地味に生きたい、そんな彼女の事情-4
ある平日の夜、都内の喧騒から離れたホテルの一室でひとつの会合が行われようとしていた。
そこには大勢のスーツ姿の人間が集まっていた。
まだ幼さの残る若者から貫録のある初老の男性、または穏やかな中年の女性まで年齢層は様々だった。
皆、日本語ではない言語で会話をしながら、会合が始まるのを待っている。
時計の針が20時を回ったところで、奥のドアが開く音が響いた。
その途端に、話し声が一斉におさまる。
そのドアからは数人のスーツの男性を連れた少年が入ってきたが、すでに纏う空気は10代のものではない。
しんと静まり返った部屋に、少年の落ち着いた、それでいて力強い声が響く。
「今日はよく集まってくれた。急な呼び出しとなってしまったことは申し訳なく思うが、是非皆に伝えたいことが集まってもらった」
琥狼は大勢の前で、前を見据えながら堂々と話し続ける。
「皆には今まで話さずにいたが、私には血を分けた妹がいる。異父妹でありずっと日本で暮らしてきたが、李一族の娘であることには変わりない。今後は彼女を組織に迎え入れるつもりだ」
事前に周知させていたのか、思ったよりもどよめきは少ない。
その様子を確認して、琥狼はさらに続けた。
「今日は彼女を皆に披露しよう―――美姫」
「はい。お兄様」
琥狼の呼びかけに、ひとりの少女が柱の影から姿を現す。
少女は、漆黒の長い髪をたなびかせ、おずおずと兄の側に近付く。
そして琥狼が差し出した手に自分の手をのせ、その手に導かれるように大勢の人間の前に立った。
顔は少し俯き加減で、長いまつ毛にに縁どられた目は伏せられたままである。
「お初にお目にかかります…李美姫と申します」
か細いが鈴のように響く声が、その愛らしい唇から紡がれる。
まるで天女のような美しさと儚さを持った少女の出現に、周囲は釘付けになった。
「今宵は皆様にお会いできて心から嬉しく思います。今後はお顔を合わせることも多いかと思いますが、よろしくお願いいたしますね」
最後の言葉に合わせて、美姫は伏せていた目をおもむろに上げ周囲を見渡すと、小首を傾げて控えめに微笑んだ。
艶やかな黒髪がさらりと肩から流れ落ちる。
その瞬間、部屋中に息を飲む音が各人から聞こえた。
そして、この日のお披露目はたった数分で成功を収めたのである。
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キーンコーンカーンコーン。
6限目の授業を終えるチャイムが鳴る。
高津絵麻にとって、今日一日が無事に終わったことを告げる合図―――だった。数日前までは。
琥狼の妹になりすましてから1週間。
学校生活はいつも通り過ごしているが、問題はその後だ。
「……はあ」
誰にも分からないようにこっそりと教室を出てきた絵麻は、裏門で立ちつくしていた。
門から少し離れた道路に、黒塗りのベンツが止まっている。
もちろん、窓はフルスモークだ。
いかにもアレな感じの車に乗り込んだが最後、絵麻ではなく“美姫”としての時間が始まる。
(あの服着たら、自然と大人しくなっちゃうのよね…服はかわいいんだけど、私じゃ似合わないと思うんだけどな)
絵麻は周りに誰もいないことを確認してから、駆け足で門を出て車に向かう。
自動でドアが開いて絵麻が車に乗り込むと、そこにはここ数日着なれたかわいらしいブラウスとスカートが置かれていた。
今日はフリルがふんだんに付いた白いブラウスと、ベージュのフレアスカート。
車内は大人三人が横になれるくらいに広く、運転席との間には仕切りで見えないようになっている。
絵麻は慣れた手つきで着替えると、運転席にいる男性に声をかけた。
「林さん、今日は琥狼は一緒じゃないの?」
「ええ、寄る所があるとのことで、先程お送りしてきましたよ」
林と呼ばれた男性は運転しながら絵麻の問いかけに答える。
彼は琥狼が日本に来た時からずっと運転手を務めているので、絵麻もよく知っている人物だ。
もう30歳は過ぎているだろうか、昔から落ち着いた雰囲気を醸し出していて、まさに大人の男という感じだった。
グレーのスーツを着こなし、エリートサラリーマンと言っても十分通用するのに、これがマフィアの一員とは何とも不思議だ。
ちなみに、彼のフルネームは林正道といい、香港出身だが幼少の時から日本に住んでいるらしい。
「絵麻様――いえ、美姫様の今日のスケジュールですが、特に顔を出さなければならない会合もありませんので、このまま屋敷にお戻りいただいて結構ですよ」
「本当?よかったぁ、毎日毎日あんな愛想笑いしていたら顔の筋肉がおかしくなるわ」
絵麻は、大きく息を吐きながら革張りのシートの背にもたれかかった。
車の中ではお嬢様を演じなくていいし、林は昔からの付き合いで慣れているので、今のうちに思う存分寛いでおくことにする。
そんな絵麻の様子をバックミラーから見て、林はくすりと笑った。
「美姫様は、どんなお顔でも十分可愛らしいですよ」
さらりといつもの調子で言われ、絵麻は顔を赤らめて言葉に詰まる。
琥狼の声もバリトンの響く低音ボイスだが、林の声はさらに大人の落ち着きがプラスされていて、今みたいな女の子扱いされる言葉を言われるとどうも落ち着かなくなる。
どうやら絵麻は低い声に弱いらしい。
気恥ずかしさのあまり腰まである長い髪をいじりながら、絵麻は別の話題に変えた。
「そういえば、林さんはどうして今回“琥狼の妹”が必要なのか知っている?」
「美姫様がご存知以上のことは、私にも分かりかねますが」
「私も詳しくは知らされていないの。とにかく琥狼の側で護衛することだけで」
“琥狼の側で護衛するために、不自然にならないよう妹に扮する”と、いう
たった二週間の護衛ならわざわざことあるごとに各所妹として紹介する必要などない。
しかもまるで兄バカのようにベタベタと人前で甘やかす。
琥狼の幼馴染の自分でさえ、そのらしくない態度に訝しむのだから、彼の部下はもっと困惑しているだろう。
「林さんだっておかしいと思わないの?あの琥狼が人前でああいう態度をとるなんて…いつも組織の人間の前では身内同士でも一線引いて他人みたいな態度なのに」
「そうですね、琥狼様は自分にも他人にも厳しい方ですから。しかし、美姫様がお相手であればそういうこともあると思いますよ。まさに“目に入れても痛くないほどかわいい”という日本の言葉の通りですね」
「妹相手なのに?」
「それだけ美姫様が特別ということなのでしょう。琥狼様は、一度懐に入れた相手にはとことん甘いですから」
林のその発言に絵麻は頭をひねった。
琥狼は来るものは拒まずだが、基本的に人や物に執着しない性質なので、絵麻は何かを追い求める彼を見たことがない。
絵麻が知っているんは、いつもすました顔で自分をからかう姿くらいだ。
同じく純もよくからかわれたりしているので、これは気を許した幼馴染だからということなのだろう。
「うーん、でもねぇ……」
依頼を受けてから1週間、その間も詳しい話を聞こうとするのだが、琥狼は「別に深い意味はない」とそれ以上は何も言わない。
絵麻が勘ぐりすぎているのかもしれないが、会合での組織の人間達の視線が気になるし、その中には明らかに値踏みをするものもあるので周囲の様子がおかしいのは確かだ。
それが急な“妹”の出現への戸惑いなのか、それともそれが不都合な人間がいるのか。
明日明後日は確か琥狼も夜は自宅に早く帰るはず――。
護衛期間も折り返し地点にきたし、そろそろはっきりと問い詰めてみようか。
絵麻は心の中で頷き、久々の貴重な夜の時間に何の勉強をしようか計画を練ることにした。