第5話 女神様、湯屋で働く(ただし自覚なし)
開業初日の嵐のような一日から一夜明けた朝。
俺は湯屋の掃き掃除をしながら、いまだにヒリヒリと痛む両頬をさすった。昨夜の光景が、鮮明に脳裏をよぎる。湯船から立ち上がる全裸の女神、そして誤解から炸裂した完璧な左右平手打ち……。
(いや、どう考えても俺は悪くない。悪いのは全部、あのマイペースすぎる女神様だ。絶対に)
しかし、元凶であるご本人はというと、まったく反省の色を見せることなく、今日も朝一番の湯に当然のように浸かっていた。
「人の子よ、今日もこの湯は実に心地よいな。ふふ、まるで天上の霊泉のようだ」
「それ、褒めてもらってるのは光栄なんですけど……できれば営業時間外に来ていただくわけにはいきませんかね!?」
昨日の【混浴】事件があったため、リーナとルナの警戒心は最高レベルに達している。のれん一枚を隔てた受付に座る彼女たちの視線が、チクチクと俺の背中に突き刺さるのがわかった。
「でもまあ、仕方ないのかもしれないわね。あの女神様、悪気はなさそうだし……」
「いや、絶対あるだろ、あれは……」
ルナが呆れたように呟いた、その時だった。湯から上がったエンネ様が、受付のカウンターにぴょんと腰を下ろし、子供のように目を輝かせてこう言ったのだ。
「そなたたちの働きぶり、近くで見ていて実に面白かったぞ。……次は、我も手伝ってみたい」
「……はい?」
「この『受付』という役割、我もやってみたい。ふむ、我も【ゆーあてんど】なる役職に、いたく興味が湧いてきた」
「いや、それは普通に【フロント】って言えばいいんですけど、色々と問題があるのでやめた方が……!」
俺が制止するより早く、エンネ様は卓上の木札を手に取ると、勝手に呼び出し用の小さな鐘をチリンと鳴らし始めた。
「お客様一名様、男湯へご案内~」
なぜか完璧な発声。これが女神補正というやつか。いや、それ以前に……!
「こ、こら! お客さんには姿が見えないんじゃなかったんですか!?」
俺が慌てて入口に目をやると、ちょうどやって来た村の農夫が、あんぐりと口を開けて立ち尽くしていた。彼の目は、タオルを頭に乗せて受付に座る絶世の美女……エンネ様に完全に釘付けになっている。
「す……すみません……ここ、普通の湯屋……だよな……?」
「ご安心くださいませ。ここは心と体を癒す聖域。さあ、癒しの空間へようこそ。ご入浴は銀貨一枚でございます」
完璧すぎる接客スマイル。さっきまで『人の子よ』などと宣っていた神様とは到底思えない。村人は頬を真っ赤に染めながら、半分夢見心地で男湯へと吸い込まれていった。
「エンネ様!? 勝手に料金設定しないでください! 当分は無料だって言ったじゃないですか!」
「ふむ。では、この銀貨は神への供物としよう。それとも何か? おぬしは、この神への奉仕を拒むと申すか?」
「なんでちょっと逆ギレ気味に口説いてくるんですかね……?」
その後も、エンネ様は気まぐれに受付業務をこなし、その神々しい美貌から、村人たちに「天女様」「湯屋の若女将」などと崇められることになった。完全に、この湯屋の看板娘ポジションを確立している。あれ? 主人公、俺だったはずなのに……。
昼下がり、客足がひと段落ついた頃。
俺が裏手で薪を積んでいると、リーナが心配そうな顔で声をかけてきた。
「タカミチさん、大丈夫ですか? エンネ様……今日もすごかったですけど」
「ああ。まあ、もう驚かないかな……。ああいう存在なんだって、少しは慣れてきたし」
「……でも、その……ちょっと、悔しいです。あんなに綺麗な人が、毎日タカミチさんのあんなに近くにいたら……女の子としては、やっぱり」
そう言って、リーナが小さな声でうつむく。
(おいおい、反則だろその角度と表情は……!)
「リーナ。それでも俺は、ちゃんと見てるから。お前が誰よりも頑張ってること、俺が一番よく知ってる」
「えっ……。あ、ありがとう……ございます……」
俺の言葉に、リーナの顔がぱっと赤く染まる。そのやり取りのすぐ後ろで、薪の影からこっそり盗み聞きしていたルナが、「……ばか」と誰にも聞こえない声で呟き、ぶすっと頬を膨らませていたことに、俺はまだ気づいていなかった。
異世界の湯屋の日常は、今日も穏やかに、そしてちょっぴり騒がしく流れていくのだった。
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