第7話 盗賊、湯屋に来る! だが彼もまた……ととのってしまう
それは、いつも通りの、平和な昼下がりだった。
薪を割りながら、俺はふと遠くの山道に目をやった。森の木々の間から、ゆらりと一つの人影が現れる。ボロボロに汚れた黒いマントに、腰には刃こぼれの目立つ長剣。明らかに、ただの旅人ではない。その全身から放たれる、他者を寄せ付けない荒んだ空気が、距離を越えて肌を刺した。
(……旅人か? いや、あの目つき……野盗の類か?)
ちょうどその頃、湯屋の周りで遊んでいた村の子供たちが、その男の姿に気づいて蜘蛛の子を散らすように逃げていく。村の入り口で井戸端会議をしていた主婦たちも、悲鳴を飲み込んで家の中に駆け込んでいった。村全体が、まるで猛獣の出現に怯えるように、一瞬で静まり返る。
俺は慎重に斧を置くと、湯屋の玄関へと向かった。受付にいたリーナが、血の気の引いた顔で俺を見つめている。
「タカミチさん、あの人……たぶん、この辺りで有名な『カラスのヴォル』です。残忍な盗賊だって……」
「ああ。念のため、ルナに中の準備を頼んでくれ。もしもの時のために、一番頑丈な鉄の棒を用意しておくように、と」
「……わかりました。気をつけてください」
リーナが足早に奥へ消えるのと、男が湯屋の前にたどり着くのは、ほぼ同時だった。深く刻まれた眉間の皺、獲物を探すような鋭い眼光。そして、その瞳の奥には、深い絶望と疲労の色がこびりついていた。
「……ここが、噂の湯屋か」
低く、ひどくしゃがれた声だった。男は俺を一瞥すると、懐から汚れた銀貨を一枚取り出し、カウンターに無造作に放る。
「金は払う。湯に、入らせてくれ」
その言葉は、命令でも懇願でもなく、ただ乾いた事実だけを告げていた。俺は一瞬迷ったが、覚悟を決めて頷いた。
「……ようこそ。うちは湯屋だ。客を選ぶつもりはない」
俺の答えに、男……ヴォルは少しだけ目を見開いたが、何も言わずに黙ってのれんをくぐっていった。
脱衣所で無造作に服を脱ぎ捨て、ざっと体を洗うと、彼はまず湯船にその身を沈めた。長年の汚れと疲労が、じわじわと湯に溶け出していくかのように、彼の強張っていた筋肉がゆっくりと弛緩していく。
そして、サウナ室へ。ロウリュの蒸気が肌を焼く感覚に、最初は顔をしかめていたが、やがて噴き出す汗と共に、彼の表情から険が少しずつ抜け落ちていった。まるで、心の奥底に溜まった澱や、過去の後悔までもが、汗と共に流れ落ちていくかのようだった。
十分に体を温めた後、ヴォルは水風呂で絶叫にも似た息を吐き、そして外気浴スペースのベンチに倒れ込むように座った。
「……っはぁ……」
天を仰ぎ、目を閉じる。その横顔は、さっきまでの残忍な盗賊の面影はなく、ただ静かに安らぎを求める一人の男のものだった。
(忘れていた……。ただ、静かに息をすることの、意味を……)
そのときだった。
「ふふ、また面白い客人が来たようだな」
音もなく、湯気の中からエンネ様が現れる。もちろん、その神々しい姿は俺にしか見えていない。
「人の子よ、その者の魂は、長きにわたる争いと孤独によって深く傷ついている。……だが、癒す価値のある魂だ」
俺はエンネ様の言葉に静かに頷くと、冷たい麦茶と清潔なタオルを手に、ヴォルのそばへ歩み寄った。
「……どうぞ」
俺が差し出した麦茶の入った杯を、ヴォルは驚いたように見た。その目には、強い警戒の色が浮かんでいる。
「……あんた、変わった男だな。俺のような人間に、毒も疑わずに親切にするとは」
「ここは湯屋だ。湯の前では誰もが裸になる。身分も、過去も関係ない。来た客をもてなすのが、俺の仕事だよ」
しばらくの沈黙の後、ヴォルはふっと自嘲するように笑った。
「……へっ。本当に、変な奴だ」
彼はゆっくりと杯を受け取ると、一気にそれを飲み干した。
その夜、ヴォルは誰に声をかけることもなく、静かに湯屋を後にした。彼の去った後、リーナとルナが心配そうに駆け寄ってきた。
「タカミチ! 本当に良かったのか、あんな奴を……」
「ああ。俺たちの湯屋は、どんな客でも歓迎する。それが、この場所のやり方なんだ」
そして翌日。
開店準備をしていた俺の背後に、あの低い声が響いた。
「……おい」
振り返ると、そこにヴォルが立っていた。昨日よりも、ほんの少しだけ目の光が穏やかになっている気がした。
「今日は……『ととのい』に来た」
彼はそう言うと、昨日より少しだけ丁寧に、カウンターに銀貨を置いた。そして、静かにのれんをくぐっていく。
俺たちの湯屋は、また一人、癒やしを求める魂を受け入れることができた。どんな過去を持つ者であろうと、この湯の中では、ただの【客】なのだから。
「とても面白い」★五つか四つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★二つか一つを押してね!




