第20話 感情を忘れた暗殺者
その日、湯屋に一人の女が訪れた。
どこにでもいる、ごく普通の旅人といった風体。特徴のない茶色の髪、人混みに紛れてしまえば二度と見つけられそうにない、平均的な背丈と顔立ち。彼女は一言も発さず、ただ静かに銀貨をカウンターに置くと、会釈だけして男湯……ではなく、女湯ののれんをくぐっていった。
「……なんだか、妙に静かな人だったな」
俺がそう呟くと、受付にいたリーナがこくりと頷く。
「ええ。でも、どこか……とても寂しい目をしているように見えました」
その時、俺たちはまだ知らなかった。彼女が、王都の裏社会でその名を聞けば誰もが震え上がる、伝説の暗殺者【無音】であること。そして、俺の命を奪うために、この湯屋に潜入した刺客であることなど、知る由もなかった。
◆
女――【無音】は、脱衣所で静かに呼吸を整えていた。
(標的、タカミチ。警戒心は薄く、護衛もいない。この【湯屋】という施設は、人の五感を鈍らせ、無防備にさせる。暗殺には、まさに絶好の場所)
彼女の思考は、常に冷静で、無機質だ。感情は、任務遂行の妨げになるノイズでしかない。長年の訓練で、喜怒哀楽という感情は、心の奥底に沈め、完全に殺してある。
(まずは、地形と構造を把握する)
彼女は客を装い、湯屋の施設を一つ一つ検分していく。
サウナ室。
(密室。蒸気は視界を遮り、奇襲に有利。この熱気は、常人であれば思考力を奪うだろう)
水風呂。
(心臓への負荷が大きい。事を終えた後、事故に見せかけることも可能か)
外気浴スペース。
(森に隣接。逃走経路として最適)
すべてを完璧に分析し、彼女は計画の最終段階へと移行した。自らも【ととのい】を体験し、標的が最も油断する瞬間を見極めるために。
サウナ室の熱気は、鍛え抜かれた彼女の肉体にとって、取るに足らないもののはずだった。だが……。
(……なんだ? この熱は、拷問の火とは違う。ただ、温かい……)
ロウリュの熱波が、彼女の体を包み込む。それは、今まで感じたことのない、敵意のない純粋な熱。体の芯から、何かがゆっくりと溶けていくような、奇妙な感覚。
水風呂の冷たさが、その感覚を一度リセットする。脳内が、真っ白な静寂に包まれた。
そして、外気浴の【ととのい椅子】に、彼女は身を沈めた。
その瞬間、だった。
彼女の中で、何かが、壊れた。
(……なんだ、これは……)
殺伐とした記憶しか存在しないはずの脳裏に、全く知らない光景が、勝手に流れ込んでくる。
――縁側で日向ぼっこをする、猫の温かさ。
――焼きたてのパンの、香ばしい匂い。
――夕暮れの空を、赤く染める夕日の美しさ。
――誰かと手を繋いで歩く、穏やかな帰り道。
それは、彼女が今まで手にかけた者たちから、無慈悲に奪ってきた【日常】のかけら。心の奥底に捨てたはずの、人間らしい感情の残骸。
初めて体験する、【戦わなくていい時間】。
初めて知る、【安らぎ】という名の感覚。
彼女の瞳から、一筋の雫がこぼれ落ちた。それは、彼女自身が十数年ぶりに見る、自分の涙だった。
(この安らぎを……私は、この手で、奪おうとしていたのか……?)
任務を遂行することは、不可能だった。
これほどの安らぎを与えてくれた相手を、どうしても殺すことなど、できなかった。
◆
彼女は、いつの間にか湯屋から姿を消していた。
俺が閉店作業を終え、カウンターの上を片付けていた時、そこに無造作に置かれた一つの革袋を見つけた。中には、ずしりと重い金貨が詰まっている。おそらく、暗殺の依頼金だろう。
そして、その袋の上には……一本の、吸い込まれるように黒い、美しいナイフが、静かに置かれていた。
「これって……」
駆けつけたルナが、そのナイフを見て息をのんだ。
「……間違いない。裏社会で【無音】が使うと言われる、魔鋼のナイフだよ。なんで、こんなものが……」
俺には、わかった。
これは、彼女からのメッセージだ。
【もう、これを使うことはない】
俺の作り出した【ととのい】が、一人の暗殺者の、血塗られた人生さえも変えてしまったのだ。
後日、風の便りに、奇妙な噂を耳にした。
王都から遠く離れた国境の街で、一人の物静かな女性が、小さな花屋を始めたらしい。彼女はあまり笑わないが、店の花を見つめるその眼差しは、とても穏やかだったという。
俺は、今日もサウナストーンに水を打ちながら、静かに空を見上げた。
この湯けむりは、きっと、どこかで新しい人生を歩み始めた彼女の空とも、繋がっているはずだから。
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