ざけて。今だけは少し語らう時間を持とうと。
*****
クレスロードの挨拶に儀礼的な御辞儀を返した婦人。ただ真剣に、時に険しい表情で彼の父である国王を見つめるその女性こそが、カレンの母サレナであると言う。
あまり、似ていない。
上がり気味の目元を細め、王の一挙手一投足を見逃すまいとした、自分の母とは別のもう一人の王妃サレナと、不安げに足許に視線を落とすカレンを見比べ、クレスロードは率直にそう思った。サレナを強い鉤爪を隠し持つ鷹に例えるなら、カレンは草原を舞う力無き蝶だ。それほどまでに、母娘として並ぶ二人が見る者に与える印象は異なっていた。
瞳に焼け付く鮮烈な美しさと、消えそうに儚い繊細な美しさ。美貌、そこだけが同じ、相反する雰囲気を放つ二人。
「陛下。此度はどのような御用件で?」
麗々とした声が響き渡る。その声に皆はっとして顔を上げると、一様に息を呑む。
声の主は、戸惑いがちな周囲など気にも留めず鋭利な眼差しを王に向けていた。軽く顎を上げ見下ろすような王の威圧的な視線を、真っ向から受け止めている。青年には僅か及ばないと見えるその少年は瞬きの一つもなく、王の返答を待った。
「……サリヴァン、そう急くな」
黄金の瞳が瞬き、王は少年を宥めるように表情を和らげる。
穏やかな笑みと相まった落ち着いた声。しかし、その声を聞く者は皆、頭からつま先まで緊張の糸を張り巡らせ身を固くした。恐怖とは違う、えも言われぬ独特の威圧感。大国を治める者の持つべき権威と風格を、いやと言うほど誇示するこの空気こそが王の王たる所以なのだ。
列強に名だたる名君、セレスタ王国国王エディニール。齢五十八にしてなお王座に君臨する彼の支配力は広大な国土全域に及ぶ。息子であるクレスロードとて、彼を前にしての緊張は例外ではなかった。
背を震わす畏怖を実父に感じながら、クレスロードは静かに深呼吸をした。
しかし、サリヴァンと呼ばれた少年だけは無理をしているとも思えぬ平静な表情を浮かべ、怯むことなく王に対面している。
「されどこのように急な集議、ゆるりと進められては仕様がない。陛下はもちろん皆様、各々為すべき御公務もおありのはず。こんな事を理由に職務を疎かにされては困ります」
国王を相手に物怖じもせず捲し立てる、自分とは似ても似つかぬ兄を見てクレスロードは呆然とした。今まで生きてきて、父にこのような反発的な事を口にする人間は初めてだった。驚きに口が開いたままになり、同時に少年に対して尊敬の念を抱いた。
堂々とした態度。きっぱりとした物言い。それに加えて怜悧な表情、成長途中とはいえ均整の取れた体躯。全てがクレスロードの思い描く理想の自分とぴったり重なったのだ。
憧れた。あんな風になりたいと強く思った。彼こそ、王座を継ぐに相応しい人間だった。
「これ、サリヴァン。王に向かってそのような口のきき方をするものではありませんよ」
きりとした眉根を寄せ、慌てた様子で息子を制するサレナ王妃。右腕にかざされた彼女の手をちらと見やり、サリヴァンは王の方を向いたまま応えた。
「陛下は今王としてではなく父としてここにおいでのはず。貴女は、息子が父に声を掛けることさえも許さないとおっしゃるか」
「そうではありません。もっと敬意をもってお話しなさいと……」
「敬意がなければここに来ることさえしていません。敬愛する陛下のお呼びだったからこそ貴重な時間を割いて参ったのです」
「それはわかっています。わたくしはただ貴方の口のきき方を」
「良い。サレナ」
どこか楽しそうに目を細め二人を見ていた王が片手を上げてサレナを制止した。
「サリヴァンの言った通りだ。今日私は一人の父としてそなたらをここへ呼び、巡り合わせた。双方には互いを家族として、触れ合い仲を深めていってほしい。どうかこの機会を軽んじずにな。息子よ」
サリヴァンは短く息を吐く。そしてどけろ言わんばかりに右袖を掴むサレナの白い手を睨み付ける。サレナはそれに気付きパッと手を離すと、コホンと小さく咳払いをして椅子に座り直した。
サリヴァンはカレンと同じくサレナと王の間の子供で、クレスロードより四つ年長の兄であった。髪や瞳に父方である王と似た特徴を持つカレンとも、金髪碧眼の母サレナとも異なる容姿をしたサリヴァンは、黒い髪に橙色の瞳を持っていた。
橙に散りばめられた、燃えさかる炎のような赤。瞬く度に表情を変えるその瞳は魔的に人を惹き付けた。
夜闇を映す黒い髪は武王と称えられた先代王バルバロッサの再来と言われ、老年の民衆に密かな期待を抱かせている。
しかしそんな民の思いも無理はないと思える要素が、彼には山とあるのだ。
「目的に異議を唱えるつもりは毛頭ありません。ただ障壁もない物事の進行が滞るのが我慢ならないだけです。それが母には上手く伝わらなかったようで」
眉一つ動かさずサリヴァンが言う。王が頷いて応え目線でサレナに諭すと、張りつめた顔をしていたサレナがようやく安堵の笑みを見せた。王の機嫌を損ねたか否かが、彼女にとって何より重要だったのだろう。
「さぁ。事は手早く済ませるとしましょう」
まがい物とわかる微笑みを口元に浮かべ、サリヴァンがさっとクレスロードに向き直る。
今まで傍観を決め込んでいたクレスロードは、不意に目を向けられて肩をびくつかせた。
「クレスロード様? 御気分でも悪いのですか」
「……え?」
「お顔が強ばっているようなので」
「こ、これは」
指摘され両前腕で顔を隠す。
「な、何でもありませぬ」
「そうですか」
至極興味のなさそうな声が返る。笑っているように見えるサリヴァンの顔の、目の奥はまるで凍り付いているかのように動かない。炎の色をした、温度の低い眼差し。
虎視眈々。
いつだったかアイカに学んだその言葉が浮かび、あまり良い印象を受けなかったことを思い出して頭を振る。違う。サリヴァンの第一印象は違う。
この部屋に足を踏み入れて、クレスロードはサレナと挨拶を交わし、カレンと挨拶を交わした。友好的な雰囲気の中、折に触れてよそよそしさが顔を出すような、そんな世間話もままならない空気を押し退け、悠然と現れたのがサリヴァンだった。
『ご機嫌麗しゅう御座います、クレスロード様。御目にかかれて光栄です。私はサリヴァン・ネロ・グランドロスと申します。以後お見知り置きを』
立ち止まって一息にそう言うと、クレスロードが目をぱちくりさせている間に通り過ぎて行ってしまった。サリヴァンの揺らした空気がふわと香り、クレスロードの鼻をくすぐった。
強靱で端麗。切れ長な目で前を見据える姿は、クレスロードの知る誰より高潔に見えた。彼の頭上には輝く王冠があった。形はなく他の誰の目にも見えない、未来の王冠が。
――運命は決しているのだ。彼が生まれたその時から。
クレスロードは未来を垣間見た。国王となったサリヴァンの傍で、彼の声を一番近くで聞き、考えを一番初めに知る宰相として自分が立っていた。
「如何なされました。クレスロード様」
テーブルの上の手を組み直しながらサリヴァンが訪ねる。
長く回想にふけっていたのだと周囲の様子を見て認識すると、クレスロードは慌てて顔の前で手を振った。
「いや……失礼を」
「やはりお体が優れないのでは?」
「それでしたらお休みなられた方が良いですわ。ご無理はなさらないで」
あくまで表情の変わらないサリヴァンと心配そうに眉を顰めるサレナに、クレスロードはゆるゆると首を振って応える。
「本当に、大丈夫です。ただ……緊張してしまって」
それを聞いて、サリヴァンが鋭い目を僅か見開く。そして少し間を置いてその目を眩しそうに細めた。もしかしたら笑ったのかもしれない。
「王の嫡男を前に気もそぞろなのはこちらも同じです。初めて見る人間の向かいにお一人で座られて心細くはありましょうが、どうか我々に貴方のお声をお聞かせください」
そう言ってサリヴァンが微笑んだ。サレナもカレンも王も笑った。クレスロードも笑った。場の雰囲気につられたような嫌いもあったが、二つの家族が微笑み合い一つになれた瞬間が確かにその時、存在していた。
*****
夕さりの風に泳ぐ金の髪。かの思い出を映す金の瞳。
サリヴァンと、クレスロードと、カレンと。三人が並んで写った写真を眺めながら過去を語る声は優しく、しかし、その頃はまだ夢のように踊る未来を信じていたと、締め括る言葉は深い喪失感で震えていた。
かけがえのない記憶をクライスに話したクレスロードの真意を、推し量ることは出来ない。真意は深意を持つかも知れず、あまりにも第三者であるクライスであるからこそ話したかも知れず、あるいは話した理由などないに等しいかも知れなかった。
推し量ることは、出来ない。二人の出会いは記憶に新しく、付き合いは浅いのだから。
明るい夕焼けに向かう帰り道。行く足は長く伸びた影の分だけ重さを増したように遅い。
城の入り口で見送ったクレスロードの後ろ姿が、目に焼き付いて離れない。別れ際に彼が呟いた何でもない挨拶が耳の奥で木霊して消えない。
『出来ることがあったら何でも仰ってください』
『ああ……さよなら』
翻る黒衣の裾。暗がりに呑まれてゆく背中。一歩進む毎に小さくなるクレスロードの頭を見つめ、クライスは新月の夜空を思った。世界が闇に屈する、月の出ない夜。
城の背景を見渡せばもう夜が近い。心の隅に引っ掛かる何かを感じつつ、クライスは一人宿舎への帰路に就いた。
青白い空が晩霞と溶け合い、天心に踊る月は太陽に侵され幻のように霞む。
美しき月よ。昇るにはまだ早い。