地味に生きたい、そんな彼女の事情-2
実験棟は、その名の通り実験室が数多くある校舎である。
ついでに調理室や家庭科室も併設されているので、放課後にはクラブ活動の生徒で賑わう。
しかし、今は休み時間のため、移動教室で歩いている生徒もほとんどいない。
(実験棟といっても、結構広いからなぁ…)
絵麻はとりあえず心当たりのある教室をひとつひとつ見て回っていた。
おそらく琥狼は、カギのかかる教室でひとり昼寝でもしているのだろう。
何故か実験棟の各教室のカギを持っているかは不明だが、琥狼はひとりになりたいときは必ずここに来ている。
(……ん?)
絵麻が化学実験室の前に差し掛かると、準備室の方から何か物音が聞こえた気がした。
歩みを止めて耳を澄ますと、確かに人がいる気配がする。
この昼休みの時間に準備室にいる生徒はあまりいないので、先生が早めに授業の準備に来ているのだろうか。
一瞬琥狼かもしれないと思ったが、確かこの部屋のカギは琥狼は持っていなかったはず。
念のため確認しようと、絵麻が準備室のドアをそっと開ける。
案の定、ドアにカギはかかっておらず、奥の方に誰かがいる―――しかも二人。
「……ねえ…もっと、こっちに来て……」
薄暗い部屋の奥から聞こえてくる女性の甘い声。
それに重なる衣擦れの音と、やけに近いかすかな2つの影。
これはまずい。
今、とてもまずい現場に来ている気がする。
何よりもこの準備室に流れている空気がアヤシイ。
絵麻はすぐに引き返そうかと思ったが、男の声が聞こえてきて思わず声を上げそうになった。
「…俺は教師に手を出す気はない」
琥狼だ――しかも相手は先生か!
立ち去るべきなのだろうが、でも元々の目的は琥狼と話をすることだ。
この機会を逃すと今日中に話をすることは難しいかもしれないが、かといって二人の逢引きが終わるまで待つわけにもいかない。
絵麻は心の中で葛藤している間も、どんどん二人の話は進んでいるようだ。
「あら、ここに来てくれたってことはそういうつもりじゃないのかしら?」
「あんたが、提出してない課題を持ってこいって言ったからだろう」
なるほど、琥狼が誘ったわけじゃないのか。
純は女性であれば誰の誘いでも乗るが、琥狼は絶対に素人には手を出さない。
クラスメイトはおろか、先生など決して眼中にないだろう。
しかし、先生にまで狙われるとは何というフェロモンだろうか、恐ろしい。
ドア付近の机の下に潜り込んだ絵麻は、とりあえずこの場が収まるまで待つことにした。
琥狼が乗り気でないのなら、そのうちどちらかが部屋を出て行くに違いない。
あちらの様子を伺うと、そろそろ話が終わりそうだ。
「このことを学校に言うつもりはない。だから、二度と俺を誘うのは止めてもらおうか」
「!!」
先生が悔しそうに息をのむ様子が分かる。
琥狼は相手がこれ以上食いついてこないと分かると、踵を返して準備室から出て行く。
絵麻は準備室に残っている先生に気付かれないよう、そっと琥狼の後を追った。
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「で、いつになったら出てくるんだお前は」
化学実験室からは離れた資材置き場となっている教室に入ると、琥狼は自分の背後に向かって声をかけた。
絵麻は、開けっ放しのドアからひょこっと顔を出して教室の中に入ると、後ろ手にドアを閉めた。
絵麻も分かってはいたが、琥狼は準備室の時から絵麻が近くにいたことに気付いていたようだ。
琥狼は小型冷蔵庫の中からペットボトルを取り出すと、ソファに座ってひと口飲む。
何故普段使われていない教室に冷蔵庫やらソファやらが置いてあるかは、この際追及しないでおこう。
絵麻は琥狼の側まで寄って、顔を覗き込んだ
「相変わらずモテモテで」
「教師に迫られても嬉しくない。そもそも、生徒を誘うなんて規律に反する」
「琥狼はカタギには手を出さないものね」
「まあな」
琥狼の家は香港マフィアを家業としている。
組織の規律が厳しいがその分仲間のつながりが強く、特に裏切りへの報復は凄まじい。
だから、規律に違反することを琥狼はひどく嫌う――家業が家業なので、社会的な規律とは違ったものが多いが。
琥狼は父親が日本人であることと、小学生の時に抗争の多い香港から日本に避難して長いので、まだ日本の常識をよく分かっている。
といっても、空き部屋のカギを自由に使い、部屋を好きなようにカスタムしている時点で、学校の規律にはかなり反していると思うのだが、これもあまり突っ込まないことにする。
時計をチラリと見ると、昼休みの時間ももう残り少ない。
絵麻は本題に入ろうと、両腕を組んでソファに座っている琥狼に視線を戻した。
「浩司おじさんから、学校外の依頼があるって聞いたんだけど。直接話すって言うから、わざわざこんなところまで探しにきたんだからね」
「ああ、その件か」
琥狼が絵麻に目で座るように示してきたので、絵麻は琥狼の向かいのソファに座った。
メガネの傾きを直しながら、琥狼はソファに深々と座りその長い足を組む。
「今回の依頼は2週間。基本的に俺の側に付きっきりになる。もちろん、組織の会合の時も一緒、帰る家も一緒だ――久々に泊まり込みの依頼になるな。報酬はいつもの5倍は出す。かと言って、俺は今誰か
に命を狙われているわけではないから、そう構える必要はない。ただ、行動制限がかなりあって窮屈かもしれないが」
「…………えええ!?」
普段口数の多い方ではない琥狼が一気に依頼内容を話し終えると、絵麻は頭の中で依頼内容を復唱してから声を上げた。
「2週間って長くない?しかも泊まりなの?琥狼の家に?というか、狙われてなくて何でそんなに一緒にいなきゃいけないの?」
「落ち着け」
琥狼は、思わず立ち上がりかけた絵麻を片手で制した。
今までも泊まりがけの依頼はあったが、こんな長期間はなかった。
家に帰れなかったら弟の夏音はずっとひとりで家にいることになるとか、学校に行く時は別々になるのかなど、絵麻の頭には依頼を受けた場合の色々な弊害が頭に浮かんできた。
琥狼はそんな絵麻の様子を見ながら、膝の上で両腕を組んで絵麻をまっすぐに見つめる。
メガネの奥の鋭い眼光を受けて、さすがの絵麻も少し怯む。
「な、何よ」
「お前、この間純の依頼受けたんだってな」
「…そうだけど」
「毎回、あいつに甘くし過ぎなんだ。誘拐の時もわざわざ自分で助けに行ったりして…いつもの事なんだから、純の身内に任せて放っておけばいい」
……何故、自分が怒られなければいけないのだろう。
琥狼だってよく学校外の依頼を振ってくるではないか。
確かに純は誘拐慣れしているし、今回のことは彼が仕組んだことで命を取られる話ではなかった。
しかし、純は琥狼の数少ない対等でいられる友人でもあるのに、その友人を助けた絵麻が責められるとは理不尽極まりない。
絵麻は文句を言おうと身を乗り出したが、ふとこの間の純の誘拐事件で琥狼にお礼を言っていなかったことを思い出した。
「あ、そうだあの時は連絡してくれてありがとう。よく私の言いたいこと分かったわね」
「付き合い長いからな。それに、単純なお前の考えていることくらいすぐ分かる」
「ちょっ、何よそれ!」
「言葉通りの意味だ」
口を尖らせる絵麻を見て、ふっと琥狼が微笑む。
純と違って、普段あまり感情を表に出さない琥狼に微笑みかけられると、レアなものを見たと心臓が一瞬跳ねる。
普段ぞんざいな扱いを受けているせいで、少しでも優しくされると動揺してしまうようだ。
絵麻は何だか気恥ずかしくなって目線を反らすと、話を元に戻す。
「とにかく、どうせこの依頼断れないんでしょう?浩司おじさんも絶対引き受けろって感じだったし」
「俺個人じゃなく“家”としての依頼だからな。いい加減諦めろ」
そう言うと、琥狼はペットボトルをまたひと口飲み、立ち上がって冷蔵庫に戻す。
そのままドアに向かうと、「そろそろ授業始まるぞ」とまだソファに座っている絵麻に向かって言った。
「俺からも浩司さんに話はしておく。夏音のことも心配するな。うちの人間を何人かつけておくから」
「……琥狼の家の人間……せめて厳つい大男にはしないであげて。逆に通報されるから」
その言葉に琥狼が口端を上げると、ちょうど昼休みが終わるチャイムが鳴り響く。
絵麻は次の授業に遅れないよう急いで教室へと走って行った。
―――もちろん、琥狼とは別行動になるようにルートは変えて。
実は、第一話の琥狼の家事情を少し変えました(父親が日本人でした)
読み返していて違う設定にしていた自分にびっくりです…。