虹色の彼
「雪村さん、すみませんお願いしてもいいですか?」
その虹色のお客さまに心を奪われていると、カウンター内でコーヒー豆の計量をしていた後輩の男の子から声をかけられた。
「あ、ごめんなさい。今行きます」
呆けていた自分を窘めてそう答えたが、接客に向かうわたしの心の内は、ドッドッドッと心臓の音がうるさくなっていた。
早足で入り口に進むわたしに気付いたその人は、ニコッと微笑んでくれて。
その瞬間、彼がまとう色達もふわりと踊る。
1、2、3、4……彼の色は全部で7色……いや、今また増えて8色になった。
途中で色が増えるなんてことも、はじめてだ。
……どういうことなんだろう?いったい彼は何者なんだろう?
不思議な思いと少しの怖さが、わたしに絶大な緊張感と好奇心を与えてくる。
けれど、その見たことのない光景はとても綺麗で、思わず見惚れてしまいそうにもなるのだ。
「……お待たせいたしました。お一人様でいらっしゃいますか?」
突然の緊張に、つい上ずった声になってしまった。
彼はにこやかにわたしを見ると、
「はい、そうです。折りたたみ傘を忘れてしまって……。雨宿りにお邪魔しました」
人見知りなど無縁のような柔和な態度でそう告げた。
痩身なので背が高いようにも見えたけれど、至近距離で自分と比較すると、そこまで高身長でもないようだ。日本人男性としては平均的だろうか。
雨に濡れても清潔感を失っていない、きちんとした見映えではあるが、だからといって飛びぬけて目立つ容姿でもない。
けれどわたしには魅力的で、目を離せなかった。彼の色達から。
「………あの、俺の顔に何かついてますか?」
あまりにも凝視し過ぎたのだろう、席に案内し、メニューを手渡した直後に、彼が苦笑いを添えて尋ねてきたのだ。
「あ、いえ、あの、そうじゃなくって……すみません、ちょっとボーっとしてしまって……」
「大丈夫ですか?どこか体調でも悪いんじゃないですか?」
彼は訝しむどころか優しく心配してくれる。
はじめてのお客さまに気を遣わせてしまったことに、わたしは即後悔、即反省し、なるべく深く頭を下げていた。
「ご心配おかけして申し訳ありません。この通り、元気です」
体を起こし、両手で拳を握って元気アピールをする。
するとその様子が面白かったのか、彼はフッと声に出して笑っていた。
「楽しい人ですね。……雪村さん?」
彼はネームプレートにちらりと視線を流し、またわたしを見つめる。
人懐っこい笑顔は、なんだかこちらまで明るい気分にさせてくれるようなエネルギッシュさがあった。
「はい、雪村です。あの、それでは、お決まりになりましたらお呼びくださいませ」
危うく、その笑顔ととりまくカラフルに気持ちを攫われてしまいそうになり、わたしは慌てて仕事用のお決まりフレーズを述べて退散したのだった。
カウンターに戻る際も、彼の放つ様々な色達が視界の端に入ってきて、わたしを落ち着かなくさせていた………
その後、彼のオーダーは別のスタッフが聞きにいき、わたしは接客や作業しながらも、優しく浮かんでいる虹色をこっそりと観察していた。
彼は他のスタッフにもすこぶる愛想がよく、近くのテーブルで乳児の泣き声が大きくなった時もその色に変化はなかった。他の人だったら、表には出さないでも、多少色の形は変わったりするものなのに。
彼は仕事なのか何枚かの書類をファイルから出して目を通していたが、その佇まいも穏やかで柔らかだった。
一貫して、安定している。
ここまでざわめかない色は、はじめてかもしれない。
そんな一連の様子から察するに、この人はとてもいい人なのだと強く感じた。
そして複数の色を持っているのは、彼の感情が非常に良いバランスを保っているせいかもしれないなと、わたしなりの解釈が生まれようとしていた。
まだ数十分という短い観察時間ではあるが、この説は結構有力な気がしていた。
「お待たせいたしました、ブレンドコーヒーと野菜サンドです」
料理をサーブしたのはわたしだ。
こっそり彼を観察しながら、料理のタイミングも窺っていたのだ。
どうしても彼にもう一度接してみたくて。その虹色を、近くで見てみたくて。
「おいしそうだな。実はランチを食べ損なってたんだ」
「そうでしたか。あ、お飲み物はどちらに?」
何か作業をされてるお客様の場合、その邪魔にならないようにと、飲み物の置き場所は予め確認しているのだ。
彼は「そこでいいですよ」とわたし寄りの位置を指してくれた。
「かしこまりました」
「雨、やみませんね……」
わたしがカップをテーブルに置いたとほぼ同時に、彼が窓を見上げながら呟いた。
敬語だったのだから、それはひとり言ではなく、わたしへの言葉かけだったのだろう。
少し前まで広がっていた青空は、今ではすっかり灰色に着替えている。
暗く、陰鬱な気配を漂わせて。
わたしは沈んだ調子の声で、
「さっきまで晴れてたのに、真っ暗ですね……」
と返事したが、彼は窓から振り向くと、ニッコリ微笑んだ。
「でも俺、暗い色も結構好きなんですよ」
「そうなんですか?」
本人はこんなにカラフルな色をまとっているのに?
内心でクスリと笑う。
そんなこと知る由もない彼には、伝えるわけにもいかないけど。
でも確かに、彼の身につけているものはダークな色が多いようだ。
それはビジネスマンとしての品位を保つためにも思えたが、きっとそれだけではないのだろう。
「ええ。黒とか、好きですよ。雪村さんは?」
「はい?」
「好きな色。何色がお好きですか?」
唐突に名前を呼ばれ、ドキリとしたわたしは、頬に熱いものが走ったように感じた。
「……ああ、色、ですね?わたしの好きな色は………」
質問を理解したものの、とっさには具体的な色が出てこない。
というのも、この特異体質ゆえ、その色その色に思うことがあったし、好印象もあれば、その逆もあったからだ。
何と答えようか思い巡らせていると、目の前に広がる虹色が、まるでわたしに訴えかけているように見えた。
「――――虹色」
「え?」
「虹色が、好きです」
彼は、自分が虹色をまとっているなんて知らないのだから、わたしの答えはトンチンカンにも聞こえたことだろう。
けれど優しい人だから、笑ったりはしなかった。
「虹色ですか……」
しみじみと言ったかと思えば、
「そんな風に答える人、はじめて会いました」
ぱあっと満面に咲いた笑顔に呼応して、彼の虹もふわっと広がった。
それはまるで、曇天の窓に掛かった虹色のカーテンのようだった。
それが、わたしと彼の出会いだった。
一生忘れることのない、大切な、人生を大きく変える出会いだったのだ。