巻之弐 「剣客としての立志と挫折」
元化9年9月9日。
父・養宜と母・茉穂の第1子として、この世に私は生を受けた。
私の生家は「淡路一刀流」という流派の剣術指南所で、父は淡路一刀流の現継承者として館主を務めている。
稽古に汗を流す門弟達の姿や、打ち合わされる木刀の鳴り響く音、そして礼に始まって礼に終わる洗練された立ち振舞い。
そうした道場剣術を構成する諸々は、私にとっては物心つく前から慣れ親しんだ物だ。
-私も、剣術を習ってみたい。
小学校に上がったばかりの私が父に切り出したのも、当然至極の流れだった。
-心身の鍛練という形で、情操教育になるだろう。
比較的軽い気持ちで私の申し出を受け入れた父は、程無くして考え方を改める事になったらしい。
それと言うのも、私には剣客としての素質があったからだ。
元々運動神経が優れていたのに加え、飲み込みが早くて素直。
稽古を共にさせて頂いた門弟達の評価をまとめれば、こんな感じだった。
やがて父がつける私への稽古は、通常の門弟達へつけるよりも厳しい物になっていった。
真剣を用いた居合い抜きに、蝋燭本体を倒さずに刀風だけで火を消す練習。
そうした稽古に音を上げるどころか、幼い私は嬉々として参加し、そして順調にこなしていった。
努力と研鑽が報われ、剣客としての高みに少しずつだが確実に近づいている。
その実感と達成感とが、私をより一層に邁進させていった。
しかしながら父は、私が年齢においても剣の技量においても着実に成長していく様を、喜ぶと同時に思い悩んでいくようにもなっていった。
そんな父の葛藤を私が理解出来たのは、小学5年生の春休みだった。
当時在籍していた浜寺東小学校の、3学期の定期健康診断。
その一環で行われた特命遊撃士の適性検査で、私は甲種合格を果たしていた。
特殊能力サイフォースの発現が水準以上で、心身共に健康。
こうして甲種合格となった以上、人類防衛機構への入隊拒否は不可能だった。
仮に適性検査の結果が乙種以下であれば、また話は違ったのかも知れないが。
分厚い封書の通知が郵送された日の夕方、私は道着姿で指南所に立っていた。
その日の稽古は、門弟達と同様の内容だった。
真剣を用いた稽古もなければ、滝行もない。
素振りに打ち合い、そして黙想。
礼に始まって礼に終わる、質実剛健で典型的な道場剣術。
だが、私の生涯にとっては大きな意味のある稽古だった。
何故ならば、それが生身の人間として行える最後の稽古だったからだ。
その翌日。
南海高野線堺東駅から程近い、人類防衛機構極東支部近畿ブロック堺県第2支局を、私は訪れていた。
一条通りの道路を挟んだ向かいの県庁舎と御揃いの、地上21階建てのガラス張り高層ビル。
国際的防衛組織の軍事基地の割には、親しみの持てるモダンで近未来的なデザインだ。
管轄地域のインフラと、その住民の防衛。
そんな人類防衛機構の趣旨から考えれば、威圧感よりも親しみと愛着が持てるよう、通常の行政施設と似たような外観に施工されるのは、自然な発想だった。
しかし今の私には、この地上21階建てのガラス張り高層ビルの偉容に、高みから見下ろされているかのような威圧的な畏怖を感じられるのだった。
-この支局ビルに足を踏み入れる事で、私の人生は大きく変わる。それまでの生き方と、訣別しなければならなくなる。
そんな躊躇いを断ち切るように、私は左右に軽く頭を振った。
2つ結びにした黒髪が、首の動作に合わせて軌道を描き、肩や首に当たってパタパタと軽く音を立てている。
その音が私の心を鼓舞してくれるように思われた。
「さて…それでは行きましょうか。」
セットが乱れた髪を調整し、私は支局の自動ドアの前に立った。
普段は後ろで揺れている2つ結びも、今は肩から鎖骨の辺りに引っ掛けて前に垂らしている。
『これで、引かれる後ろ髪もなくなりましたか…』
他愛ない言葉遊びに苦笑しながら、私は開いた自動ドアを潜り抜け、防人乙女の集う支局ビルに足を踏み入れた。
変化した身体への実感は、私の場合は予期せぬ意外な所から訪れた。
『傷痕が、消えていく…?!』
生体強化ナノマシンの静脈注射を終え、支局の医務室を後にした私は、何気無く利き手に目を落として驚愕した。
父が私の素質を認め、初めて居合いの稽古を許可したのは、小学1年生の9月半ばの事だった。
居合い抜きである以上、そこで用いるのは当然ながら、刃のついた真剣だ。
敵に見立てた巻き藁を、抜き打ちで切り伏せたまでは良かった。
幼い私の成した快挙に湧く門弟達の歓声も、昨日の事のように思い出せる。
だが業物を鞘に納めると、美しく磨き上げられた指南所の床に、紅い飛沫が点々と舞い散った。
そして程無くして、鋭く熱い感触が私の利き手で弾けた。
『くっ…!』
納刀の際に親指の付け根を深く傷付けてしまったと、すぐに知れた。
幸いにして指の動作に支障は来さなかったものの、傷痕はそのまま残った。
母や弟は驚いたものの、父や師範代の人達は至って平然たるものだった。
『真剣で居合いを抜く以上、手元の傷は通過儀礼みたいな物です。かおる御嬢さんも、これで私達の同輩という事ですよ。』
そうして師範代の由良名津彦先生が笑いながら見せてくれた右手には、私と同じ位置に古傷が残っていた。
これで私も、師範代や門弟達、そして父と同じ世界の住人になれた。
当時の私には、その喜びの方が、傷の痛みよりも勝っていた。
それから古い利き手の刀傷を見る度に、幼少時の未熟な自分への苦笑と、質実剛健な剣士の世界に身を置く今の自分への誇りが入り交じった、複雑な感情が沸いてくるのだった。
その古傷が、みるみる消えていく。
まるで掌に付いた水性絵の具の汚れが、温い石鹸水で溶かされていくように。
納刀の際に負った古傷が綺麗さっぱりと消え、数年振りに滑らかな姿を取り戻した右掌。
年頃の少女ならば、傷1つない身体に戻れた事を喜ぶのが自然なのだろう。
『もう私は、戻れないのですね…』
だが、それを見つめる私の胸に去来したのは、言い様のない寂寥と、取り返しのつかない喪失感だった。
覚醒させた特殊能力「サイフォース」と、今しがた静脈注射された生体強化ナノマシンによって、私の身体は優れた耐久力と回復力、そして戦闘能力を有している。
それも、常人とは比較にならない高水準の力を。
そんな人間には、常人でしかない門弟達と同様の稽古を受ける事も、常人と同じ試合に参加する事も、許されよう筈がない。
ましてや、師範代として教え導く事など…
門弟達や師範代、そして父と同じ剣の道を歩む資格は、私から失われた。
居合いの古傷と共に、永遠に。
そうなってしまった以上、私は新しい剣の道を探さなければならない。
遊撃服とデザインを同じくする水色の訓練服に着替えながら、そう私は思考を巡らせていた。