下界人(6)
いつもなら物静かな女子寮の廊下も、今日この時間は一頻りに騒がしく感じます。
でもそれは必然なことで、誰しもが今は胸中穏やかではないでしょう。
斯く言う私も流石に今日は肩に力が入ってしまっているので、あまり他人のことは言えません。
「ドレス、おかしなところはないでしょうか。」
全身鏡で正面や、横、振り返って背面を確認し、問題ないことにホッと胸を撫で下ろしては静まり返る部屋を見渡しました。
「クリスちゃん……。」
本当なら誰かに――クリスちゃんに確認してもらいたかった。
けれど、クリスちゃんとの溝は深まっていくばかりで、最近では廊下ですれ違っても目を逸らされてしまい、唯一同じ部屋にいる就寝時が寧ろ息苦しいと感じてしまうくらいに気まずくなってしまいました。
「落ち込んでいる場合ではありません!今日はやらなければならないことがあるんです!」
廊下から聞こえてくるハンドベルの音と共に気持ちを切り替えて、私は学院社交会の会場へと向かいました。
一目では全てを把握しきれない程広いホール――そこには、七学年から十一学年までの全学生と教職員、それに加えて学院外からの来賓、計七百人余りが一堂に会していました。
ホールの方々には、アンティーク調の丸机に真っ白なシルクの布が被せられ、その上には一流のシェフによって作られた料理や選び抜かれたワイン等が豊富に賄われています。
その酒池肉林を囲んでは、学生と教職員及び来賓が各々歓談に興じる――。
これが学院社交会です。
しかし、それはあくまでも表向きのことで、実際は学生側はこれまで身に付けてきた礼儀作法や立ち居振る舞いを見せることで〝自分こそが最優秀である〟とアピールする場であり、教職員は来賓からの意見も聞きつつそれらを評価するのがこの社交会の本当の目的なのです。
それは暗黙の了解として学生達も理解しており、皆進んで交遊に勤しんでいました。
「ご歓談をお楽しみの中、失礼いたします。」
タキシードを着た男性のホール中央から響き渡るマイク越しの声に、それまでの語り音が一瞬にして静まり返りました。
「そろそろメインイベントに移りたく思います。毎年恒例でありますから、皆様もうお分かりかと存じます。今から十分後に開始いたしたく思いますので、それまでに各々自分に相応しいと思うパートナーをお選び下さい。」
タキシードの男性が最後に一礼すると、再びホールは騒々しさを取り戻しました。
毎年恒例の社交ダンス――。
これが学院社交会のメインイベントであり、最大のアピールポイントでもあります。
そして、私にとってはここからが本番なのです。
「まずは何とか見つけ出さないといけません。」
私は周りを一望しました。
ここまで歓談中にホールの至る所に目を配りましたが、《あの人》の姿を見つけることは叶いませんでした。
「ここで見つけられないと、話すタイミングが無くなってしまいます。」
声を掛けられるのを無視してでも探し続けましたが見つからず、ほとほと困り果てたその時でした。
「ユナウさん。」
ふと掛けられた聞き覚えのある声に振り返ってみると、そこには左手を差し出すガイラさんの姿がありました。
「見つかって本当に良かった。」
「ガイラさん!良かったです。私も探していて!あの、お話ししたいことが――」
本題に入ろうとした直後、ワルツの音楽が流れ始め、皆さん一斉に踊り始めました。
「取りあえず踊りましょう。このままでは不自然に浮いてしまいますから。」
「あ、はい!」
差し出された手に重ねるよう手を添えると、ガイラさんのリードで私達も踊り始めます。
「あの、ガイラさん。」
「しっ。今は見られています。少々お待ちを。」
踊りながら話しかけようとしたところで、ガイラさんはそれを制止しました。
踊りに集中していないからそう感じるのかと思っていましたが、確かにあらゆる方向から多数の視線を感じます。
良く考えずとも、次期最優秀筆頭と呼ばれる私達が注目の的になるのは必然でした。
やや強引にも大きなステップを多めに取り入れるガイラさんのリードも相まってホールの端まで移動すると、先程よりは視線が少なくなったように感じました。
「どうかそのままで聞いて下さい。」
ガイラさんは自然な足形で私を近くまで引き寄せると、耳打ちするようにそう言いました。
「ここ数カ月ご連絡できず申し訳ありませんでした。お手紙の内容は全て読ませていただいているのでご事情は把握しています。洞穴の青年のことも。」
小声で話し続けるガイラさんのその言葉に、私は無視されていたわけではないのだと、まずは安心しました。
「その上で、お伝えしなければならないことがいくつかあります。」
そう言うと、それまでダンス仕様に取り繕っていたガイラさんの柔らかな表情は一瞬にして強張りました。
「まず、私がここ数カ月ご連絡を取ることが出来なかった理由は、行動を監視されていた為です。」
「えっ!?それはどういう――?」
驚きの余りに崩れてしまった足形をガイラさんにカバーしてもらいながら、私は頭を整理しようと踊りつつガイラさんの言うことに耳を傾けました。
「誰に監視されているかまでは分かりません。ですが、確実に監視されているという証拠を見つけました。いえ、見つけさせられました。」
「というと?」
「私は公爵家の跡継ぎということもあって、寮の部屋は特別に相部屋ではなく個室を貰っています。鍵は私以外には守衛が予備を持っているだけなので、他の学生が入ることは不可能です。ですが、私のいない間に何者かに侵入された形跡がありました。」
「部屋を荒らされていた?」
「いえ、部屋は綺麗なままでした。盗まれたものもありません。ただ、一通の手紙が机上に置いてありました。そこには一言『これ以上【最優秀淑女】と関わるな』と。」
その言葉を聞いた瞬間、私はその最優秀淑女が自分のことであると確信しました。
まだ正式に決まっていないとはいえ、学院にいる間は外部の人間と関わる方法は文通しかありません。
しかし、ガイラさんは学院外にいる歴代の最優秀淑女の方々とはおそらく文通していません。でなければ、私と会うことを拒む理由がないからです。
「ユナウさんも今後の言動にお気をつけ下さい。特に手紙にあった下界の青年と会う時は細心の注意を払った方がいいかと。貴女も恐らく監視されています。」
「はい。」
ガイラさんの声のトーンからは、その真剣さと心配に思ってくれていることがよく分かりました。
もし彼と――ファラと会っていることがバレたら、いいえ、そうでなくとも禁足の森に入るのを見られてしまえば、私は直ぐにでも消されてしまうでしょう。
あの日見た主教様の邪に満ちた横顔が鮮明に甦りました。
「それからもう一点、あの像についての文献のことで思い出したことがあります。」
こちらの様子を鑑みてか、嫌な記憶を上書きするようにガイラさんはターンと共に話題を転換させました。
「あの像……大庭園のレクロリクス像ですか?」
「そうです。以前に、学院に入学するよりも前に父の書斎であの像について書かれた文献を見た覚えがある、とお話ししたと思います。」
「文献の内容を思い出されたんですか?」
そこで曲がタンゴに切り替わり、ガイラさんは表現の一つと言わんばかりに力強く首を振りました。
「文献の内容については流石に昔のこと過ぎて思い出せませんでした。ただ……。」
「ただ?」
ガイラさんの目は迷っているようでした。
実際、言うか言わないか、口にするその瞬間まで悩んでいたのだと思います。
ガイラさんの口元は僅かながら震えていました。
「その文献には、王歴について書かれた箇所があったことを思い出したんです。そしてその中に、【下界落ち】の単語もあったんです。思い返してみれば、そもそも私が下界落ちという単語を初めて知ったのがその文献でした。」
「王歴の内容に下界落ちが?それはつまり、下界落ちの歴史が書かれていたってことですか?」
「おそらく。そして、事は私達が考えていたよりもずっと深刻かもしれません。」
ガイラさんの含みのある言い方に、私はただ疑問符を浮かべることしかできませんでした。
ただそれでもガイラさんの表情から、次にガイラさんが紡ごうとしている言葉は覚悟して聞かなければならない、とそれだけは理解できました。
「下界落ちは、王家が誕生した時から存在していた。そしてそれは、王家が自分達の存続のためだけに千年近く行ってきた悪しき風習である可能性があります。」
ガイラさんのその記憶は、私の中で点と点でしかなかったものを線で繋げました。
下界落ちを初めて目の当たりにしたあの日、なぜ王妃殿下があの場に居られたのか――。
そのことが、ガイラさんの記憶からの推測が限りなく事実に近いのだろうということを示していました。
ガイラさんは三度ダンスの振りで顔を横に振ると、目線を上階に上げ一心にそこを見つめました。
ガイラさんの視線の先――そこには二つの豪華な椅子が横並びに、そしてそこに座る二人の人物。
国王陛下と王妃殿下。
仮にこのお二方が主犯なら、いくら王家の人間であっても私は許すことが出来ません。
「ユナウさん。重ねて申し上げますが、お気をつけ下さい。王妃殿下には特に。あの方は貴女がドウケツの洞穴にいたことを知っている。にもかかわらず貴女を消さないのは、きっと貴女に何かしらの利用価値があるからだと思います。」
ガイラさんの忠告は尤もです。
私もそう思いましたが、でも引っ掛かる事もまたありました。
クリスちゃんと木陰に隠れて見ていた時、あの時の王妃殿下のあの表情――。
あれは少なくとも自身の保身の為に下界落ちを主導していたようには見えませんでした。
むしろ主導していたのは主教様の方だったように思います。
もしかしたら王妃殿下は下界落ちには否定的なのではないでしょうか。
ガイラさんの記憶と推測が正しいとすれば、風習だから仕方なく行ってはいるものの無くしたいと思っている。
もしそうだとしたら、あの時王妃殿下が私達を見逃してくれたことの辻褄も合います。
確かめたい。ダンスが終われば再び歓談の時間が取られます。
そこで王妃殿下とお話しできれば――。
「いけません。」
視線や表情で私の考えていることを察したのか、ガイラさんは剣呑な面持ちで言いました。
「それはあまりにリスクが高すぎます。下界落ちでなくとも、王家に無礼を働いた、と罪人として祀り上げられる事も考えられます。」
「承知しています。ですが、今夜を逃せば王妃殿下にお会いできる機会はもう卒業式までないんです。」
「ですが……。」
「大丈夫です。ガイラさんにご迷惑はかけません。」
「いえ、そういう問題では――。」
そこで曲が止まり、ダンスの時間は終わりを迎えました。
「皆様、素晴らしい踊りで御座いました。ここで恐縮ながら、国王陛下にお言葉をいただきたく思います。」
先程のタキシードの男性がそう話すと、二階から見下ろしていた国王陛下に側近らしき人が耳打ちしているのが見えました。
おもむろに立ち上がる国王陛下。
昨年は学院社交会にはご欠席されていたので、そのお姿を拝見するのは二年ぶりです。
国王陛下はホール全体を一周なさると、大層な白髭に覆われた重々しい口を薄っすらとお開きになりました。
「先のダンス、皆の分限、ここから見ても誠に大儀であった。」
その声は記憶のものよりもずっと低く重厚感があり、聞く者全ての身を引き締めるかのような圧迫感がありました。
「次の時代を築く若人達よ、《運命の日》は近い。それまで日々精進を重ね、励むが良い。卒業式の日、この国は大きく変わる。その時に再び相見えるのを楽しみにしておる。」
そう告げると、国王陛下は御下がりになりました。
運命の日――国王陛下がそう仰ったのは、卒業式の日がこの国の建国記念日であり、同時に今年は新王歴五〇〇年の節目だから。
この場にいた誰もがそう思い、何も違和感を覚えていない様子でした。
私もそう思います。
ですが、何故でしょうか。何やらもの凄く不吉な予感を感じてなりません。
運命の日――卒業式の日に、何かとんでもないことが起こるのではないかと不安で堪りません。
「ユナウさん。」
深刻そうに胸に手を当てて俯く私に、ガイラさんは落ち着いたトーンで呼びかけてくれました。
「正直、私は反対です。」
「ガイラさん……。」
「ですが、引けないという貴女の気持ちも理解できます。そこで、一つ考えがあります。」
ガイラさんはそう言って耳打ちすると、私はその作戦にのりました。
私はガイラさんの後ろをついていく形で、先程まで司会進行をしていたタキシードの男性の元を訪れました。
「オルコットさん、少し宜しいでしょうか。」
ガイラさんが挨拶と共に会釈をすると、タキシードの男性は嬉しそうに歩み寄ってはガイラさんの両手を力強く握りしめました。
「これはこれは、ガイラお坊ちゃん。お元気そうで何よりで御座います。」
「そちらも変わらぬご様子で。」
「ええ、ええ。変わりませんとも。少なくとも坊ちゃんが爵位を継がれるまでは現役でいるつもりですぞ。」
そう親しく話すお二人の姿は、以前からの知人であることを認めさせるには十分でした。
「あ、あの……お二人はどういうご関係なのでしょうか?」
私は蚊帳の外にならぬよう、緊張を押し殺して二人の間に割って入りました。
「ああ、すみません。こちらはマルシア・クウェンティ=オルコット氏です。昔、私の家の執事長をして下さっていた方です。」
「お初にお目にかかります、ミス・アルバートン。お噂は兼ね兼ね伺っております。」
深々とお辞儀をするオルコットさんに、私も遅れて頭を下げました。
まさかこの人がガイラさんの家の執事長をされていたなんて――。
通りで貫禄があるわけです。
公爵家の執事長ともなれば、一流の紳士と認められなければなれない職業です。
おそらくはこの方も元最優秀紳士。
そのことを気づかせないほど自然体でありながらも、気品に溢れる方なのが話していてよく分かります。
「私を置いて談笑とは随分と寂しいではないか、オルコットよ。」
ふと頭を上げて声のした方を見ると、そこには見覚えのあるお方がいらっしゃいました。
「ご、ご主人様、滅相も御座いません。大変失礼いたしました。」
「冗談だ。ハハ。」
表情に出さないまでも焦った様子で弁解するオルコットさんに、そのお方は豪快にも笑って楽しまれているご様子でした。
「ザイデルフォン卿、貴殿もご出席されていたとは。ご挨拶が遅れてしまい申し訳御座いません。」
その紳士と呼ぶにはあまりに屈強な体つきは否応なく目につきそうなものですが、それ以上に公爵としての溢れ出す気品や風格が、その体躯や豪快ともとれる振る舞いを寧ろ栄えさせる程に堂々としていらっしゃる。
これも紳士としての一つの在り方なのだと誰もが納得させられることでしょう。
そうです。今ガイラさんが頭を垂れた相手こそ、ガイラさんと同じ四大公爵家の一つ、ザイデルフォン家の現頭首――アベルタス・ロック=ザイデルフォン公爵その人です。
「そう畏まるな、リべルドの小僧よ。それにしても、少し見ない間に随分と大きくなったものだな。」
「お陰様で、あと三カ月もすれば晴れて成人いたします。」
「そうだな。その際にはリべルドの奴と共に我が屋敷に来るといい。馳走を用意して歓迎しよう。私の娘も来年には学院に入学するのでな、色々教えてやって欲しい。」
「ありがとう御座います。ところで、貴殿がいらしているということは、父上や他の公爵の方々もこちらに?」
「いいや。リべルドは誘ったのだが、卒業式の日までは息子の顔は見ないと意地を張ってな。連れては来れなかったよ。レイモンドとファンギスはまあ、毎年の通りだ。」
ザイデルフォン公爵の言葉にガイラさんは少し寂しそうで、しかし何処かホッとしているようにも見えました。
そんなガイラさんの袖を、私は無意識に引っ張るように握っていました。
「……と、そうでした!ザイデルフォン卿、貴殿にお願いしたい事が御座います。」
そこでふと思い出したようにガイラさんは話の腰を折りました。
「本当はオルコット氏にお願いしようと思っていたのですが、貴殿がいらっしゃるなら都合がいい。」
「ん?何だ、藪から棒に。」
ガイラさんが、もう後には引けない、と確認を取るように目を合わせたので、私はそれに頷きで返しました。
「私とこちらのミス・アルバートン――同じ次期最優秀同士、せっかくの機会ですので国王陛下と王妃殿下に謁見したいのですが、取り持ってはいただけませんでしょうか。」
あくまで本当にご挨拶として謁見したいだけ。他意はない。
そう悟られぬよう細心の注意を払いつつも、至って自然な流れでガイラさんは話しました。
「ほう。」
ザイデルフォン公爵は右手を顎に乗せて少し考える様子を見せると、口元を緩めて微笑んでから頷きました。
「良かろう、すぐに手配させる。オルコット。」
「畏まりました。」
ザイデルフォン公爵の指示でオルコットさんはホールの奥へと姿を消していきました。
すると、ものの五分もしないうちに戻ってきては側近の方の元へと案内してくれました。
「まったく、食えないお方だ。」
側近の方の後ろについて階段を上がっている途中、ガイラさんは大きな溜息をつきました。
「と、言いますと?」
「ザイデルフォン卿はおそらく気づかれています。」
「えっ!?」
「あのお方はユナウさんが想像されている以上に頭のキレるお方です。具体的にどうこうというのは流石にバレていないとは思いますが、私達に裏の意図がある事は察しているご様子でした。」
唐突ではありましたが、流れとしては不自然というほどではなかったように思います。それでも気づかれたのだとすれば、流石は現公爵様というべきでしょうか。
「でも、それならどうして協力して下さったのでしょうか?」
「ザイデルフォン卿にも何か考えがあるのかもしれません。そもそも公爵家が学院社交会に顔を出す事自体珍しいことですから。ただ、あのお方のことです。興が乗ったとか、案外そういった単純な理由の可能性もあります。」
「それは……ユニークなお方ですね。」
公爵ともあろうお方が、そんな理由で陛下との謁見を取り持って下さるなんて、いいのでしょうか。何だか負い目を感じてしまいます。
「こちらです。」
そんなことを考えている内にとうとう階段を上がりきり、視界の奥に国王陛下と王妃殿下のお姿を捉えました。
「次期最優秀のお二方ですから大丈夫かと存じますが、くれぐれも失礼の無きように。」
そう言われ、会釈と共に案内して下さった側近の方に礼を告げると、私達は国王陛下達の御前に立ちました。