第四章 ◆十一頁◆
「あたしは情けないよ」
もう一度呟いて、静かに冷に抱き着いた。いきなりの出来事にも関わらず、冷はいたって冷静に美恵留を受け入れた。
「緋鳥に挑んだくせに勝てなかった。むしろ、軽いとはいっても負傷しているから負けかもしれないねぇ。本当に情けないよ」
「美恵留、それは本当のことを言っているのか?」
「ああ、本当に情けないと思っているよ」
「それじゃない」
冷は一旦美恵留を離し、顔を見つめながら言う。
「本当に軽い怪我なのか?」
「そっちか。こんなのは軽いもんだよ」
ひらひらとさせながら答える美恵留の手を冷は掴んだ。そして、負傷した部位に僅かに力を込めると、声を出しはしないものの確かに表情を歪ませた。
「痛いんだろう?どうして我慢する?なんで誤魔化す?僕には正直者でいろと言ったのに、自分は嘘吐きになるのか?この程度の嘘で僕を騙すなんてふざけるな。痛いなら痛いと言えば良いじゃないか。別に美恵留が一人で背負う必要も責任も無いんだ。もし、美恵留がそんな考えをしているなら、思い上がりも甚だしいよ」
冷は若干の怒気を込めた口調で美恵留に言い放った。それを聞く美恵留は俯くだけで何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。幼なじみと言えど、後輩である冷からの叱咤に何も感じないわけが無い。
すると冷は、黙ったままの美恵留を抱きしめた。そして、優しく語りかけるように話し始めた。
「ペアである僕が足手まといだと言うのなら、僕のことは気にしなくて良い。他の先輩たちを守りたいと思っているのなら、先ずは自分を守れば良い。僕だって自分の身ぐらいは守れる。先輩たちだって同じだ。狂った殺人鬼を相手に鬼ごっこをしているわけでは無いんだ。そりゃあ、緋鳥先生は速いし強いけれど、逃げられないわけじゃないんだ。黒服の二人にも同じことが言える。これはただの体育祭だろう?美恵留が一人で戦う必要は無いんだ」
「冷がこんなにも生意気なことを言うとはねぇ。あたしはびっくりしちゃったよ。でも、なんだか嬉しいねぇ」
「こんなに言われて嬉しいなんて美恵留はマゾなのか?」
「それはあんただろう?」
言いながら美恵留はぐっと腕に力を込めた。抱きしめるというより、抱き絞めるといった感じに冷の身体が曲がっている。
「ああ!やるならもっと強く!もっとぎゅっと!折れるぐらいに力を込めて!やっぱり、それはやりすぎ!」
「ほらほらほらほら、これで良いのかい?」
見ていて痛々しい光景なのだが本人たちは楽しそうにしている。美恵留がかなり無防備な格好で抱きしめているというのに、そういう気持ちに発展しない辺りが幼なじみ故なのか。
一段落すると、冷は美恵留にひざ枕をしてもらっていた。優しく撫でるように冷の頭に手を添えながら美恵留は口を開いた。
「あたしは別に一人で抱え込もうとは思っていなかったのさ。でも、どうしてかわからないけれど、たまに思うんだよねぇ。あたしはあの中じゃ独りなんじゃないか、ってねぇ。そんなことはないんだろうけれど、思っちゃうんだよねぇ」
「美恵留も少なからず集団恐怖症があるんじゃないか?いや、別のものかもしれないけれどさ。一度、緋鳥先生にカウンセリングを頼んだらどうかな?」
「あっはは、緋鳥のカウンセリングを受けるなんてあたしには無理だよ。我慢できないからねぇ。だいたい、あたしがそんなことを思う理由はわかっているのさ」
「へえ、なんなのさ?」
「カップル二組の中にいて孤独感を味わうのは必然だとは思わないかい?」
「そういうことか。それなら、僕たちも付き合おうか?」
美恵留の膝に頭を乗せながら、冷はしっかりと瞳を見つめながら言った。それに対し美恵留は、撫でている右手を一度離し、人差し指と中指を立てて、まっすぐ自分を見つめる冷の瞳に押し当てた。俗にいうところの目潰しだ。
「痛えええぇぇぇ!な、何するんだよ!」
「あんたが妙なことを言うからだよ。大丈夫、加減はしておいた」
しかし、真似はしないように。
「危ないからやめろよな……」
「あんたも妙なことを言うのはやめなよ。そういうのは本気で言わないといけないんだからねぇ」
「痛いなあ……まったく」
目を押さえながら呟く冷の頭を、美恵留はまた優しく撫で始めた。冷もそれ以上は何も言わなかった。
「遊び感覚」
頭を撫でていた美恵留が、何の前触れも無しにふと呟いた。それに対して冷が「え?何が?」と、当然の切り返しをすると、美恵留は続きを喋り出した。
「いやねぇ、今回の体育祭の主旨を考えていたんだけれど、なんだかぱっとしないものばかりだったんだよ。だけど、《遊び感覚の体育祭》と考えれば違和感が無いんだよねぇ。お嬢様ちゃんが考えたにしては無茶が無いだろう?でも、遊び感覚の体育祭として考えて、何か目的があるのならお嬢様ちゃんらしいのさ」
「目的って、例えば?」
「例えば……賞品が親子旅行券だったり、そういうものじゃないかねぇ。黒服二人が鬼として参加している理由は、あの二人が鬼の中でトップなら賞品はお嬢様ちゃんのものだ。それならば、お嬢様ちゃんも誘う口実が出来てオーナーを気軽に誘えるだろう?」
「なるほど、天上院先輩も寂しいんだな」
「も、ってあんたも寂しいってことかい?」
「違うよ。既にいない親に対して寂しいなんて僕は思わないから。僕じゃなくて依奈先輩だよ」
「綾杉ちゃんか。でも、柊がいるから」
寂しくないじゃないか、そう続けようとする美恵留を遮って、冷は口を開く。
「親がいなくて会えないなら思うことは少なくなるかもしれない。けれど、親がいるのに会えないのは、どうしたって思ってしまうんじゃないのかな?」
「冷は他人の考えを見通したようなこと言うねぇ。それなら、自分のことも客観的に見ることをお勧めするよ。あんたはどうも自分自身のことには疎いというか、弱いんだよねぇ」
美恵留はぺちぺちと冷の額を叩きながら言うと、冷はやれやれといった風に溜息を吐いた。冷は起き上がり、欠伸をしながら伸びをして、また寝転がった。今度はひざ枕ではなく、普通の枕に頭を乗せた。
「なんだいなんだい?あたしのひざ枕がお気に召さなかったのかい?」
言われた冷はぷいと顔を背けてしまったので、美恵留は「やれやれだねぇ」と呟きまるで添い寝をするように横になった。