地味に生きたい、そんな彼女の事情-3
そして週末。
朝から「今から迎えに行く」と琥狼からの一方的な電話を受けた絵麻は、とりあえず昨夜用意したお泊りセットを玄関に置いた。
夏音には戸締りをしっかりするようにと、何かあったら浩司を頼るように言っておいた。
本当は2週間の間は夏音を浩司の家に泊めさせてもらおうかと思ったが、夏音の中学校からかなり距離があるので、やはり家にいた方がいいと判断した。
琥狼が組織の人間を護衛につけてくれたので、滅多なことはきっと起きないだろう。
ちなみに気を遣ってくれたのだろうか、絵麻達とそう年の変わらない普通の少年を寄越してくれた。
絵麻も夏音も何回か面識のある少年なので、安心して任せられる。
「じゃあ行ってくるね」
玄関の外で車が止まる音を聞いて、絵麻は夏音に声を掛けて家を出た。
そして―――この話の冒頭に戻る。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
絵麻は、巨大な門が開く音を遠くに聞きながら立ち尽くしていた。
肩まで切りそろえられた髪は、艶やかな腰までのまっすぐな黒髪に。
いつもはジーパンとパーカー姿の私服は、清楚な淡いピンクのAラインワンピースに。
靴はもちろんスニーカーではなく、ワンピースの色に合わせたピンクのパンプスに。
すべて、車に乗せられてからここに来るまでに買い与えられたものだ。
さらにエステにも行って体を磨かれ、ヘアメイクに化粧も施されて、絵麻はすっかりお嬢様に仕上がっていた。
普段の彼女を知っている人間なら、絶対に気付けないくらいの変身っぷりだ。
「なかなか似合うじゃないか、お嬢様」
今から数時間前。
誰でも知っている有名なブランド店で、琥狼の変身を遂げた絵麻を見た第一声がそれだった。
口端を上げて満足そうな表情を見せる幼馴染に、絵麻はキッと睨みつけながらドスドスと近寄った。
琥狼は背が180cm以上あるので、160cmに満たない絵麻にとってはかなり見上げることになる。
「おい、そんな歩き方をしたら、せっかく着飾ったものが台無しになるぞ」
「ちょっと、これ依頼とどういう関係があるの?護衛するのにこんなに着飾らなくちゃいけないわけ?」
「必要だから」
それだけ言うと琥狼は絵麻の右手を掴み、店の外に出る。
絵麻は急に掴まれたことに驚き、そしてその後は琥狼の大きな手につながれているのが恥ずかしくなり、振りほどこうとした。
が、車に乗り込んでもその手は離れることなく、ずっとつながれたままだった。
「ねえ、手、離してよ」
「駄目だ」
「…何で」
琥狼は窓枠に肘を付きながら、目線だけを絵麻に寄越してひと言言い放った。
「お前は今日から、俺の妹だから」
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「……昔から思ってたんだけど、琥狼って肝心なことを必要な時に言わないわよね」
「そうか?」
豪邸の前で黒服の厳つい大男たちに歓迎を受けた絵麻は、両脇に並ぶ人間アーチを通り玄関にたどり着くまでにかなり精神力を消耗していた。
今は絵麻に用意された一室で、ソファに座り慣れない靴を脱いだ足をブラブラさせている。
このまるで洋館のような豪邸は琥狼の日本での自宅である。
どうやら今回の仕事は、“琥狼の妹”として、この豪邸に2週間生活して護衛するということらしい。
「先に言ってくれればこちらも心の準備とか出来たのに」
「最初に言っていたらお前、依頼断っただろう」
「…」
さすが幼馴染、絵麻がこういう大人しい格好をする依頼を嫌がるのをよく知っている。
女の子としてかわいく着飾るのは楽しいのだが、護衛をする時は逆に動きにくくなるので避けている。
万が一、それでミスでもしたら元も子もない。
だから絵麻は護衛の際に大人しくしていないといけない服装や役柄の場合は、難色を示してしまう。
海外の依頼主だと絵麻に着物を着せたがる場合が多く、パーティーで無駄に声をかけられて本来の仕事に集中出来ないこともあった。
それに比べれば、このワンピース姿はまだましな方だろう。
今回の琥狼の妹というのは父親違いで、生まれつき病弱で療養していたため公表されていなかった設定となっている。
年齢は13歳で、激しい人見知りをするためいつも兄の側にいないと倒れてしまう。
そして、琥狼と一緒にいる時は常に彼と手をつないだり、腕を組んでいたりしなければならないらしい。
……どこまで病弱すぎる設定なのだろうか。
ちなみに、琥狼の家は女系家族で、父親よりも母親の方が強い。
日本人である父親は婿養子で、組織をとりまとめているのは母親だ。
姉が3人いるが、どれも個性的で強い女性達ばかりだったため、その中でやっと生まれた長男は本当にとても可愛がられていた。
本当なら姉3人の誰かがこの組織を継ぐはずなのだが、3人ともこぞって後継者を琥狼にと推してきたという。
琥狼自身にも組織を束ねるだけの類まれなるカリスマ性があったため、周囲の反対もなく後継者におさまったとのことだ。
だから純の時のような後継者反対派による内部分裂もないはずだが…今回は何故こんな小芝居を入れた護衛が必要なのだろうか。
「ねえ、琥狼」
「……」
「? ねえ、琥狼ってば」
「……」
「ちょっと、聞いてるの?」
絵麻がソファで寛いでいる間、背を向けて机で勝手にパソコンを操作していた琥狼だが、呼ばれてもチラリとこちらを見てまた画面に視線を戻してしまう。
「琥狼?何で無視するのよ」
「お兄様」
「は?」
琥狼は、今度は体ごと絵麻に向き直って告げた。
「妹なんだから、“お兄様”だろう?」
「!!」
絵麻は目が零れ落ちんばかりに見開いて琥狼を見るが、驚きのあまり声が出ない。
琥狼は椅子から立ち上がりゆっくりとソファに近付くと、身をかがめて絵麻と目線の高さを合わせる。
そして絵麻の耳元に顔を寄せ、低く落ち着いた声で囁いた。
「ほら」
「……」
「言えよ、“お兄様”って」
「………!」
完全に遊ばれている。
その証拠に、囁く声は絵麻が羞恥心を感じるようにわざと甘くしているし、琥狼は“お兄様”と呼ばれて喜ぶ趣味もないのでふざけているのが丸分かりだ。
とにかく彼は絵麻をからかいたくて仕方ないのだ。
昔から琥狼は常に冷静で、子供の無邪気さからほど遠い少年だったが、絵麻には出会った時に大ゲンカをしたため遠慮がない。
同年代の友達と遊ぶ機会がほとんどなかった琥狼にとって、友達とケンカすることは衝撃的だったらしい。
それからは、少年時代に誰もが経験するようないたずらを絵麻に仕掛けることで、喜怒哀楽の表情を出すようになった。
それでも普通の子供に比べたら乏しかったが、琥狼の周りの大人たちは大層喜んでいた。
絵麻からすれば、何もしていないのに会うたびにちょっかいをかけられていい迷惑だ。
愛想のかけらもない琥狼にカチンときて、「自分の考えくらい口で言え」「嬉しいなら顔に出すくらいしろ」等と思ったことを言っただけのことが、こんなにも絵麻の平穏な人生を乱すことになるとは思わなかった。
その後純と出会った時のこともあり、さすがの絵麻も自分が喧嘩っ早いのではないかと悩んだものだ。
今は、温厚なはずの絵麻ですらケンカしてしまうほど彼らが問題児だったということで、自己完結しているのだが。
「おっと」
琥狼はさっと身を引いて、絵麻が蹴りだした右足を避けた。
長年の付き合いで、琥狼は絵麻が何かあると足技を繰り出すことをよく知っている。
どこまでからかうと怒るのか、どこまでなら冗談で許されるのか、きちんと引き際をわきまえているのだ。
「お前はすぐに足を出す癖を直せ。明日から2週間はお嬢様の生活だぞ」
「…分かってるわよ」
「本当に分かってるか?」
「依頼はきちんとこなしますから」
そう言ってそっぽを向く絵麻の頭を慰めるように撫でて、琥狼は「もう遅いから寝ろ」と言いドアへと向かった。
「それとも一緒に寝るか?」
「絶対にお断り!!」
琥狼はドアを開けたところで余計なひと言を言うと、絵麻が投げたクッションが当たる前にうまくドアを閉める。
絵麻は投げた姿勢のまましばらく止まっていたが、部屋が夜の静けさに戻ると、どっと疲れが出てソファに倒れこんだ。
これから2週間、毎日こんな風におちょくられるのだろうか―――そう思うと、琥狼の側にいなくていい学校に早く行きたいと心から願うばかりだった。