26.大正期の変化
大正15年(1926年)12月25日 日本
この日、かねてから体調を崩していた大正天皇が、とうとう崩御された。
これを受けて即座に皇太子殿下が践祚し、124代天皇となる。
そして時代は昭和へと移るのだが、その前に大正期の主な変化を見ておこう。
まず政治面だが、明治の5元老は次々と鬼籍に入った。
その後を受けて元老となったのが、西園寺公望、若槻礼次郎、松方巌、高橋是清、そして原敬である。
特に松方巌は松方正義の息子として、また原敬も山縣有朋から後継者として認められ、元老入りを果たした形だ。
彼ら元老には、俺たちが天災を予言することで、未来記憶のことを理解させ、仲間に引きこんでいる。
おかげで病気がちな大正天皇の下でも、元老たちは団結し、日本を導くことができていた。
そんな体制の下で実施されたこととして、”諮問委員会”と”国策検”の設置がある。
どちらも前世でやって、危機管理に役立った。
まず諮問委員会は主に経済関係の助言をする機関で、大戦景気の腰折れを防ぐことに役立った。
そして”国策検”は、”日本国策検討会”の略で、まさに国策を議論する場である。
これは首相を筆頭に、外相、兵部相、統合幕僚長、参謀総長、軍令部長が毎月あつまり、情報を共有しながら議論する会議体だ。
その狙いは海外の情報を一元的に管理し、日本の国策を統合的に議論することにある。
なにしろ史実の日本は、これができていなかったばかりに、太平洋戦争に突っ走ってしまったのだ。
1千万人以上の死者を出した第1次大戦だって、ドイツを始めとする欧州各国の混乱によって引き起こされたと言える。
そんな悲劇を起こさないため、日本は首相の下で国策を主体的に管理しよう、という掛け声で”国策検”は始まった。
今はまだ手探りな感が否めないが、いずれ来たる第2次大戦で、効果を発揮するであろう。
それらと並行して進められたのが、国内の殖産興業と、資源の確保だった。
国内では引き続き、製鉄、造船、発電分野への投資が行われていた。
さらには自動車や電気、化学、航空機、建機の技術開発と、生産設備の増強も奨励されている。
これらの分野には、ある程度の審査さえ通れば、低利の融資が斡旋され、起業や増産がしやすくなっていた。
そして国が運営する先端技術研究所が、それらの分野の先端技術を研究開発し、国内企業に技術供与している。
これによって日本の科学技術は、たびたび革新を起こし、海外にも負けないものになりつつあった。
この先端技術研究所には、俺たちも兼任で籍をおいており、その技術革新を裏から支えていた。
それぞれの分野で弟子を育てながら、必要に応じてアドバイスを行うのだ。
前世ほど時間は掛けられないが、かつての経験もあってなんとかやれている。
技術革新といえば、八木・宇田アンテナとマグネトロンは、東北帝国大学と共同研究をしている。
これは前世でもやったように、資金を提供して、情報をコントロールするやり方だ。
特許は先端技術研究所と共願にしたし、人員も大学に派遣している。
今はまださほどの進展はないが、いずれはイギリスとも共同して、レーダーの性能を上げる予定だ。
また工業力の底上げのため、国内の工業規格も立ち上げている。
史実でも日本標準規格(JES)といって、1921年に工業品統一調査会が設置され、規格の検討が始まっていた。
そこで今世でも俺たちが規格の叩き台を作り、JESの制定を官僚に促したのだ。
おかげで第1次大戦前には規格の導入が始まり、徐々に適用範囲が広がっている。
積極的に規格を採用する企業には、国と優先的に取り引きができるとか、認証を与えられて信頼度が高まるなどの、優遇もある。
今は軍需品を中心に、規格の適用が浸透しつつあり、今後の大量生産への貢献が期待されていた。
そしてそんな技術革新と生産能力増強を支えるため、資源の確保にも取り組んだ。
北樺太のオハ油田では年々、産出量が増えているし、東北の油田も開発している。
さらに1920年代に入ってからは、満州油田の開発にも取り掛かった。
これは現代の大慶油田に相当するもので、清国の肇州直隷庁で発見された。
当然、アメリカと清を巻きこんでの開発だが、日本海を挟んだ近場で石油が出るのは、日本にとって大きい。
あいにくと肇州油田の石油は、粘度の高い重質油だが、ガソリンも取れる石油である。
アメリカの機材をガンガン輸入して、大々的に開発が進んでいる。
いずれは日本の需要の、大半を満たすほどに成長するだろう。
もっとも、購入先を限定するのはエネルギー保障上、好ましくない。
そこで蘭印や英領ビルマからも、石油の購入を増やしていた。
おかげで最近は艦艇への石炭使用が減って、原油専焼缶への切り替えが進んでいる。
その他にも正統ロシアでは石炭やすず、鉛やタングステンの採掘が始まっているし、満州からも石炭、鉄鉱石を輸入している。
さらにセレベスのニッケル、バンカ島のスズ、ビンタン島のボーキサイト、海南島の鉄鉱石などの採掘も検討していた。
それぞれ宗主国に探鉱を打診し、見込みがあれば採掘の許可を取る方針だ。
これらが軌道に乗れば、いざ戦争となっても守りやすい地域の中で、資源を確保できるようになる。
たとえコストが少々高くつこうが、長期戦にも耐える体制づくりのため、開発は進めていく予定だ。
他に進展したことといえば、北里柴三郎らをはじめとする、医療業界の活躍がある。
北里さんには1907年から付き合いがあり、つたない医療知識を伝えてきた。
しかしそんなアドバイスでも、大きな効果があったようで、彼らはペニシリンとストレプトマイシンを実用化したのだ。
おかげで第1次大戦での死者が減らせたし、結核による死亡者も減少している。
さらに結核ワクチンの導入も早まり、日本の結核被害は大きく減った形だ。
脚気の罹患者も減っているし、それなりに貢献できたと言えるだろう。
もっとも、俺たちの最大の貢献は、日本全体を豊かにしたことかもしれない。
社会が豊かになれば、それだけ衛生環境や食糧事情が改善され、寿命が伸びるのだから。
ここで1926年の、国力指標を見てみよう。
【1926年の国力】カッコ内は史実の値
実質GDP:2300億ドル(1512億ドル)
人口 :6120万人 (6049万人)
製鉄能力 :200万トン (110万トン)
発電能力 :260万kW (200万kW)
自動車保有:6万台 (4万台)
石油生産量:100万kL (30万kL)
実質GDPは1905年から3倍以上に成長し、史実を10年ほど先取りしている。
その他の指標もしっかり伸びており、日本は順風満帆と言っていいだろう。
しかしこれでも、アメリカにはまだまだ遠いのが実情だ。
今後も気を緩めずに、やっていくつもりである。




