巻之九 「氷解の兆し」
「藍弥、まずは御掛けなさい。立ち話というのも無作法ですからね…?」
そう言ってブレザー姿の肩に軽く手を置いた私は、線の細い輪郭からは意外な程の筋肉の張りに驚かされるのだった。
『成る程…藍弥なりに鍛えているのですね。』
古人曰く、男子三日会わざれば刮目して見るべし。
まして、最後に会ってから2年余りの歳月が流れているのだから。
「私が支払いますので、藍弥は御好きな物を注文なさい。」
驚いた様子を気取られないように極力平静を装いながら、私は弟にお品書きを手渡した。
今まで頑なに顔を合わせようとしなかった手前、崩した態度を取れないのが難しい所だ。
「良いの、姉さん?」
藍弥の問い掛けには、私の懐具合を気にする響きは感じられなかった。
人類防衛機構に所属する防人の乙女には、公安系の公務員として相応の給料が振り込まれている。
姉への遠慮は、あくまでも弟としての社交辞令だ。
「急に呼び出したのは私です。それに、こうして姉弟水入らずで旧交を温めるのですよ。何となく、姉らしい事をしてみたくなったのです。」
「そうなんだ、姉さん。じゃあ、遠慮なく…」
遠慮なくとは言ったものの、私と同じ天蕎麦にする辺りが藍弥の奥床しさだ。
「ん…?」
だし巻き卵を肴に熱燗をやっていると、隣席からの視線が気になってしまう。
そちらへ首を向けてみると、弟は興味津々といった目付きで私の手元を見つめていた。
「何か面白い物でも御座いましたか、藍弥?」
「ううん…ただ、姉さんがお酒を飲んでいる様子が珍しくてね。」
考えてみれば、私は生体強化ナノマシンによる改造手術で飲酒資格を得た翌日に実家を出奔し、今日まで帰っていない。
正確には、ナノマシンを静脈注射された日の夜、養成コース編入祝いで父と熱燗を飲み交わしていたけれど、弟は小学生向けのフェリーツアーに参加しており、実家にはいなかった。
私が飲酒する姿を藍弥は目にするのは、今回が初めてになる。
物珍しい気分になるのも道理だった。
「そのお酒、『京洛の露』だろ?父さんがよく飲んでる銘柄。姉さんも好きなの、その銘柄?」
2年余りの断絶を経た姉と弟。
その久々の会話の糸口が、酒の銘柄とは妙だったけれど、藍弥からすれば「父と姉が愛飲する日本酒」であり、家族を繋ぐ縁となるのだろうか。
「人類防衛機構に籍を置いた日に、父上と一緒に初めて飲んだ銘柄ですからね。『三つ子の魂百まで』ですよ。相変わらず、御酌は母上が?」
「まあね。未成年の息子に酌されるのは、父さんも気分じゃないだろうね。」
何とも他愛ないやり取りだったが、2年振りの姉弟の会話としては、まずまずと言えた。
各々で雪解けの手応えを感じたのだろう。
少しずつではあるが、会話の声も弾みつつある。
そろそろ、本題に入る頃合いなのかも知れない。
「よくやりましたね、藍弥。怨霊武者を恐れずに、九字を切りながら刀風を浴びせる…その貴方の勇気が、門弟の子達を救ったのですよ。」
「勇気なんて、そんな…刀を投げ渡してきた父さんに、『守るべき者も守れず、敵に一太刀も浴びせられずに倒される。そんな死に様で満足なのか?』って一喝されて…それで無我夢中になった結果だよ。正直に言って、今でも思い出しただけで身体が震えちゃうんだ…」
それが単なる謙遜ではないのは、右手に持った割り箸がカタカタと震えている様子からも伺えた。
しかしながら、藍弥が己の弱さを自覚しながらも、敵に立ち向かえた事を、私は評価したい。
剣術を続けていくと、自分の強さが実感出来ると同時に、自分の弱さもまた、自覚出来るようになっていくものだ。
敵を知り、己を知れば、百戦危うからず。
今の自分の限界を把握した上で、敵の力量を正しく読み取る事が出来れば、戦い方は幾らでもある。
そうして場数を踏む事で、本当に強くなっていけば良い。
「内心はどうあれ…逃げ出さずに敵へ立ち向かった事を、私は喜ばしく思わずにいられませんよ。」
私が知る藍弥は、ウサギ殺しの受験生を目撃しても、立ち向かう事は勿論、通報すら満足に出来ない軟弱者だった。
そう考えると、改めて襟を正さずにはいられない。
「ウサギを助けられなかった時と同じ思いは、したくなかったからね…」
「そう…」
どうやら藍弥も、私と同じような事を考えていたようだ。
「さあ、藍弥。冷めないうちに…」
「うん…」
小さく頷く弟を尻目に、私は徳利を傾け、熱燗にした「京洛の露」を静かに手酌した。
ぐい飲みを満たした透明な液体は、その水面からアルコール成分が揮発して、何とも言えない日本酒の芳香を漂わせている。
そして丼鉢からモウモウと立ち上ってくるのは、海老天の衣が程好く溶けた出汁の香りと、香ばしい蕎麦の風味とが渾然一体となった白い湯気。
出汁巻き卵と板わさを肴にして、既に御銚子を何本か空けている身ではあるけれども、この芳香には堪えられない。
逸る心を抑えて蕎麦を手繰り寄せ、海老天をつつき、時には熱燗を傾けて。
「フゥ…んっ?」
そうしてふと我に返れば、興味津々といった顔付きで私を見つめる藍弥と視線が合ってしまった。
「どうなさいましたか、藍弥?」
見ると、藍弥の丼鉢には蕎麦が半分以上残っているし、海老天も手付かずだ。
「美味しそうに呑むんだね、姉さんって。お蕎麦と日本酒って、そんなに合うの?」
何かと思えば、実に他愛もない質問だ。
「成人に達すれば、藍弥にも分かりますよ。」
中学に上がったばかりの少年を相手に蕎麦前の魅力を説くのは、さすがに時期尚早だろう。
だが、先の質問が良いきっかけになったのもまた、事実ではある。
「しかしながら…今日はとびきり美味しく感じられますね。弟の成長を見ると、人並みに喜びもするのですよ。藍弥も御存知の通り、無沙汰極まる姉ではありますが…」
「そんな事はないよ、姉さん。姉さんが僕と顔を合わさずに引っ越したのも、僕にしっかりして欲しかったからじゃない。」
まだ子供だと思っていたが、私の浅知恵など何もかも御見通しという訳か。
「少しは姉さんの御眼鏡に敵うように成長出来たのかな、僕…」
「まずまず及第点といった所ですね。今後に期待しておりますよ、藍弥。」
椅子に凭れた背中を叩いてやると、藍弥は頬を緩めて照れ臭そうに笑った。
藍弥の方は案外、私に苦手意識なんて持っていなかったのかも知れない。
一方的に遠ざけていたのも、成長しきれていない子供だったのも、どちらも結局は私の方だったのか。
『私もまだまだ、修行が足りませんね…』
ふと脳裏を過った思考に、思わず自嘲めいた苦笑が浮かんでしまう。
「これを締めの御銚子にしましょうかね…」
そんな時に手が伸びるのは、やはり好みの酒という事か。
出汁で膨れた海老天を肴にに呑む熱燗は、私を優しく宥めてくれる。
苦笑も、自嘲も、揮発したアルコールの芳香と、温められた純米酒のまろやかな風味に、じんわりと溶けていくみたいだった。
「僕も付き合うよ、姉さん…」
相伴を買って出てくれた藍弥だが、男子中学生の悲しさか、手にした茶碗の中身は蕎麦湯だった。
既に天蕎麦は食べ終えたようで、脇に片付けられた丼鉢は、底の方に薬味が少し残っているだけだ。
「付き合いが良いのですね、藍弥。」
私と違って。
喉元まで出かけた一言を、何とか私は熱燗と一緒に飲み干した。
こうなると、後は口元が自嘲の笑いに歪んでいない事を、ただ祈るばかりだ。
「そうでもないよ、姉さん。でも、姉さんも…たまには家の様子を見に来て欲しいな。帰って来てくれ、とは言わないけど。」
この手の頼み事は、弟から何度となく行われてきた事だ。
今までの場合、その口振りは懇願や哀訴の趣を帯びた物だった。
だが今の藍弥には、そうした惨めな軟弱さは微塵も感じられず、至って自然な何気無さが私に好感を抱かせる程だ。
「父さんや母さんだって、姉さんには積もる話が沢山ある訳だし…それに自慢じゃないけど、姉さんに憧れてる子、うちの門下生にも結構いるんだよ。」
あの話を聞く前の私であれば、問答無用で拒否していただろう。
だが、今は…
「この淡路かおる少佐。佐官として多忙の身故、今すぐにとは約束し兼ねますが…いずれ近いうちにでも参らせて頂こうと存じ上げます。」
その時までに私は、もう少しマシな面構えになっておきたい所だ。
だが、それが然程遠い未来ではない事もまた、何となくだが自覚している。
こうして再び、藍弥と笑い合えたように、きっと…




