第19話 前王、ただの人に還る
その日、湯屋に一人の老人が現れた。
華美な装飾は何一つなく、ただ上質だが着古された旅装束をまとっているだけ。しかし、その一挙手一投足には、隠しようのない気品と、そしてそれ以上に深い、底なしの疲労感が滲み出ていた。供は、同じく年老いた、忠誠心だけを鎧のようにまとった一人の従者のみ。
「……ここが、噂の湯屋か。静かで、良い場所のようじゃな」
老人は、騒がしくもどこか調和の取れた湯屋の日常風景を、懐かしむような、それでいて寂しそうな目で見つめていた。俺はその老人に、ただならぬ雰囲気を感じ取りながらも、いつものように声をかける。
「ようこそ、【癒しの湯屋】へ。長旅、お疲れでしょう。どうぞ、ごゆっくり」
老人は静かに頷くと、従者に何かを耳打ちし、一人で男湯ののれんをくぐっていった。残された従者は、俺に向かって深々と頭を下げた。
「タカミチ男爵殿。我が主は……近頃、ひどくお心が疲れておられる。王都での暮らしにも、隠居の身にも、安らぎを見いだせずに……。もし、この場所が噂に聞く通りの【聖域】であるならば、どうか、よしなにお頼み申す」
その言葉の重みに、俺はただ黙って頷き返すことしかできなかった。
老人は、作法に非常に詳しかった。体を丁寧に清め、まずは露天風呂の湯にゆっくりと体を沈める。そして、ただ静かに、目を閉じていた。その背中は、あまりにも小さく、そしてあまりにも多くのものを背負ってきた者の、寂しい背中だった。
サウナ室でも、彼は言葉を発しない。
じっと座り、熱気を受け、玉のような汗を流す。その汗と共に、彼の脳裏には、走馬灯のように過去が巡っていた。
(……若くして王冠を戴いた日。国を揺るがす大干ばつ。政敵との駆け引き。愛する妻を娶った夜。息子グラディスが生まれた時の、腕の重さ。そして、妻が先に逝った日の、心の空虚さ。全てを息子に譲り、【王】という役目を終えたあの日……)
譲位したとはいえ、私は何者なのか、もうわからぬ。
王冠を脱ぎ、私は【前王】となった。息子にすべてを譲り、【父】としての役目もほぼ終えた。妻はとうに逝き、【夫】でもない。ならば、この老いた身一つとなった私は、一体、何者なのだ……?
何も背負わぬ私は、空っぽの器ではないか……?
熱された体が、限界を告げる。
彼は、ゆっくりと水風呂へ向かった。キンと肌を刺す冷水に、思わず息が止まる。熱も、思考も、記憶さえもが、その一瞬、真っ白な静寂に包まれた。それは、責務に追われ続けた人生で、初めて経験する【無】の瞬間だった。
そして、クライマックスは、外気浴の【ととのい椅子】で訪れた。
火照った体に、森を抜ける涼やかな風が心地よい。心臓の鼓動が、ゆっくりと、しかし力強く、生命の音を刻んでいる。さっきまでの、自分は何者なのかという問いが、嘘のように消えていた。
(……違う)
風の音。鳥の声。遠くに聞こえる子どもたちの笑い声。その全てが、ただ、そこにある。
そして、自分もまた、ただ、ここにいる。
(……王である前に、父である前に、夫である前に、私はただの一人の男だった。この肌で風を感じ、この耳で音を聞き、この心で安らぎを求める……。そうだ。私は、誰でもなく、ただの私だったのだ。何も失ってなどいなかった。王冠と責務という重い外套を脱ぎ捨てて、ようやく……ただの私に、還ることができただけなのだ)
老人の目から、一筋の涙が静かにこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではない。あまりにも長い時間、忘れていた自分自身と再会できた、歓喜の涙だった。
完全に【ととのった】老人は、着替えを終えると、まっすぐに俺の前に立った。そして、供の従者が息をのむのも構わず、その場で深々と、俺に頭を下げたのだ。
「若者よ。いや、タカミチ殿。……ありがとう。若い妻でも娶って、人生をやり直すのも良いかもしれんな……ほっほっほ!」
その声は、憑き物が落ちたかのように、穏やかで、澄み切っていた。
老人が満足げな顔で去っていった後、残された従者が、震える声で俺に告げた。
「……あれが、我が国の前国王、グラディス二世陛下であられる。タカミチ殿、あなた様は、陛下が長い間お忘れになっていた、かけがえのないもの……陛下ご自身を、お救いくださったのです。このご恩、生涯忘れませぬ」
(【ととのい】は、時に人を更生させ、時にドラゴンを堕とし、時に騎士の鎧を溶かし……そして、時に、王をただの人間に還すのか)
俺は、自分がこの世界に持ち込んでしまった【サウナ道】の、そのあまりの奥深さに、静かに畏敬の念を抱いていた。これはもう、ただの癒しではない。魂の洗濯であり、自分自身と向き合うための、神聖な儀式なのだ。
俺の道は、まだまだ、始まったばかりなのかもしれない。
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