第18話 理屈のエルフ、未知に溺れる
俺の湯屋は、もはやただの村の憩いの場ではなかった。
元ヤンキーのギンジたちが騎士団の非番日に汗を流し、元盗賊のレオたちが商売の疲れを癒し、飛竜種のノーラが縁側で気持ちよさそうに日向ぼっこをし、時折お忍びでやってくる騎士団長ブリギッテが、誰にも見られずにそっと心の鎧を脱ぐ。神様と王女様は、今日も今日とて俺の隣の席を巡って静かな火花を散らしている。
そんなカオスで平和な日常が、当たり前になりつつあったある日のこと。一人の男が、森の奥から静かに姿を現した。
穢れ一つない深緑のローブ、背負った革の鞄には大量の書物や巻物。そして、何よりも目を引くのは、鋭い知性を宿した瞳と、わずかな感情の動きさえも捉えるかのように、ぴくりと動く長い耳。エルフだ。
「……ふむ。ここが噂の、異種族交流の坩堝と化した【湯屋】か」
男は、まるで汚物でも見るかのような目で、賑わう湯屋を一瞥すると、真っ直ぐに俺の元へ歩み寄ってきた。
「私が、この森の賢者にして万物の理を探求する者、リリエルだ。単刀直入に言おう、タカミチ男爵。貴殿の施設が、周辺の生態系……特に、竜種や猫人族といった希少種に、どのような影響を与えているのか。学術的見地から調査させてもらう」
その口調は、丁寧でありながら、人間たちの文化を「観察対象」としか見ていない、圧倒的な上から目線だった。
「はあ、調査、ですか……?」
「そうだ。特に、貴殿が喧伝する【ととのう】という、極めて非科学的で、曖昧な精神状態について、私は強い疑念を抱いている。これは、一種の集団催眠か、あるいは未知の毒性植物による幻覚作用ではないかとね」
リリエルの言葉に、近くで聞いていたルナがカチンときたようだ。
「なんだい、あんた! いきなり来て、うちの湯屋にケチつける気!?」
「おや、これは失敬。だが、事実を事実として分析するのが、我々学者の務めなのでね」
一触即発の空気を、俺は慌てて制した。
「まあまあ。論より証拠、ってね。リリエルさん、よかったら、あんたも一度、その身で体験してみてくれよ。もちろん、調査費用として入浴料はいただくけど」
「……よかろう。その挑戦、受けて立つ。我が知性の前で、そのまやかしを白日の下に晒してやろう」
こうして、プライドの高いエルフの学者が、未知との遭遇ならぬ、【未知との入浴】に挑むことになった。
まず、サウナ室。リリエルは懐から取り出した魔力水晶の温度計と湿度計をかざし、ぶつぶつと分析を始める。
「ふむ、室温九十度、湿度十五パーセント。典型的な乾式サウナだな。この環境下では、人体の恒常性維持機能により発汗作用が促進されるが、それが精神状態に及ぼす影響は、極めて限定的のはず……」
俺がロウリュで蒸気を発生させると、彼は一瞬目を見開いた。
「! 瞬間的な湿度の上昇による体感温度の操作か。なるほど、効率的ではあるが、これもまた物理法則の範疇だ」
次に水風呂。彼は水温を測ると、呆れたようにため息をついた。
「水温十六度。サウナとの温度差は七十度以上。急激な血管収縮による心臓への負荷……いわゆるヒートショックのリスクを全く考慮していないとは。人間の設計は、実に愚かで野蛮ですね」
文句を言いながらも、彼は「これもデータ収集のため」と、静かに水風呂へその身を沈めた。
そして、クライマックスは、外気浴で訪れた。
【ととのい椅子】に深く腰掛け、彼は再び分析を始めようとした。だが……。
「(……心拍数は安定。血圧も正常値へ。だが……なんだ? 聴覚が、異常に鋭敏になっている。風の音、木の葉の擦れる音、遠くの鳥の声……その全てが、脳に直接流れ込んでくるようだ。視界も、妙にクリアだ。これは……脳内で、何らかの神経伝達物質が、異常分泌しているのか……!?)」
彼の理性が、未知の感覚に悲鳴を上げる。
思考が止まる。計算が、分析が、意味をなさなくなる。ただ、心地よい浮遊感と、世界と一体になるかのような、圧倒的な多幸感だけが、彼を満たしていく。
「(ば、馬鹿な……! 私の長年の研究、数式、論理……その全てが、この説明のつかない現象の前では無力だと!? なんだ、この感覚は……! これは……これは、研究対象として……最高ではないか!!)」
数分後。目をカッと見開き、学者としての探求心に完全に火がついたリリエルが、俺の元へ駆け寄ってきた。
「タカミチ男爵! いや、タカミチ師! 私は間違っていた! この【ととのう】という現象は、現代魔法学でも解明されていない、奇跡の心身作用だ! 素晴らしい! 私は、この現象を我がライフワークとして研究することを、今ここで誓う!」
その日以来、リリエルは湯屋の常連となった。彼はサウナ室の隅に【ととのい観測所】なるものを勝手に設置し、耐熱性のインクで、訪れる客たちの【ととのいデータ】を延々と羊皮紙に書き綴っている。
そして翌日、彼は一枚の設計図を手に、俺にこう進言してきた。
「タカミチ師。私の計算によれば、ロウリュの際、柄杓の角度をあと三度傾け、北東の方角から注水することで、熱蒸気の対流効率は7.4パーセント向上するはずです。これにより、より深く、安定した【ととのい】が期待できます」
半信半疑で試してみると、確かに熱の広がり方が以前より格段に良くなっていた。
……こうして俺の湯屋には、ちょっと面倒くさいが、とんでもなく有能な理論派アドバイザーが、新たに加わることになったのだった。
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