四節
雨が、降っている。
あんなにも晴れていたのに。
夜になれば、唐突な雨だ。
林道は一人――雨に濡れていた。
その前の記憶は朧気だった。
適当な言葉を、言えたのだろうか。
逃げるようにはぐらかして、外に出た。
気がつけば、いつだか来たことのある公園に居た。
(海堂さんと、夜……ここで話した……)
海堂は命に変えてでも、秘密を守り抜いた。
(海堂さん、僕は――)
海堂のように、秘密を守り抜くことは、出来ないだろう。
(どうか、どうか――許してください。海堂さん)
胸が苦しくて、咳をした。
息が切れるまで、咳をして――そしてカメラを忘れたことに気づいた。
(ああ、帰らなきゃ)
帰らなくては。
(でもどこに?)
居場所なんて、ずっと前に失くしただろう。
(じゃあ、僕が行くべきなのは――)
一体、どこなのだろう。
「僕の目は、欠陥品……なんだよなぁ……」
光を宿さないその目は、代わりに蛇のように鋭い瞳孔を夜空に向けた。
「こんなじゃなかったらなぁ……」
こんなでなけれければ、守れたのだろうか。
分からない、そんなタラレバは。
……けれど、何かが違ったと、信じたかった。
辺りの――家の光が眩しかった。
(ここは、誰かの帰る場所……居場所なんだ)
ふらふらと、行き先も決めずに歩き出した。
できることなら、光の届かない――どこか。
「逃げるのか」
「……あぁ、貴方ですか」
「こちらの質問が先だ、林道――」
「逃げるも何も、僕はどこにも行けませんよ。松笠さん」
「そうか」
不自然なほどの静寂。
松笠は、何も追求しない。
「……それを聞くためだけに、ここへ? 案外暇人なんですね、松笠真昼さん」
「玲、だったか。今の名は」
「……」
不快だ、と素直に思った。
言い表せないほどの嫌悪が、全ての感情に勝った。
呼ばないでほしい、その名も。
――あの名も。
「自分を隠すな、林道、林道――」
「――黙ってくれませんか」
「なにか不利になることでも? まさか、そんなものお前にあるまい」
「……不利とか、どうとかじゃなくって、っ……不快、なんですよ……!」
雨音に混ざりからん、と足音が響いた。
水を弾きながら、こちらに気づいて駆けてくる――青い着物の、一人の画家。
「やっと見つけました、林道さん。風邪ひきますよ」
その柔らかく純粋な声が、雨音をくぐり抜け響く。
「あれ、そちらの方、は……?」
「……百日、さん……なんで……」
泣きそうなほど震えた声で、振り返り、目で捉えた。
ああ、どこからどう見ても――百日鈴、その人でしかない。
「なんで、ここに……来てしまったんですか」
「林道さん?」
「……そうか、お前が。海堂を継ぐ者、海堂が守り抜いた秘宝、その両方か」
「なんの、話……です?」
空気だけで百日は、この人物は危険だ、と判断した。
そっと、林道の手を掴んだ。
その手はもはや何方の震えか、など分からないほど――お互い冷え切って、お互い震えていたのだ。
「僕は、貴方が……誰か、知りません」
ぐっと、手に力を入れて。
決して、手が離れないように。
「海堂さんの、何を、知っているかとか……知りません、けど……」
慣れない表情で、松笠を見つめる。
恐怖で潤んだ瞳のまま、睨みつけた。
「林道さんを、いじめないで……!」
「……! 百日さ――」
小さな勇気で叫んだ勢いのまま、林道の手を引っ張り、走り出した。
逃げろ、逃げろ。
どこまでも、逃げろ。
――この人を連れて、逃げ切るんだ。
百日は、ただそれだけを考えた。
それだけ、その意志だけで、走り続けた。
体力なんてないが、そんなことは無視して。
自分の体が悲鳴を上げようと、目的地までは絶対に手を離さないと決めていたから。
「百日! 早く入れ! 林道さんもぼけっとしてないで早く!」
「……っ! 西臼さん、ありがと――」
「礼なんて後でいいから早く!」
二人が家の中へと倒れ込むように入ると同時に西臼は戸を閉めた。
慣れない手つきではあったが、鍵を閉めた後、一言文句を零した。
「なんで日本家屋って、こうも鍵すら分かりづらいんだ……!」
「ご、ごめんなさい……」
「いや、これは君悪くないし。どっちかと言うとあの名画家の趣味でしょ、この家」
「……そう、ですね」
そのまま乱暴に二人にタオルを投げ、西臼は鋭い目のまま、戸を見つめていた。
「風邪は……まあ引くだろうけど、一応ちゃんと体拭いときな。無駄な抵抗だけどさー」
「……ありがとう、ございます」
「百日もだけど、林道さんも。油断しちゃ駄目ですよー。あんな熱心なストーカー、そう簡単に諦めてくれないでしょ」
「そう、ですね……」
沈んだ声のまま、林道は漸く一言、口を開いたのだ。
体力は百日より林道のほうがある、が――精神力はまた別の話だった。
「……僕、は。僕の、目、は……」
林道は震えた声で呟く。
そんな林道の手にそっと、百日が手を添えた。
「無理に話さなくていい、です。僕も、西臼さんも、無理してほしいわけじゃ……ないので」
添えられた手は、冷えているはずなのに――どこか暖かかった。
「話したくなったら話せばいいんじゃないですー?」
それよりも、と西臼は視線を二人に向けた。
「今はあのストーカー、でしょ?」




