三節
高揚感を得たまま、西臼は外に出る。
本音を言えば、百日がどんな絵を描くのかは興味があった。
だが「勝手に人様の家を漁るほど、落ちてはいない」と理性を保つため、見ないことにしたのだ。
(きっと今の表情は、海堂先生には見せられないな)
醜い表情、だろうから。
そんな感情を、あの方に見せたくない――と強く願った。
外の空気は最悪だ。
暑くてじめじめしていて、とてもじゃないがスッキリなどしなかった。
太陽が憎たらしいほどに、輝いていた。
「あつ……」
西臼はそんな世界が――大嫌いだったのだ。
日陰が伸びた先に視線をやる。
そこにはこんな炎天下で一人、日陰にも入らず、じっと百日宅を見つめる着物の人物がいた。
(誰だ……?)
直感だが、嫌な予感がした。
――その、黄色い着物の人物に。
「あの……」
西臼が声をかけようとした時、向こうが口を開いた。
「此処に居るのか」
「はい?」
「林道は、此処に居るんだな」
何を言っているか、西臼の理解は追いつかない。
だって、そうだ、ここは。
(百日鈴……の家、だろう)
何故、林道の名前が出てきた?
何故、林道が紐づけられた?
西臼が答えるよりも先に、その人物は動いた。
(あ――まずい)
家に上がろうとするその人物の前に立ち、行く手を阻もうとする。
そんな――西臼の姿があった。
(なんで)
そう、何故なのか。
「待ってください、ここは――」
体が先に動いていた。
(なんで僕は――あいつを庇っているんだ)
理由はわからない。
「百日鈴が住んでいる、そうだろう。退け、其処に用がある」
「あの子は、関係ないただの子供でしょう。だから――お引き取りを」
「……お前は、知らないのか。そうか」
「何の話です」
「お前も持っているものの話――いや、海堂が持たなかったものの話だ」
「……あの、名画家が、持たなかったもの……?」
そんなもの、見当がつくわけがなかった。
自分が、百日が持っていて、海堂が持っていないもの。
そんなもの――心当たりすらない。
「それは嘘だ」
「……へ?」
「お前は目を逸らしているだけだ。改めて言おう、退け」
「……退きません」
「あぁ、海堂のことがまだ忘れられないから、か」
何を言っているんだ、こいつは。
警戒心だけが募る。
自分が目を逸らしている?
何から、目を逸らしていると言うんだ。
(――なにも、わからない)
ただ、それでも。そうだとしても。
「……林道さんは、ここにはいませんよ。だから、帰ってくれませんか」
守りたいと、思ってしまった。
あの人の、宝を。
「……」
着物の人物は少しだけ考えた。
「大胆な嘘を吐くのだな、お前は」
そう言って目を伏せる。
「分かった。お前の無駄な意思に免じて、今は退いてやろう」
「……」
「また会うだろう。俺と、お前は」
「会いたく、ないですね……」
正直な気持ちを吐露し、苦笑する西臼に対し、その人物は表情一つ変えることすらなかった。
「俺とお前。お前と百日。その接触は避けられない。それと同時に――俺と林道の接触も、避けられない」
それは、既に決まりきったことのように語った。
「俺は全てを公平に判断する。好きに足掻け、蛇の目を宿した者共」
「蛇の目……?」
一人呟いた西臼の瞳は、蛇のように鋭い瞳孔を――宿していた。
(僕の目は……アイツの、目は……)
「随分と落ち込んでいますね」
「なっ! ……って、林道さんか。脅かさないでくださいよー」
「なかなか戻ってこないので、心配になりまして。僕も、そして――百日さんも」
その一言で、胸が苦しくなった。
自分は、嫌っているのに。
(だと、言うのに――)
「守りきった、といった表情ですね。何かあったんですか?」
視界が揺らぐのを感じだ。
感情が、ぽろりと溢れ出す。
「……外は暑いですから、中に入りましょう。ゆっくり聞きますから」
「っ……う、はいぃ……」
苦しかった、辛かった、悔しかった。
そして何より――怖かった。
林道の言葉は、先程の人物とは違う。
暖かくて、柔らかかった。
だからこそ、我慢ができなかったのだった。
そして、家に上がり、一度溢れた涙は中々収まることはなく、林道は静かに背中を撫でた。
西臼が戻ってきたと知り、安堵の表情を見せた……が、泣き止まない西臼に動揺をしていた。
「え、ど、どうしたんですか? 西臼さん……」
「なんでもないから! 黙ってて!」
その様子に林道は苦笑することしか出来なかった。
(お二人の和解は――だいぶ先、でしょうね)
林道は、西臼の背を擦りながらそっと問いかける。
「何が、あったのですか?」
「……怖い人が、いました」
「怖い人……?」
百日は林道と顔を見合わせた。
さすがの林道も分からず、首を横に振る。
「黄色い着物の……」
その言葉に、林道は――頭が真っ白になった。
「海堂先生とか、林道さんのこと、知ってるみたいで……」
見つかった、バレた、逃げ切れなかった。
「ここに林道さんがいるって、分かっていて。でも、百日の家、だから……」
「……不審、者?」
思考が真っ白になって、何も考えられなくて。
けれど、分かったことも確かにあった。
――全ては、時間の問題ということ。
林道玲の、タイムリミットが始まったのだ。
「だから、だから、僕……」
不安そうに震えた声で話す西臼の手を、百日はそっと握った。
「西臼さん、あの」
「……なんだい、名画家の遺産」
「ありがとう、ございます」
「……なんだよ」
これじゃあ、自分だけが嫌な奴だ。
そんなことを一人、思いながらも視線は合わせられなかったのだ。
「……」
ぼうっと、林道は外を見た。
気がつけば、日が落ちかけている。
(――この町で百日さんに出会った日も、夕日が綺麗だったっけ)
いつだって、変わらない。
いつだって、忘れない。
(……あの人の手の温もりを)
「林道さん?」
心配そうな声を耳が拾う。
そうして、現実に意識が戻ってくる。
「……すみません、少しぼうっとしてました。なにか?」
「ううん、なんでもない……けど……」
「表情、暗かったですよー」
赤くなった目を拭いながら、不機嫌そうに西臼は口を開く。
「あの人、林道さんに拘ってたみたいですけど……その、昔とかに……なんかありました?」
「……さぁ、面識はないのでなんとも、と言えれば良かったのですが」
「あははー……あるんですね、何か。ま、無理には聞かないですー」
そういう西臼もまた、表情が暗いのだが。
「てか、怖いながらも頑張って追い返したんですよー。林道さんからも、褒められても良くないですー?」
「あぁ……そうでしたね。そちらが本題でした」
「……別にいーですけどー」
「ありがとうございます。百日さん……と、僕を、守っていただいて」
呆気にとられたように口を開いたまま。
西臼は――言葉を返せなかった。
「……あ、えと。あ、あぁそうだ! 変なこと言われました、多分大事な……」
「変なこと、ですか」
空気が、ピリッと鋭くなる。
夏だと言うのに、どこか寒気のようなものを感じた。
「蛇の目を宿した者共……って、言われて」
「……あっ、僕も洛さんに聞かれたことが……」
蛇の目、それは――海堂が守り抜いた秘密。
だからこそ、何も言えない……いや、言いたくないのだ。
「ねぇ、林道さん」
待ってくれ。
お願いだから。
「……蛇の目って」
お願いだ。
その先は、その先の言葉は、何も言わないでくれ。
「なんですか?」
二人のその揃った声が、凶器のようだった。
逃げ出したい、けれど、それでは何も変わらない。
何も変わらないことが最良なのに、奴は――松笠は、やってくるのだろう。
(どう、すれば)
林道は、そのまま――何も言えなかった。
気がつけば、日は沈んでいた。




