6.日露戦争の結果
明治38年(1905年)12月 東京
川島たちと会った後は、佐世保に帰ってしばし艦隊勤務に励んでいた。
その間、7月末に日本がサガレン(樺太)を占領し、8月からポーツマスで講和会議が始まった。
ロシアは史実どおりの態度を示したが、日本は事前に練っていた作戦に沿って交渉。
見事、サガレンの全島割譲を勝ち取った。
その代わり賠償金は無しで、朝鮮半島における日本の優越権、ロシア軍の満州撤退、遼東半島の租借、東清鉄道の一部譲渡で講和した辺りは、史実どおりである。
当然、賠償金なしの結果に、憤慨する奴らもいた。
しかし事前に計画していたように、日本がいかに犠牲を払ったのかをアナウンスすることで、世論はだいぶ落ち着いていた。
さらにこれ以上の犠牲は陛下も望んでいない、という言葉がとどめとなり、大きな騒動が起きることはなく、事態は沈静化していったのだ。
それと並行して、日英同盟の改訂と、第2次日韓協約の締結も進められた。
日英同盟は史実どおりだったが、日韓協約は大きくその形を変えている。
俺の進言どおり、韓国とは防衛同盟を結び、朝鮮半島の防衛を共同で行うことになったのだ。
一応、ロシアから韓国を守ったという建て前で、北部の鉱山利権の一部はもらっている。
その代わり、日本は韓国への干渉を控えるということで、日韓は合意したのだ。
以後、日本は韓国とロシアの国境付近に、1個師団を駐屯させ、防衛に専念することとなる。
このような方針転換が上手くいったのは、山縣さんの協力が大きい。
本来は軍事拡張を目指す軍閥政治の首魁が、大陸進出に慎重論を唱えたのだ。
さらに元々、慎重派だった伊藤博文と協力し、強硬派を抑えることができた。
その影響は、満州鉄道の経営体制にも及んでいる。
予想していたとおり、アメリカ人のエドワード・ハリマンが、満鉄の共同経営を持ちかけてきた。
史実では桂首相と仮合意の覚え書きを交わすも、ポーツマスから帰国した小村外相にひっくり返されてしまう。
おかげで史実の日本は満州に金を注ぎこみ、アメリカからは事あるごとに文句を付けられるようになっていた。
それを避けるため、松方さんと山縣さんが、事前に根回しをしてくれたのだ。
おかげで桂首相は余裕を持って交渉に当たれたし、小村外相も反対はしなくなった。
その結果、日本はアメリカと清帝国を巻きこんで、南満州鉄道を設立。
日本は線路などの現物と引き換えに50%の株を保有し、アメリカは1億円で40%を購入。
さらに清には2千万円で、10%の株式を割り当てた。
清はタダで寄越せとゴネたが、アメリカに比べて2割引だからと言って押し切っている。
史実では完全に締め出されていたのに比べれば、よほどマシな扱いだ。
実際、清は国内に向けて、利権を取り戻したと成果を誇示しているほどである。
このように他国を巻きこんだ結果、満州に置く兵力は激減した。
史実では2個師団を常駐させ、それが関東軍の暴走にもつながるのだが、この世界では旅順に1個大隊を置いているにすぎない。
これは清国との緊張緩和にもつながり、各国からも歓迎されている。
そしてそれらの交渉を経て、満州善後条約が清との間に結ばれた。
その内容はほぼ史実に沿ったものだが、前述の満鉄利権に加え、満州内の資源開発を共同で進めることも盛りこまれている。
当面は鉄道の復旧を優先するが、可能であれば、遼河油田や大慶油田を開発していきたいものだ。
ま、辛亥革命などのゴタゴタが、片づいてからになるけどな。
それから今回の交渉の中で、日本が中国に持つ租界の権利をアメリカに売りたいと、清に相談してみた。
これは上海、天津、漢口、蘇州、杭州、重慶、沙市、福州、厦門の9つで、アメリカは上海と天津にしか持っていない。
当然、清側は租界の売買は認めないと主張したが、こちらも粘り強く交渉した。
なにしろ、日露戦争のおかげで金がない。
”なんだったら、清が買ってくれるか?”と持ちかけたら、渋々ながら一部を了解する。
最終的に蘇州、杭州、福州、厦門の沿岸都市の権利をアメリカに売り、天津、漢口、重慶、沙市は清に返還することで話がついた。
この租界売却に、アメリカは待ってましたとばかりに飛びついた。
今後もバリバリと、大陸利権に食いこむつもりなんだろうな。
どうせ前世みたいに、現地人と揉めるとは思うんだけどね。
一方、日本国内でも、”大陸の利権を売り払うとは何事だ!”って騒ぐやつはいた。
しかし多数の租界は、必ずしも有効活用できていたわけではないのだ。
それぐらいだったら上海に一本化して、少しでも金を得たほうがよいという論法で封じこめた。
ただしこの手の不満は、景気が悪いと次から次へと湧いてくるから、早急に国内を豊かにしたいものである。
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そんな経緯を経て、俺と後島は今、久しぶりに東郷大将と伏見宮殿下に会っていた。
「お久しぶりです、東郷提督、伏見宮少佐」
「お久しぶりです」
「ああ、久しぶりだな。2人とも立派な士官ぶりだ」
「ありがとうございます。まあ、自動昇進ですけどね」
「フハハ、ちゃんと日本海海戦を生き残ったのだ。誇っていいだろう」
実は俺たち、海軍兵学校を卒業して1年経ったので、少尉に任官していたのだ。
これで俺たちも正式な、海軍士官である。
その後、軽く乾杯をして食事をしながら、話が進む。
「それで、今日は海軍の改革についてだったな」
「はい、ロシアとの戦争が片づいた今、早急に取り組むべきと考えます」
「うむ、以前から言っていたことだな。今日は具体的な話を聞こうじゃないか」
「ありがとうございます。ところで提督は、今回の海戦における問題点は、なんだと思われますか?」
「むう? 細かいことを言えばキリがないが、圧倒的な勝利を上げたのだ。さほどの問題はなかったと思うがな」
東郷提督が正直にそう言うと、殿下も異論はなさそうだ。
「はい、特に5月末の海戦はお見事なものでした。しかしそれは結果論であり、問題はいくつか残っています。まずひとつに、ウラジオ艦隊の跳梁を許したために、多くの船が拿捕・沈没させられたことがあります」
「むう……たしかにそれは事実だが、上村たちも精一杯努力した結果だ。それは責められんだろう」
「いえ、私も上村中将を責めたいわけではないのです。しかし現状の艦隊決戦主義を改めて、通商路を守るという概念を導入しないと、今後の戦争は戦えません」
「通商路を守る? そんなことは、海軍の仕事ではなかろう?」
「閣下、そこなのです。その考え方に、最大の問題があるのです」
「なんだと?!」
俺の率直な言葉に、東郷さんが怒気を見せる。
その迫力は相当なものだが、こちらも前世を合わせて100年以上を生きたのだ。
その圧力を平気ではね返して、言葉を重ねる。
「落ち着いてください。閣下も第1次大戦の通商破壊戦については、知識があるでしょう。ドイツが仕掛けた無制限潜水艦作戦は、イギリスを破滅寸前まで、追い詰めたのです。その後の太平洋戦争でも、アメリカの潜水艦が日本の輸送船を沈めまくりました。おかげで日本は物資不足に陥り、戦闘能力を奪われていったのです。殿下はご存知ですよね?」
「うむ……最初は舐めていたが、輸送船の被害は飛躍的に増えていったな。物資はもちろん、多くの人命も失われたのは、非常に残念だ」
伏見宮殿下がそうつぶやきながら、瞑目する。
すると東郷さんも落ち着いたのか、真剣な目を向けてきた。
「たしかにドイツの通商破壊は凄まじかったようだな。そして未来の日本も、同じ目に遭わされると? ならば我々は、どうすべきだというのだ?」
「艦隊決戦にこだわらず、無防備な商船を守るべき対象として、認めるのです。そのうえで護衛専門の部隊を創設し、護衛に向いた戦術や装備を研究します」
「むう……未来の記憶のある私でさえ、抵抗があるのだ。他の人間に理解させるのは、相当に骨だろうな」
「そうでしょうね。しかし前の海戦で大戦果を上げた閣下が言い出せば、戦訓の見直しは可能でしょう。史実の日本では、日本海海戦の大勝利に浮かれ、見直しを怠ったため、反省も改善もしない組織に成り下がったのです。そんな組織だからこそ、日本は負けたんですよ」
「「むう……」」
俺の言葉に、東郷さんも殿下も顔をしかめる。
しかし未来の記憶を持つお2人は、心当たりがあるだけに反論できなかった。
史実の日本海軍は、日本海海戦の勝利を絶対視、神聖視する状態に陥った。
しかし現実には、敵の発見は運任せな部分があったし、相手のバルチック艦隊も地球の裏側からの超長距離航海で、ボロボロに疲弊していた。
連合艦隊が勇戦したのは事実だが、かなりラッキーな状態だったのも、また事実なのだ。
しかし海軍はその勝利に、全くケチを付けられない雰囲気になってしまう。
例えば、とある士官が、”今回の海戦にも課題はあるだろうから、戦訓の見直しをしよう”、と声を上げると、その士官は数ヶ月後に海軍を追い出されていたというのだ。
その風潮はその後も残り、昭和の日本海軍はひどく無責任で、改善のできない組織になっていた。
そんな話を交えて説得を続けると、ようやく東郷さんと殿下が折れる。
「分かった。戦訓の見直しを徹底的に行い、浮かれ気分を引き締めようではないか」
「小官も及ばずながら、協力させてもらいます」
よし、ここまでは、なんとかなりそうだ。
次は軍制改革の提案だ。