地味に生きたい、そんな彼女の事情-6
琥狼の“妹”になりすまして10日目。
何事もなくこのまま依頼が終わるかと思ったが、やはり事件は起こってしまった。
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「もう無理!顔が引きつる!!」
放課後、林が運転する車に乗ってとあるパーティー会場から帰る途中、絵麻は思わず叫んだ。
連日色々な会合やパーティーでお披露目をさせられ、絵麻はかなり疲れていた。
学校が終わってから夜遅くまでおしとやかに微笑み続け、琥狼の自宅に戻っても宿題を終わらせるのに精いっぱいの毎日。
今日もどこぞのお偉いさんに挨拶をして、顔が引きつりそうだった。
それに加えて最近は、時折刺さるような視線が混じる。
気付いているのは絵麻だけのようだが、その視線の方向に目をやっても誰かは分からない。
最初は琥狼の隣にいる絵麻に嫉妬する女性達かと思ったが、どうやらそれだけではないらしい。
本当はすぐに追いかけて正体を突き止めたいが、“美姫”である以上、人前で動くことが出来なかった。
琥狼にそれとなく告げてみても、「どうせ俺に対する値踏みの視線だろう。いつものことだ」と、特に気にする様子はない。
何だかすっきりとしない気持ちで、とりあえず依頼をこなしているが…。
そんな絵麻に、林は運転しながら穏やかな声で話しかける。
「美姫様、明日もいつもの時間にお迎えに上がりますので」
「明日はどこに行くの?」
「日頃懇意にしている製薬会社へのご挨拶です。先に先方入りしている琥狼様と合流し、それから夕食会となります」
「……じゃあまた家に帰るのは深夜前ね」
「申し訳ありません」
べつに林さんが謝ることじゃないわよ、と言うと、絵麻はもう大分慣れたカツラの毛先をいじりながら、窓に体を預けた。
対向車線のテールランプをぼんやりと見ながら軽くため息をつくと、林がバックミラーをちらりと見て、さらに言葉を続ける。
「しかし、あと数日で今回のお仕事も終わりですね。またお会い出来る機会が少なくなると思うと、寂しい限りですが」
「…林さん、本当にさらりとそういう事言うわよね」
「もちろん本心ですので。琥狼様も、今回美姫様と一緒に居られることがとても嬉しかったようですよ」
「ストレス発散でからかう相手が近くにいて嬉しいだけでしょ…」
絵麻のベットで勝手に琥狼が寝ていた先日、その後遅くまで机に向かっていた絵麻がうたた寝をして目を覚ますと、そこはベットの上だった。
きちんと布団も被っており、カツラも外されていることまでは問題なかった――さらにワンピースが椅子に引っかけられて、自分の体に琥狼の腕が絡まっていなければ。
眠い目をこすりながら顔を動かして、端正な寝顔を間近で見た時は息が止まった。
飛び上がろうにも、長い手に腰をガッチリと回されていてベットから出ることも出来ない。
布団をめくって自分の体を急いで確認してみたが、ワンピースは脱がされているものの、その下に着ていた長いキャミソールはそのままだったのでそこはひと安心した。
ちなみに、琥狼はメガネを外して眠っていたらしく、絵麻のワンピースと一緒に椅子の上に置いてあった。
その後は眠り続ける琥狼の頭を叩き、低血圧で寝起きの悪い幼馴染に説教を食らわせた。
絵麻の大声を聞いて慌てて駆け付けた林に、仲介に入ってもらったのはまだ記憶に新しいことだ。
「あんな生活、毎日だったら身が持たないわよ」
「私としては年相応でかわいらしい琥狼様が見られるので、楽しいですけどね」
そう笑いながら言う林をジロリと睨んで、絵麻はまた窓の外に視線をうつした。
明日の仕事が終われば残りの日程はほぼ外出がないという。
(とにかく、明日一日を乗り切ろう。もう十日以上“美姫”をこなしているんだもの、あと数日くらい余裕だわ!)
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「お、エマじゃん」
放課後、これからまた地獄の挨拶回りが始まると、テンションが下がっていた絵麻を呼び止める声がした。
振り向くと、そこには相変わらずニコニコ笑顔の純が立っていた。
珍しく女の子達に囲まれておらず、一人のようでズボンのポケットに両手を突っ込みながら、軽快な足取りで絵麻に近付いてくる。
絵麻は他の生徒が周りに居ないか一瞬警戒したが、純もそれをよく分かっているようで、口元をニヤリと歪めて言た。
「だいじょーぶ、この時間ここに人は来ないよ。俺もエマが裏門に行くの見なかったら、絶対に来ないし」
「…ああそう」
今まで散々学校で話しかけるなとキツく言ってきたので、さすがの純も学習しているのだろう。
純としては、話しかけただけで絵麻から絶交されたら、気の許せる幼馴染と優秀なボディガードを両方失うのという死活問題になる。
今は誰も周りにいないようだが、基本的に学校で純達と接触するのは避けたい。
「何か用なの?」
「用がないと声かけちゃダメ?俺はただ、エマと久しぶりにお話ししたかっただけだよ」
「学校じゃダメって言ってるでしょうが」
「えー相変わらず冷たいなぁ」
口を尖らして拗ねる姿は、他の女子から見たらかわいいと抱きしめたくなる類のものだったが、絵麻はそのうさんくささに顔を顰めた。
そんな絵麻の表情を見て純は嬉しそうに笑うと、また一歩絵麻に近付く。
「今、琥狼の仕事引き受けてるんだって?」
「え」
絵麻は純のひと言に、文字通り固まった。
今、こいつは何と言った?
「しかも、琥狼ん家に泊まり込みらしいね?」
「何でそれを知って…」
いつもだったらうまく取り繕うのに、不意打ちの質問に絵麻は声が上擦ってしまった。
これでは純にその通りとバラしているようなものではないか。
小首を傾げて尋ねるその笑顔に何か怖いものを感じて、絵麻は思わず一歩後ろに下がった。
依頼の内容は守秘義務で、たとえ身内でも話しはしない。
どんなに純と琥狼が仲が良くても、おそらく二人の間で話すようなことはしないだろう。
それなのに知っているということは…。
「もちろん琥狼からは聞いてないよ。俺の情報網から……ここ数週間、琥狼は自分の身内の会合だけでなく、普段あまり行きたがらなかった余所のパーティーにも顔を出してる。必ず、自分の“妹”を連れてね」
ドキッ。
絵麻は、自分の心臓が跳ね上がる音が大音量で聞こえた。
純も琥狼も同業者でないとはいえ、お互い家業が経済界に深く関わっているため、かなり色い情報網を持っている。
琥狼の家の本業はマフィアだが、表では東洋医学を基調としたエステや化粧品、漢方等の美容関係の会社を経営している。
世界中のセレブな女性から支持され、社長である琥狼の母親は女性経営者として有名だった。
もちろん、裏の世界でも女系一族でマフィアを牛耳る女頭領としても有名だが。
さらに、純は絵麻との距離を縮めて、息がかかるくらい顔を近く寄せた。
琥狼まで高くないとはいえ純も170cm後半はあるので、絵麻は首をかなり上に傾けなければならない。
純はその色素の薄い茶色の目を煌めかせながら、しかめっ面をしている絵麻の目を面白そうに覗き込んできた。。
相変わらず女の子受けするきれいな顔が、今は悪魔の微笑みに見える。
「その“妹”は、おしとやかで長い黒髪が似合う美少女ってことで、今その筋の人間達の間ですごくウワサになってるよ…そう、長さは違うけどこんな感じのキレイな黒髪らしくて」
絵麻は思わず視線を落として、何とか誤魔化そうと口を開く。
「へ、へえ、そうなんだ。琥狼にそんなかわいい妹がいるなんて、知らなかったわ」
「だよねぇ、俺も初耳だったよ。だから、一回見に行っちゃった」
「!」
絵麻が顔を勢いよく上げると、目の前には無駄に笑顔で、面白がるような目をした純の顔があった。
「招待されたパーティーじゃなかったからバレないように遠くから見たけど、すごくかわいい子だった。緊張してるのかずっと伏し目がちだったけど、その清楚な感じがたまんなかったな。琥狼もずっと妹の側にいるし、腰に手を回すわ蕩けるような甘い目で妹を眺めてるわで、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい」
「……」
「琥狼もあんな顔出来るんだねぇ。そんなに“美姫”ちゃんは大事なのかな……エマはどう思う?」
「へっ!?」
話を振られて、絵麻はまた上擦った声を上げてしまった。
“美姫”のことを言われているが、元は自分なのだ。
ここは適当に相槌を打てば乗り切れるはず…と思いながらここ連日の琥狼のベタ甘な態度を思い出し、いい返しがとっさに出てこない。
そして、純は顔を絵麻の耳元に近付けるように、甘えるような声で囁く。
「俺の時はかわいい格好してくれなかったのに、琥狼のお願いは聞くんだ?」
―――完璧にバレている。
というか、元から分かっているならこんな回りくどい聞き方しなくてもいいじゃないの!
まだ学校内ということもあり、絵麻は大声を出せない代わりに、強く唇を噛んだ。
でも、もうバレているのなら仕方ない。
逆に純なら何か知っていることや思い当たることがあるかもしれないので、思い切って聞いてみよう。
「…純は急に琥狼が“妹”を紹介してきたこと、何か知ってるの?」
「さあ?琥狼が婚約者を連れてくるっていうなら分かるけど、“実は妹がいました”って言ってもあいつの家には影響ないしね。ほら、俺のトコと違って組織の団結力すごいから」
この間まで、純は父親の会社を継ぐにあたって障害となる後継者反対派をあぶり出していた。
その時、学校外依頼で絵麻が護衛を引き受けたのだが、結果として絵麻がいいように使われたことがまだ記憶に新しい。
ピピピピピピ。
純のケータイの着信音が鳴り響いた。
純はポケットに入っていたケータイを取り出して画面を確認すると、メールの返信を打ってまたポケットに戻す。
「俺、そろそろ仕事あるから行くよ」
「……別に元々引き留めてないけど」
「あ、そうだ」
純は校舎に戻る途中に立ち止まり、絵麻の方に向き直る。
「知ってた?琥狼の家って、異母兄弟でも結婚出来るらしいよ」
――その時の純の笑顔が本当に悪魔のようだったと、後日絵麻はそうぼやいたと言う。