巻之与 「未熟なる弟、藍弥との決別」
餞別品の授与を終えた父と私は居間へ踵を返し、門出の祝宴を仕切り直す事と相成った。
父と私は差し向かって杯を傾け、母は折に触れて酌をしてくれる。
私の傍らに業物が携えてある事に目を瞑れば、稽古場に向かう前と何も変わらない佇まいだ。
「破邪顕正を成す活人剣の道。それは決して平坦ではありませんが、今日まで御教示頂いた一刀流の全てとこの千鳥神籬があれば、突き進める所存です。」
「うむ、そうか…」
私の決意表明を、父は口を挟まず、ただ静かに聞いていた。
「心身の修練としての淡路一刀流は、父上を始めとする指南所の皆様方にお任せ致します。」
大学の教育学部で知り合った母と卒業後数年で結ばれた父は、この当時でもまだ36歳。
下手をすれば師範代と見紛う若さだった。
当然ながら、身体は壮健その物。
この状況で後継者を気にすれば、来年の心配をする者と一緒に、鬼に笑われてしまうだろう。
先代である祖父が病没し、早々と一刀流の看板を襲名する羽目になった事を計算に入れれば、後継者に気を揉む父の心境も理解は出来たが。
「私が去りましても、まだ藍弥が居ります。藍弥にも素質はありますし、磨けば光る事でしょう。」
3歳下になる弟の名前を出した途端、居間の空気が一変した。
「藍弥、か…」
絞り出すような声を出す父の顔には、その声色に違わぬ重苦しい表情が浮かんでいる。
「確かに素質はあるやも知れん。しかし、今の藍弥では…」
「藍弥の性根が問題なのですか、やはり…?」
更なる私の問い掛けに、父は無言で目を伏せた。
その沈黙は、どのような言葉よりも明確な回答になっていた。
「藍弥は、優しい子ですからね…」
代わりに応じた母の言葉には、児童向け漫画雑誌の懸賞に当選し、小学生向けの春休みフェリーツアーで家を空けている弟を弁護するような趣があった。
息子を持つ女親ならば、当然至極の反応だろう。
-違う!
だが、私は心の中で母に否を突き付けていた。
心の弱さを、優しさと混同してはいけない。
他者を慈しむ優しさには、それを侵害する輩に抗おうとする、強い激情が含まれて然るべきだ。
己が愛する者が踏みにじられているのを手出し出来ず、全てが手遅れになってしまってから涙する者を「優しい」と呼ぶのは、「優しい」という形容詞への冒涜でしかない。
あれは、浜寺東小学校に藍弥が入学した年度の3学期だった。
クラスの飼育委員だった藍弥が、当番であるウサギの世話をしようと、早朝に中庭のウサギ小屋に入った時の事。
普段ならキャベツや人参を求めて殺到してくるはずのウサギ達が、無残にも1羽残らず皆殺しにされていたのだ。
流れた血で純白の毛皮が真紅に染まり、生首や内臓が散乱する凄惨な光景だったという。
近隣の小中学校でも同様の事件は発生しており、異常者と危険な特定外来生物の両方の可能性を考慮して、人類防衛機構と県警は合同捜査を開始した。
もっとも、堺県第2支局所属の防人乙女達が、その力を行使する機会は訪れなかったのだけど。
小動物の虐殺者は、普通の人間だったからだ。
県内屈指の名門校と名高い私立諏訪ノ森女学園の付属小学校に忍び込もうとした男子高校生は、警備員と警官隊にあっさり取り押さえされ、浜寺東小での事件も含めた全ての余罪を、堺市警の取調室で白状した。
-受験勉強に疲れ果て、ストレス発散のためにウサギを殺してしまった。
その供述内容から受験ノイローゼの可能性が認められ、少年法が適用される未成年だった事もあって、厳罰は課せられなかった。
男子高校生の名前や在学校は公表されず、身柄は医療少年院に移送される。
小学生に危害を加えたなら話は違っていたのかも知れないが、殺傷したのがウサギやハムスター等の小動物ならば、妥当な量刑と言えた。
しかし、たとえ小動物とは言え、失われた生命は2度と帰って来ない。
教職員や飼育委員の発案で、中庭の片隅にウサギの墓が設けられたのは、惨殺された死骸が片付けられた数日後の事だった。
変わり果てたウサギの姿に号泣していた藍弥は、卒塔婆を思わせる木製の墓標に、毎日欠かさず手を合わせているそうだ。
それだけならば、私も父母を始めとする周囲の人々と同じように、藍弥を「心優しき弟」として手放しで歓迎出来ただろう。
そう素直に評価出来ないのは、犯人が逮捕された日に弟から打ち明けられた事実が原因だった。
『ゴメン。少し良いかな、姉さん…中庭のウサギの事で、相談したい事があって…』
私を自室に呼び入れた弟は、深刻な顔色で静かに切り出した。
小学1年生の少年が、深刻で重苦しい面持ちになるのも当然な内容だった。
藍弥は、ウサギ殺しの高校生を目撃していたのだ。
置き忘れたリコーダーを取りに教室へ戻ろうとした夕方、辺りの様子を見て校門から駆け出す高校生位の人影を、偶々目にしたのだという。
後ろ姿ではあったが、その人影が着ていたのは、後のウサギ殺しの少年の在籍校とされている市立高校の制服だったらしい。
恐らく男子高校生は、夕方以降の警備状況の下見に訪れていたのだろう。
『藍弥…何故それを、もっと早く話さなかったのですか?』
話を聞き終えた私は、弟の目を見据えて静かに切り出した。
『貴方が担任の先生なり、父上や母上に話していれば、中庭のウサギは殺されずに済んだかも知れないのですよ?遅くとも浜寺東小のウサギが殺された時にでも、『怪しい人影を見た。』と言っていれば、他の学校のウサギや鶏が殺されずに済んだはず。それを…』
『ゴメン、姉さん…!僕、怖かったんだ…もしも人に言ったら、犯人が僕をウサギみたいに殺すかも知れないって…そう思うと、怖くて言い出せなくて。』
その癖、犯人が警察に逮捕されて我が身に危険が及ばなくなったと悟るや、私にだけは打ち明けたのか。
早い話、藍弥には勇気が足りなかったのだ。
今にも殺されようとしているウサギを助ける勇気も、目撃情報を活用して犯人の更なる凶行を食い止める勇気も。
そして、全てに目を瞑って忘却する勇気さえも。
『それでも貴方、我が淡路一刀流の長男ですか?恥を知りなさい、藍弥!』
『ゴメン、姉さん…』
反論でもあれば、私としても張り合いがあった。
だが、消え入るような声を残して項垂れては、私の怒りも萎えてしまう。
『何時までもそうしていなさい、この臆病者…』
立ち上がった私は、吐き捨てるように言い残すと、弟を一瞥する事もなく部屋を後にした。
怒りすら向ける価値も無い相手に沸く感情が「侮蔑」であると、初めて知った瞬間だった。