22.長門型戦艦の誤算
大正9年(1920)6月 東京
「2人の門出を祝って、乾杯」
「「「乾杯」」」
日本へ帰ってきて1年経った頃、俺はとうとう結婚させられた。
相手は東郷さんの縁戚となるお嬢さんで、おしとやかな大正美人である。
以前から結婚を勧められていたのだが、大戦を理由に断ってきた。
しかしそれも無事に終了したため、33歳にしてあえなく年貢の納め時となったわけである。
まあ、嫁さんはかわいいし、よく気の利く人なので、まんざらでもなかったりする。
ちなみに俺は大戦中に中佐となり、順調に出世を続けていた。
もう少し艦上でキャリアを積んだら、いずれは航空機に関わることになるだろう。
前世のように技術に専念できないのはもどかしいが、軍部で確かな立場を得るのも大事だと思い、がんばっている。
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大正10年(1921)6月 海軍艦政本部
明けて21年、俺と後島は艦政本部に呼び出され、平賀さんと会っていた。
「長門型が全て、無事に完成したよ」
「おめでとうございます」
そして告げられたのは、長門型戦艦の完成である。
前世同様に4隻が完成したのだが、その内容は少し異なっていた。
【長門 主要諸元】
全長・全幅:223.4 x 30m
基準排水量:36000トン
出力: 10万馬力
最大速力: 26.5ノット
機関: ロ号艦本混焼缶x8基+同専焼缶x11基
技本式高低圧オールギヤードタービンx8基、4軸
主要兵装: 45口径41センチ3連装砲x3基
38口径12.7センチ連装高角砲x10基
その大きさは史実に比べ、長さで10メートル、幅で1メートル、排水量で2200トン大きい。
そのうえで馬力を2万馬力ほど増やし、26.5ノットを実現している。
ただし前世で14インチ(35.6センチ)3連装砲3基にした主砲が、16インチ砲相当になったのだ。
ちなみに今世では、史実同様にセンチ呼びにしている。
史実でも日本はメートル法を採用したので、センチで呼んでいた。
そして41センチ砲はほんの4ミリだが、16インチ砲弾より直径が大きい。
それはさておき、前世では米英を警戒させないため、あえて14インチ砲にしていた。
しかし今世では関係者の反対が想像以上に強く、16インチ相当に落ち着いてしまう。
以前は東郷さんが押し切ってくれたのだが、あれは相当な僥倖だったらしい。
元々、”いずれは世界最強の戦艦を造る”と言って建造を抑制していたのが、不満を助長したのだろう。
長門型は14インチ砲にしようと言ったら、猛反発されたのだ。
”世界最強の戦艦にするっていうから我慢してたのに、ひどいっ!
16インチ砲じゃなきゃ、ヤダヤダヤダヤダ!”(意訳)
なんて感じでゴネられてしまう。
なまじ俺と後島が海軍士官であるため、反発を抑えきれなかったという面もある。
マジで殺されそうな雰囲気だったのだ。
当然、16インチ砲戦艦を4隻も誕生させたのだから、米英の警戒度が大きく高まった。
この当時、戦艦の主砲といえば最大でも15インチ(38.1センチ)である。
アメリカが16インチ主砲のコロラド級を建造中とはいえ、これも21ノットの低速戦艦だ。
そこに16インチ砲9門で27ノット近い戦艦が登場すれば、警戒されないはずがない。
おかげですでに、サンフランシスコ軍縮会議の打診が来ている。
おそらくは史実のように、軍縮はしつつ米英にも16インチ艦を持たせろと、言ってくるだろう。
それはさておき、今世でもモデルとしたのは、アメリカのノースカロライナ級だ。
主砲は3連装3基でバイタルパートを小さくし、副砲は5インチ連装高角砲にして、対空性能を高めている。
いずれはレーダー、近接信管、高速計算機などを開発し、強力な対空兵器プラットフォームにする予定だ。
艦名はそれぞれ長門、陸奥、加賀、土佐とし、呉海軍工廠、横須賀海軍工廠、川崎造船所(神戸)、三菱造船所(長崎)で建造した。
おかげで民間の技術力も、しっかり高まっている。
「アーク溶接の研究は、順調なんですか?」
「まあ、ぼちぼちといったところだ。鋼材や溶接棒の開発も進んで、徐々に溶接不良も減っている」
「そうですか。ちなみに藤本少佐とは、上手くやれてるんですよね?」
「フハハ、まあまあではないかな。心配せんでも、記憶のようなことにはせんよ」
そして海軍では、アーク溶接とブロック工法を導入すべく、研究を続けていた。
アーク溶接はリベット工法に比べ、施工が速くて、重量も減らせるから、早々に実用化したい技術だ。
ただし史実では、”溶接不良”という深刻な問題があった。
そこで1911年頃から研究チームを発足し、溶接機や鋼材、溶接棒の開発を進めていた。
さらに不良を無くすべく、溶接部材や接合位置、溶接順序や溶接法などを研究して、ルール作りも進めている。
平賀さんがいるおかげで、前世よりも開発の進みは速いかもしれない。
なにしろ彼の頭には、史実で苦労した知識などが入っているのだから。
今は海軍中心にやっているが、今後は農商務省とも連携して、民間の造船メーカーにも展開予定だ。
いずれは本格的な溶接・ブロック工法によって、船の重量低減と工期短縮が進むであろう。
そして史実で藤本喜久雄と対立した平賀さんだが、今世では上手くやっているようだ。
史実の失敗を、未来記憶で客観的に見れるようになったせいか、少し大人になってるのもあるんだと思う。
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大正12年(1923)6月 海軍艦政本部
その後、ワシントン軍縮条約はやはり史実に近い形となった。
それは主力艦の保有比率を英米5に対し、日本を3以下に制限するものだ。
・主力艦:総計で30万トン以下、以後10年は戦艦の新造禁止
ただし艦齢20年以上の代替の場合は3.5万トン以下とし、主砲口径は16インチまで
・空母 :総計で8.1万トン以下、単艦で2.7万トン以下(ただし2艦までは3.3万トンを許容)
・巡洋艦:単艦で1万トン以下
・要塞化禁止:太平洋における各国本土およびごく近い島嶼以外の領土について、現状以上の要塞化を禁止
これによって日本は金剛型4隻、長門型4隻の戦艦をそのままに、香取と鹿島を残している。
さらに日露戦争でロシアから鹵獲した艦などは、正統ロシア大公国に売却し、一部は武装を取り外して、練習艦とした。
それからやはり米英は、日本の16インチ砲戦艦に危機感を覚え、それぞれ4隻ずつの16インチ砲戦艦の保有枠を要求してきた。
そうなることは十分に予想できていたので、恩を売るような形で受け入れた。
まあ、米英がどれほど恩に感じるかは、はなはだ疑問ではあるが。
これらの条約内容を、屈辱だと騒ぐ動きも一部にはあった。
しかし前世でもやったように、強硬派は排除してきたし、さらに軍教育の改革で意識改革も進みつつある。
結局、強大な国と対立しないために、外交があるのだという方向へ、世論を誘導できているので、大した問題にはならなかった。
ちなみに外交と言えば、やはり今世でもアメリカが日英同盟の解消を迫ってきた。
アメリカの危機感も分からないではないので、日英は同盟の解消に応じている。
当然、日英は改めて友好条約を締結し、通商と人材交流に力を入れていく。
いずれ縁があれば、また同盟することもあるだろう。
そんなワシントン軍縮条約が成立した後、俺たちは平賀さんと今後について話していた。
「さて、これからが正念場だな」
「そうですね。しばらくは開発を進めながら、国力を増強しましょう。そしていざという時は……」
「うむ、アメリカにも負けない艦隊を、造るのだな?」
「ええ、目指せ、世界最強です」
「そうそう、ぜひ46センチ砲戦艦を造りましょうよ」
「……いや、それはムダじゃないか?」
「え~、そんなこと言わないでくださいよぅ」
相変わらず後島は、46センチ砲にこだわっているようだ。




