第17話 氷の女傑、湯に溶ける
王都の騎士団訓練場に、鋼の音が響き渡る。
その中心で、一際鋭い剣閃を放つ人影があった。引き結んだ唇、一切の感情を映さない氷のような瞳。王都騎士団を率いる団長にして、【氷の女傑】の異名を持つ女性騎士、ブリギッテ。彼女の周りだけ、空気が常に張り詰めている。
「たるんでいるぞ! その程度の太刀筋で、国の守護が務まると思うな!」
ブリギッテの叱責に、若い騎士たちがびくりと体を震わせる。最近、彼女の機嫌は急降下していた。原因は、あの村にできた【癒しの湯屋】だ。王女レティシア様が足繁く通うだけでなく、一部の騎士たちまでもが休日にその湯屋を訪れ、「ととのいました!」などと意味不明な報告をしてくる。
「団長! あの湯屋のサウナは、精神統一の訓練になります!」
「左様! 水風呂は、極寒の地での任務の予行演習にもなりますぞ!」
特に、元ヤンキーから騎士見習いになったギンジなどは、事あるごとにサウナの効能を説いてくる始末。ブリギッテにとって、それは兵の士気と規律を蝕む、ただの【毒】にしか思えなかった。
その日の夕方、王城の一室で、ついに彼女はレティシア王女に直訴した。
「姫様、どうかお考え直しください! あの【湯屋】なる施設は、兵の緊張感を奪い、心身を堕落させるものです。国家の屋台骨を揺るがしかねません!」
「ブリギッテ。あなたの忠誠心は、誰よりも理解しています。ですが、一度も体験せずに批判するのは、あなたの信奉する騎士道に反するのではなくて?」
王女の穏やかだが、有無を言わさぬ一言に、ブリギッテは言葉に詰まる。
「……承知、いたしました。ならば、我が目で直接確かめましょう。あの湯屋が、真に価値あるものか、それともただの遊び場か」
数日後。ブリギッテは部下を引き連れ、王都から数日がかりで村へと到着した。その一行は、まるで敵地への査察のように、物々しい雰囲気をまとっている。その威圧感に、常連のレオやヴォルでさえ、思わず動きを止めた。
「私が王都騎士団長、ブリギッテだ。タカミチ男爵に、話がある」
彼女の前に立った俺は、臆することなく、いつものようににこやかに言った。
「ようこそ、【癒しの湯屋】へ。騎士団長殿も、長旅でお疲れのようですね」
「……口の減らない男だ。今日は、貴殿の言う【ととのい】とやらを、見極めに来た。案内しろ」
こうして、氷の女傑による、プライドを賭けたサウナ体験が始まった。
女湯を一時的に貸し切り、ブリギッテは慣れない湯浴み着に着替える。その様子を、レティシアは楽しそうに、そしてエンネ様は「人間の女傑とやらの実力、見物させてもらうわ」と、高みの見物を決め込んでいた。
「ふん、こんな熱気、灼熱の砂漠での行軍に比べれば、児戯に等しい!」
サウナ室に入るなり、ブリギッテは強がってみせる。だが、俺が柄杓でアロマ水をサウナストーンにかけた瞬間、空気が一変した。
ジュワアアアアッ!
「!?」
プロの技術で生み出された灼熱の蒸気【ロウリュ】が、彼女の肌を容赦なく襲う。俺はさらに、タオルで熱波を的確に送った。
「(なっ……! この熱波の制御……寸分の狂いもない。この男、ただ者ではない……!?)」
鋼の精神力で耐え抜いたブリギッテだったが、その額には大量の汗が浮かんでいた。
「次はこちらです、団長殿」
俺が指し示したのは、キンキンに冷えた水風呂。
「騎士の誇りにかけ、これしきの冷水に声など上げぬ!」
宣言通り、彼女は歯を食いしばり、一気にその身を水に沈めた。だが、その瞳は驚愕に見開かれていた。
「(これは……ただの冷水ではない。身体の全機能が、強制的に覚醒させられるような……この感覚は、一体……!)」
そして、クライマックスは訪れる。
水風呂から上がった彼女を、俺は外気浴スペースの【ととのい椅子】へと導いた。普段は決して外すことのない心の鎧まで、すべてを脱ぎ捨てたかのように無防備な状態で、彼女は深く椅子に腰掛け、空を仰いだ。
風の音、鳥の声、遠くに聞こえる村の喧騒。心臓の鼓動だけが、やけに大きく響く。
その静寂の中、彼女が今まで心の奥底に封じ込めてきた記憶が、次々と溢れ出してきた。
(厳しい訓練の日々……守れなかった、あの若い部下の顔……戦場で、初めて感じた恐怖……そして、【氷の女傑】として、孤独に戦い続けてきた、永い時間……)
ぽつり。
彼女の頬を、一筋の雫が伝った。
「……これは、汗か?」
だが、それは止まらなかった。次から次へと、温かい雫が溢れ出してくる。自分が泣いている。その事実に、ブリギッテ自身が、誰よりも驚いていた。
「(私が……泣いている……? この、私が……?)」
何年も、何十年も張り続けてきた心の氷が、湯けむりの中で静かに、そして完全に溶けていく。彼女が忘れていた、ただの弱い一人の女性としての感情が、そこにはあった。
しばらくして。
すっかり穏やかな表情になったブリギッテは、俺の前に立った。
「……認めよう、タカミチ男爵。貴殿の言う【ととのい】……確かに、我が騎士団に必要なものかもしれん」
それは、完全な敗北宣言だった。そして彼女は、まだどこか夢見心地のような頭で、しかしはっきりとした口調で護衛の騎士に命じた。
「今夜は村の宿に世話になる。王都への帰還は、明朝とする」
「はっ! しかし、団長……」
「……長旅と、今日の……【査察】で、私も少し疲れている。報告は、万全を期して行いたい。以上だ」
部下はそれ以上何も言えず、深々と頭を下げた。
その日の深夜。
村に用意された宿舎をそっと抜け出したブリギッテは、月明かりだけを頼りに、一人、湯屋の前に立っていた。閉まったはずののれんの隙間から、まだ明かりが漏れている。
「……いるか」
彼女がぽつりと呟くと、中から俺が顔を出した。
「……礼を言う。少しだけ、楽になった」
そう言った彼女の横顔は、【氷の女傑】ではなく、ただの一人の美しい女性のものだった。
俺たちの湯屋は、また一人、複雑な心を抱える魂を【ととのわせた】のだった。
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