16.公害対策をしよう
明治43年(1910年)1月 東京
今世でも大胆な軍縮と軍制の改革が進み、国内への投資が奨励されたことから、日本は好景気に沸いていた。
なにしろ莫大な軍拡費用を削り、インフラや生産設備への投資に回したのだ。
道路や鉄道の整備・拡大に加え、製鉄や発電分野での能力が増強されている。
このインフラ整備によって、特に輸送力が増大したおかげで、各種産業にも恩恵が及んでいる。
それまでは寸断されていた日本各地の工業力が、にわかに連携するようになったし、自動車関連の需要も増えた。
あいにくとまだ生産台数はそれほどでもないが、史実よりは確実に増えている。
現状の自動車生産では、国末自動車、快進社、宮田製作所なども参入してきており、多少は選択肢も増えてきた。
これらの企業には先端技術研究所を介して、必要な技術の指導も行っている。
特にシリンダーブロックの鋳造では、どこも苦労しているため(歩留まり5%以下とかが普通)、後島の指導で鋳造技術の底上げをしていた。
また輸送力のアップは、地方での製糸や機織り関係の起業を促した。
これによって主に東北など、農業以外にはまともな産業のない地域の雇用が促進されている。
さらに政府が補助金を付けることで、石油の精製所や化学産業も発展しつつあった。
そしてその原料となる石油だが、まず北樺太のオハ油田の開発が進んでいる。
その産出量はまだ少ないが、開発が進めばいずれ、200万キロリットル/年を超えるほどのポテンシャルがあるのだ。
近海には油ガス田もあるので、今後も地道に開発が進められることだろう。
一方、東北の油田開発も進んでいたが、その埋蔵量はたかが知れている。
そこで樺太で巻きこんだロイヤル・ダッチ・シェルから、蘭印(インドネシア)の石油を購入する話も進んでいた。
いずれは満州の油田も開発するので、それらを含めて多角化していけば、史実のような米国頼りは避けられるだろう。
そして満州だが、アメリカの投資でガンガン開発が進んでいた。
元々、清国の利権に、食いこみたくて仕方なかったアメリカである。
湯水のように金を注ぎこみ、鉄道や鉱山を開発してくれている。
しかしそのせいか、清国人との軋轢が増え、あちこちで衝突も起きているそうだ。
それを受けてアメリカは、退役軍人による警備隊を組織し、弾圧を始めているらしい。
当然、清国は抗議しているのだが、アメリカは傲慢な態度で取り合わない。
また今世でも不満が高まって、いずれ大規模な衝突が起きるかもしれない。
そして本来ならアメリカの立場にいた日本だが、国内の景気がいいのと、現地でのトラブルを報道しているおかげで、大した不満の声は上がっていない。
もちろん、日本ももっと大陸利権を取りにいけという声はあるものの、それは少数意見に留まっていた。
そんなことをしなくても景気がいいのだから、誰も聞きはしないのだ。
そんな感じで歴史改変が順調な中、俺と佐島は山縣さん、松方さんに相談を持ちかけていた。
「公害の防止だと?」
「はい、栃木県の足尾銅山では、すでに鉱毒被害が問題となってます。鉱山から出るガスや排水によって、周辺環境が悪化して、農作物への被害や、健康被害も発生しています。それに加え今後、岐阜県の神岡鉱山などでも、カドミウムによる健康被害が発生するはずです」
この時代、すでに足尾銅山周辺では、けっこうな環境被害が発生していた。
まず周囲の山が禿山になったおかげで、土砂が流出して下流に堆積して、洪水被害を引き起こしているのだ。
さらに渡良瀬川の鮎が大量に死んだり、農作物も被害を受けている。
当然、健康被害も発生しており、千人以上の死亡・死産が発生しているとの推計もあった。
他にも岐阜県の神岡鉱山で鉱毒が流出し、下流域の富山県でイタイイタイ病が発生するのも、この頃からだ。
「足尾銅山の話は聞いている。陛下への直訴騒動もあったからな。しかしすでに、対策に動いているのではなかったか?」
「それが実は、十分ではないのです。そのため銅山周辺では、この先何十年も、鉱毒問題が絶えません」
「そうなのか?……それでは具体的に、どうしたいと言うのだね?」
ここで佐島が後を引き取る。
「まず、足尾銅山周辺の鉱毒被害を、再調査します。あらましはこの頭の中に入ってますさかい、どこをどう調べるかは、後で書面で提出します。その結果が出てきたら、国も補助金を出して、対策を進めると発表します。それと同時に、全国の鉱山にも調査を入れて、同様に対策すると宣言するんですわ」
「むう……本当にそこまでやる必要が、あるのか?」
「もちろんですわ。こういう問題は因果関係が分かりにくいんで、対策が難しくなります。その結果、環境や健康被害が長引いて、後でドカンと来るんですわ。それを事前に手を打っておけば、最終的に得になるのはもちろん、国民も政府を信用できまっしゃろ?」
「国民の信頼を、金で買うのか……」
松方さんが微妙な顔をしたので、俺がフォローする。
「そういう考え方もできますけど、国が民のことを考えてるっていう態度は、見せておく必要がありますよ。なにしろ政府が大々的に、国内の開発を奨励しているんです。その陰では絶対に、不利益をこうむる弱者が出ます。今回みたいな公害だけでなく、急速な開発で土地を取られたり、周辺の環境が悪化したりする例が、後を絶たないでしょう。そういう被害者を見捨てないって姿勢は、示しておかないと」
「う~む、言われてみれば、そうかもしれないな。かと言って、企業ばかりを悪役にしては、今度は産業が育たない。だから国が補助金を出して、公害対策を進めろと言うのだな?」
「はい、そのとおりです」
すると松方さんが山縣さんに、提案を持ちかける。
「この件は、私が陛下に進言するので、山縣さんも応援してもらえますかな? おそらく陛下のお言葉も合わせて発表した方が、早く進むと思うのです」
「承知しました。松方さんに主導してもらえるなら、私も助かります」
山縣さんの快諾を受けて、松方さんも顔をほころばせる。
「うむ、それではこの件は私が主導しましょう。佐島くんには、先ほど言っていた書面を頼む。今後もいろいろと相談をしたいが、大丈夫かな?」
「ええ、幸いにも第1師団なんで、御用の際は呼んでください」
「うむ、頼んだよ」
こうして今世でも、公害対策に動きはじめることができた。
その後、佐島の提案に従って足尾銅山の調査が進められ、各種の鉱毒被害と、カドミウムの有害性が明らかとなる。
それを聞いて、天皇陛下から対策の勅が下され、官僚も動きだした。
各鉱山には対策の指示が出されるとともに、国も各種研究機関を動員し、対策に取り組んだ。
さらに鉱毒対策には国が補助金を出し、鉱山経営にも配慮をしている。
その過程では神通川流域でも対策が進められ、この世界ではイタイイタイ病騒動はほぼなくなる。
もちろん、完全な対策にはまだまだ長い年月が掛かるのだが、史実よりも格段に早く行われた対策により、被害者は激減した。
さらに環境意識が高まった市民によって、その他の公害への対処も早まり、日本経済は順調に成長していくのだ。
今世でもそんな流れを作れたことに、俺たちは改めて胸をなで下ろしていた。