特異体質
――――それは、まさしく ”虹色” だった。
赤、青、黄、白、緑、茶、橙……いろんな色の帯が、彼を包み込むように優しく囲っていたのだ。
角度によってはその色を変えて、隣の色と混ざり合い、溶け合ってまた彩を増す、虹色。
わたしは、はじめて見るその光景に、心を奪われていたのだった………
※※※※※
わたしがそれに気付いたのは、物心つくかつかないかの頃だった。
一番最初は、母親。次に父親、それから、近所の人達。時々訪れる宅配のお兄さんや、父方の祖父母。
次第に母親に連れられて外出するようになると、行く先々で見かけるすべての人のまわりに、さまざまな色が浮遊していたのだ。
けれど当時のわたしには、それが当たり前すぎて、わたし以外の人もみんなが同じように見えているのだとばかり思っていた。
だから言葉をはっきり話すようになり、色の名前も覚えていくと、それについてもおしゃべりするようになった。
例えば、”きょうのママはあかだね” とか、”ばぁばはきいろ” といった具合に。
はじめは、わたしの感受性が大きいとか何とか言って、周りの大人たちは喜んでいた気がする。
だがなぜだか母親だけはそれを歓迎していなかった。
わたしが色の話をしだすとすごい剣幕で怒鳴り上げて、まるで忌々しいものでも見るような冷たい目でわたしを見てきた。
父親はそんな母親を叱り、いつもわたしを庇ってくれたけれど、そういう日常の中で、わたしは、それはわたしにしか見えていないのだと、そしてそれについてはあまり話さない方がいいのだと学習していったのだった。
幼稚園に入る直前のことだった。
幼稚園という小さな社会に加わったわたしは、さすがに、自分が特異体質なのだと自覚していった。
そしてそれについても、自分で学んでいった。
まず、人のまわり…主に肩や首元などの上半身に色が漂っているのだが、それは一色であること。
同一人物でも、見る時々で色が違う場合はあるけれど、必ず一色だった。
その色が変わるタイミングを見かけることはあっても、例えば赤から青に変わる場合は、赤が徐々に小さくなっていき、完全に消えた直後に青が登場するのだ。
だから別の色が混ざり合ったり、グラデーションになるようなことはなかった。
そのあたりが、いわゆる ”オーラ” の類とは違っているのだとも考えていた。
そして次に、その色は、どうやら ”感情” を表しているようだということも気付いた。
その時々で、その人の中で最も高まる気分や性格とでも言えばいいだろうか。
とはいえ、具体的に何色なら何の感情、といった定義はないようだった。
赤が怒りの感情の人もいれば、高揚感、興奮、のようにただ気分が盛り上がっているだけの場合もあったりして、それは不確かなバロメーターではあった。
だが、いくら不確かとはいえ、なんとなくその色が与えるイメージの範疇の感情ではあったので、わたしは、もう小学校に入学する頃には、相手の色によって自分の態度を変える、相手の色にあわせるという、自分なりの処世術を身につけていたのだった。
慣れてくると、便利な点もあった。
赤は高まり、青は冷静、緑は安息、白は誠実、黄は楽観、茶は穏やか……他にもたくさんの色があったけれど、わたしはそれぞれに大まかなイメージを付けていた。
そして、その見え方や形で、今のその人の感情を読み解いていたのだ。
刺々しい茶なら ”遠慮気味に怒ってる”
密度のあるぎっしり詰まったような青なら ”涼しい顔でも意見を変えない頑固”
今にも消滅しそうに小さくなっている白だったら ”嘘をつくかもしれない”
そういう風に自分なりに研究した結果を、わたしは有効活用していた。
もうずいぶん長いこと、ずっとそうしてきたのだ。
もちろん、人の感情の全部が全部をキャッチできるわけではなかった。
人間の心は非常に複雑で、さっきまで尖っていた色が一瞬で丸くなるなんてこともしょっちゅうあったのだから。
それでも、相手の心がそれとなく察知できるということは、対人関係においては利用価値があるスキルだった。
時には、知りたくなかった友達の本心や、嘘、裏切りに遭遇することもあったけれど、それだって、何も知らずに後々もっと酷い目にあっていたかもしれないのだからと、プラスに考えるようにはしていた。
そうでもしていないと、自分の生まれ持ったこの体質を、疎ましく思ってしまいそうなときもあったから……
少なくともわたしの母は、人とは違う体質を持ったわたしを受け入れられなかったようだ。
わたしが小学二年の夏、離婚して、家を出ていった。
父が言うには、母はとても繊細な人だったので、感受性が強いわたしの子育てにずいぶん悩んでいたらしい。
何も知らない父はこの時もわたしのことを ”感受性が強い” と捉えていたようだが、わたしと接する時間が父よりもずっと長い母は、もしかしたら、わたしに母の感情が見えていること、それにうっすら勘付いていたのかもしれない。
だから気味悪がって、わたしを置いて出ていったのだと、幼心にも母に対する罪悪感を覚えたのだった。
そんなことがあってから、わたしは、自分にそれが見えているということを、誰にも悟られないようにと、慎重に慎重を重ねて暮らしてきたのである。
たくさんの色が見えてしまう人混みでは気分が悪くなることもあったので、学校も就職も、なるべく混雑した交通機関を使わなくてすむようなところを選んだ。
大勢の人がいると、帯のように伸びている色が近くの人にまで届いていたり、大きくなったり小さくなったりそれぞれに不規則な動きをするので、乗り物酔いになったように具合が悪くなるのだ。
だから、短大卒業後に就職した実家からバスで二駅の場所にあるカフェは、わたしにとって最適の職場だった。
系列店もあるけれど店舗異動はないし、シフト制で時間も決められている。
なにより、朝昼夕の食事どきに満席になったとしても、広々とした店内では色が混み合うこともなかったのだから。
働きだしてもう五年、平穏な日々を送っていた。
※※※※※
「お疲れ、雪村さん」
女性スタッフの更衣室に入ろうとしたところで、ちょうど中から出てきた先輩と出くわした。
「お疲れさまです。今日はもうあがりですか?」
先輩の首元にはまん丸い黄色が浮かんでいる。
この後何か楽しみにしてる約束でもあるのかもしれない。
「そうなの、久しぶりにデートなんだ」
弾んだ声に、まん丸い黄色もふわりと揺れた。
「そうなんですか。それは楽しんできてくださいね」
「ありがとう。今日の賄いはビーフシチューだったわよ」
「本当ですか?楽しみです」
ビーフシチューはわたしの好物だ。
「それじゃ、また明日ね」
「はい。気をつけて」
スキップでも踏みそうな足取りで更衣室を後にする先輩に、わたしの気分も軽やかになるようだった。
自然と浮かんだ笑みを残したまま更衣室に入ると、ちょうど正面の壁に掛かってあった鏡に先輩の後ろ姿が映っていた。
その首あたりには、やはり黄色が浮かんでいる。
よっぽど楽しみにしてたんだな…と微笑ましくなった後で、わたしは、自分を映す鏡の前でため息を吐いていた。
わたしのまわりには、色がなかったからだ。
それは、テレビや写真といった機械越しの映像画像には映らなかったが、鏡や窓、水面等には映るようで、わたしは子供の頃から、何度も何度も自分の色を見ようと試みたものだ。
けれどどうしてだかわたし自身のまわりには、それらしい色は見当たらなかった。
……わたしにだって、当たり前だけど感情はある。
たとえば、賄いがお気に入りのビーフシチューだと知って、喜んでいるはずなのに。
なのに、それはわたしには見えなかったのだ。
自分の特異体質に気付いて以来、ずっと、相手の感情を読んでからリアクションを返すという、カンニングのようなコミュニケーションを続けてきた歪が、そういった結果として出てしまったのかもしれない……
そんな風に考えては、いつまでたっても見えることのない自分の色を、わたしは常に探していた。
けれど今日も、鏡に映るわたしの色は無色透明で。
彼氏とのデートに浮かれて黄色を咲かせていった先輩を羨みながら、わたしは仕事場である店に出たのだった。
そしてそこで、今まで見たことのない色に出会ったのである。
午前中は晴れていた天気が午後になって急に傾き、ぽつぽつと空から大きめの粒が落ちてきたようだった。
せっかくのデートが台無しにならないといいけど…
先輩のことを気にかけていたそのとき、入り口の扉が開かれた。
シャランシャランという、シンバルを小さく鳴らしたようなドアチャイムの音がして、カウンターでナプキンの補充をしていたわたしは手を止めた。
いつ聞いても心地いいこのチャイムの音が、わたしは大好きだった。
だがこのときばかりは、その大好きな音が耳に入ってこないくらいに、入り口に立っている人物に釘付けになってしまったのだった。
その人は、にわか雨に降られて逃げ込んできたような風情で、スーツのジャケットの袖を左右交互に払っていた。
そのスーツはダーク系、片手には黒いビジネスバッグ、襟元のタイは遠目だからはっきり見えないけれど濃いグレーだろうか。とにかく全体的に落ち着いた色味の装いなのに、彼の全身には、色とりどりのそれが溢れていたのだ――――――