はじめまして
病院を受診して、点滴を何本か受けてからは、するすると体調は快方に向かっていったようだった。
すると気持ち的な変化も徐々に、本当に少しずつではあるが訪れて、わたしの感情に働きかけてきた。
心配してくれる人がいて、嬉しい。
仕事を休ませてもらえて、よかった。
診察室のカレンダーの写真の中の子犬が、かわいい。
点滴の針が痛くなくて、ホッとした。
そんな風に感情が戻ってくると、実家に帰宅したとたん、一番大きな感情を思い出して、わたしは、玄関先で大声で泣いた。
―――――っ、ぅわあぁぁぁぁぁんっっ!!いやぁぁぁぁぁっ、
弘也さん、弘也さん――――――っ!!
ドラマや映画の中で見かける泣き叫ぶシーンを、今までは大げさな演技だと思うところもあったけれど、実際にあり得る光景なのだと、身をもって実感していた。
三和土に膝をつけ、玄関マットに額をこすりつけ、わたしは、声にならない言葉にならない感情を吐き出し続けた。
やがて車をガレージに入れていた父が家に入ってきて、わたしを包み込むように背中から覆ってくれる。
「加恵、ここじゃ体が冷えるから……」
そのセリフに、わたしの涙は反応したようだった。
すぐには止まらなかったものの、一筋、もう一筋…それくらいで、涙腺はゆるやかに閉じられる。
すると父の言う通り、三和土から膝を通して冷たい感触が鮮明になってきて、わたしはゆっくり立ち上がった。
「加恵、大丈夫か?」
そう訊いてきた父の色を、久しぶりに見た気がした。
この数週間も至るところで色自体は目には映っていたかもしれないが、感情を消失させていたわたしは、いちいち認識することもなかったのだ。
父の今の色は、まん丸い黄色だった。
黄色は、楽しい、元気が出る……つまり、父はわたしの快復を喜んでくれているのだろう。
わたしは、ずっと心配かけていた父に申し訳なかったという気持ちでいっぱいになり、そして、今のわたしに対して黄色を見せてくれたことに、感謝でいっぱいだった。
そして、きっとわたしにも色があったのなら、父と同じ黄色なんだろうなと思いながら、しゃんと背筋を伸ばしたのだった。
※※※※※
感情を取り戻せたあの日以来、わたしは食べて寝て、起きてはまた食べて、時には笑うこともできるようになっていった。
そしてどうにか、弘也さんと二人で暮らしていたマンションにも戻ってくることができた。
最初はどうなることかと不安もあったが、一度鍵を開けてしまえば、そこは弘也さんとの思い出に溢れる空間で、それが辛くて涙を流すこともあったけれど、楽しい記憶は新鮮に蘇ってきて、いつもわたしを優しく癒してくれるのだった。
一時はどうなることかと思ったが、この調子だったら復職も叶いそうだと、わたしは部屋のそこかしこに残っている弘也さんの気配に励まされる思いで、生きていく未来を見据えていた。
そんなある日、手元に置いてあった弘也さんの携帯が鳴った。
あの事故のあと、各方面への連絡などに必要で、一旦は弘也さんのお父様に預けていたのだけど、わたしが落ち着いてきたこともあり、わざわざお父様が実家にまで届けてくださったのだ。
翌週には仕事復帰を予定していた、土曜日の夜のことだった。
画面には、”姉貴” の文字。
わたしは、これまでお会いする機会を失っていたお姉さんに、少しの緊張をおぼえつつ、電話に出たのだった。
「―――はい、もしもし」
《あ、もしもし?こんばんは。加恵ちゃん?》
明るい声は、弘也さんとイメージが重なった。
「はい。はじめまして、雪村 加恵です」
《ああ、そういう堅っ苦しいのはいいから。弘也からよく話は聞いてたのよ。姉の弘美です。弘っていう字は弘也の弘と同じなの》
人懐こい感じの物言いに、やはり弘也さんと姉弟なんだなと思った。
「あの、このたびは………申し訳ありませんでした」
弘也さんはわたしを庇ってああいう事になってしまったわけで、ご家族からしたらわたしは恨まれる存在であってもおかしくはない。
弘也さんのお父様やご親戚方はいっさいそんなことを仰らなかったけれど、はじめて言葉を交わすお姉さんがどういう思いをお持ちなのかは計り知れないのだから。
だがお姉さんは、《ああ、もう!》と、焦れたような反応をした。
《だからそういうのはいいのよ。弘也を失った悲しみは、あなたも同じでしょう?》
その返事に、わたしは、思わず口を覆っていた。そうでもしていないと、ふいに襲ってきた嗚咽が、お姉さんにまで伝わってしまいそうだったからだ。
けれどお姉さんにはお見通しだったようで、
《やっと泣けるようになったのね……》
そう言って、しばらくの間、会話を中断してくれたのだった。
そしてそのあと、
《ところで、加恵ちゃんに見せたいものと渡したいものがあるから、明日にでも会えないかしら?》
お姉さんは、まるでショッピングにでも誘うようなトーンで、初対面の約束を取り付けてきたのだった。




