消えた感情
子供の飛び出しを避けたバイク、交差点に突っ込む―――――
翌日の新聞にはそんな見出しが躍った。
そして詳細記事には、婚約者を庇った男性が死亡したと記されていたらしい。
らしい、としか言えないのは、わたしはその記事にいっさい目を通していないからだ。
通夜と葬儀は、粛々と執り行われたが、いくつかのマスコミが取材に来ていたようで、関係者とピリピリしたやり取りがあったようだ。
亡くなった人を見送りに来たというのに、”婚約者を庇った” という、世間受けしそうな内容の事件に飛び付いた不作法な記者達に囲まれて、参列者達は悲しみとともに大いに憤慨していた。
結局葬儀社が対応して、参列者への取材は一切しないという取り決めを交わし、大手のマスコミは引き下がってくれたのだという。
だが一部、品位を持たない出版社やフリーライターなどが執拗にマイクを向けまわっていて、関係者は不快感を持ったまま、弘也さんとの別れを迎えることとなった。
だがこの一連の事情も、わたしはリアルタイムで知ることはなく、後々父から教えてもらったことだった。
わたしは弘也さんのお父様の配慮で、家族席に並ばせてもらった。
入院中だったお姉さんは退院の許可を得られず参列することが叶わなかったので、わたしはお会いできないままだった。
そのことは、うっすらと覚えていたようだった。
けれど、あれから、どうやって時間が進んでいったのかが、さっぱり分からない。
…………弘也さんを失ってから、わたしは、どうやって生きていたんだっけ?
二人で暮らしていたマンションに帰ることもできず、実家に身を寄せ、ただひたすら呆然としていた。
会社からは約一カ月の特別休暇をもらった。
忌引き休暇にしては異例の長さだったが、目の前で、自分を庇っての死亡事故ということで、それを知った社長自らが特例を出してくださったらしい。
そしてそれに異を唱える社員は一人もいなかったという。
そんな会社でよかった。
もしそうでなかったら、今のわたしの状態では、仕事を辞めなくてはならなかっただろうから。
ただ、彼と会えなくなってから二週間ほどが過ぎたけれど、いまだに何もする気が起こらないわたしは、一ヶ月強の特別休暇を終えても、復職できるかどうかは見えなかった。
父も有休を取ったり定時で帰ってきたリして、少しでも長くわたしと一緒に過ごすようにしてくれていた。
わたしがおかしなことをしないか、そんな心配もあったのだろう。
弘也さんがいなくなって、わたしは、ありとあらゆる欲を放棄していた。
食欲もなければ、睡眠欲も訪れず、ただただそこにいて、何かを考えることも、感情を動かすことも諦めていた。
だって、何をどうにかしたところで、弘也さんにもう一度会うことなんかできないのだから。
あのカラフルな虹色には、もう二度と出会えないのだから…………
感情が動かないのだから、当然、泣くこともできずにいた。
何リットルかの涙を流せば弘也さんに会える、そんなことになれば、何キロリットルでも流せたのだろうけれど。
でも、弘也さんは戻って来ない。
もう、ここにはいないのだ…………
食べず、眠らずにいると、当たり前だがどんどん体調は壊れていって、何も口にしてないのに吐き気に襲われたり、起き上がれないことも増えていった。
そしてとうとう、このままではもたないと判断した父によって、病院を受診することになったのだった。
その医師の診断は、思いもよらないものだった。




