第22話 歌声を失った歌姫
その日、村に一人の女性が、ふらりと姿を現した。
海のように深い翠色の長い髪、嵐の後の凪いだ海のような瞳。その憂いを帯びた佇まいと、この世の者とは思えぬほどの美しさに、村人たちは誰もが息をのみ、道を開けた。彼女は言葉を発さず、ただ、俺の湯屋の場所を尋ねるように、村の広場で静かに周囲を見回していた。
リーナに案内されて湯屋にやってきた彼女は、懐から取り出した小さな石板に、流れるような文字を書いて俺に見せた。
【癒しを求めて、旅をしています。ここのお湯に、浸からせていただけますか】
「……もちろんです。ようこそ、【癒しの湯屋】へ」
俺がそう言うと、彼女は安堵したように、しかしどこか寂しげに微笑み、深々と一礼した。
後から聞いた話では、彼女の名はマリーナ。かつて、その歌声で船乗りたちの心を癒し、荒れ狂う嵐さえも鎮めたと謳われる、伝説の歌姫【セイレーン】。しかし、ある悲しい事件をきっかけに心を閉ざし、宝であったはずの歌声を、完全に失ってしまったのだという。
どんな名医も、どんな魔法も、彼女の心を癒すことはできなかった。そして彼女は、どんな魂も癒すという辺境の湯屋の噂を耳にし、最後の望みを託して、この村へやって来たのだった。
声を発することのできない彼女は、終始物静かだった。
だが、その一つ一つの所作が、まるで詩の一節のように優雅で、美しかった。湯船に体を沈め、目を閉じるその姿に、男湯にいたギンジやレオたちでさえ、思わず見とれて言葉を失うほどだった。
彼女にとって、サウナ室の熱気は、何年も凍りついていた心の氷を、ゆっくりと溶かしていく温室のようだった。
(……あたたかい。忘れていた……。心が、じんわりと温められていく、この感覚……)
額から流れる汗は、まるで彼女がずっと流せずにいた、悲しみの涙のようだった。
そして、水風呂。
その身を清流に沈めた瞬間、過去のしがらみや、悲しい記憶が、全て洗い流されていくような、不思議な感覚に包まれた。それは、魂の【禊】の儀式。
最後に、外気浴。
【ととのい椅子】に深く身を預け、森を渡る風を全身で受け止める。心と体が、極限までリラックスし、解放されていく。
その、静寂と安らぎに満ちた【ととのい】の境地で、奇跡は起きた。
「……ん……ぅ……」
彼女の喉が、自然と小さく震えた。そして、その唇から、か細いハミングが漏れ出す。最初は、途切れ途切れだったその音は、やがて、澄み切った一つの美しいメロディとなって、湯屋の森全体に、優しく響き渡った。
それは、言葉のない、魂の歌。悲しみを乗り越え、安らぎを見つけた、喜びの旋律。彼女の【ととのい】は、【歌】となって、心の外へとあふれ出したのだ。
その歌声には、不思議な力があった。俺も、リーナも、ルナも、そして湯屋にいた全ての客が、その場に立ち尽くし、ただうっとりと聴き入っていた。歌声に呼応するように、露天風呂の周りの花が、わずかにほころんだように見えた。
歌が終わり、森が再び静寂に包まれる。
マリーナの目から、一筋の涙が、きらりとこぼれ落ちた。彼女は、信じられないといった様子で、そっと自らの喉に触れる。
「……歌が……歌える……」
それは、何年かぶりに、彼女の口から発せられた、透き通るような美しい声だった。
その夜。
歌声を取り戻した彼女は、俺たちの前で、改めて深々と頭を下げた。
「タカミチ様……。本当に、ありがとうございました。このご恩は、一生忘れません。もし、お許しいただけるのでしたら、この湯屋で、お礼をさせてはいただけませんでしょうか」
数日後。湯屋では、第一回【ととのいコンサート】が開かれていた。
湯上がりの客たちが、縁側や外気浴スペースで寛ぐ中、マリーナの澄み切った歌声が、湯けむりと共に響き渡る。その歌声には、人々の心を直接癒す、不思議な力が宿っていた。サウナと水風呂で整えられた体に、彼女の歌声が染み渡り、訪れる人々を、これまで経験したことのない、究極のリラクゼーションへと導いていく。
俺の湯屋は、音楽と癒しが融合した、唯一無二の場所へと、また一つ、進化を遂げた。
芸術と感動。そんな高尚なことはよくわからない。だけど、また一人、心からの笑顔を取り戻した人がいる。それだけで、俺の心は最高に【ととのって】いた。
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