第3話 月光貴人
風に棚引く銀色の長髪 青玉の如く輝きを放つ青き瞳
すらりと伸びたしなやかな体 雅と言うに相応しい優美なマスク
道行く人全てが振り返る 世界最強の超ウルトラスーパー美男子
これぞ我らが英雄 学長ダニエル・ムーンライト
だけどそこのお嬢さん この御方にほれちゃいけないよ
人は見掛けじゃわからない 君も知ったらきっとびっくり
見た目は二十五歳でも 信じられぬほどの御高齢
そう一級念魔道士は 決して年をとらないものなのさ
世界最強の超ウルトラスーパー美男子 重ねた齢は何と 驚くなかれ百七十歳
突然室内に鳴り響いた軽やかな電子音は、熟睡していた剣を強引に現の世界へと引き摺り戻した。
時は十二月八日、午前十一時前。陽は既に天高く昇り、師走の薄い光がカーテンの隙間をぬい、アパートの一室へ差し込んでいる。が、剣は、まだベッドの上で布団にくるまったままだったのだ。
「天万」の事務所から直線距離にして北へ約二キロ。そう古くも無ければ新しくもない、2DKのアパートに、剣は一人で住んでいた。河田からの呼び出しがない限り、毎日が日曜日である。低血圧症の剣は朝は苦手で、おまけに寒がり。冬の寒さも手伝って、気の向くままに朝寝をするのだ。
もっとも、夏でも冬でも剣の場合、一年を通して起きる時間は殆ど変わらない。遅寝遅起き、外出も必要最低限という、不健康極まりない生活をおくっているのである。
そんなねぼすけの剣を目覚めさせたのは、電話の呼び出し音であった。ぼんやりとする意識の中で、枕元に置いてあったはずのコードレス電話の受話器を探る剣。受話器はすぐに手にぶつかり、耳へ押し付ける。
「もしもーし!」
寝起きの剣の機嫌は急勾配。低く愛想など欠片も感じられない声が、送話口から相手へ向かって流れていく。すると、まるで飛び跳ねるボールのような勢いで、相手の声が外耳道の中を転がって行った。
「やっほー。ほほほのほーっ」
陽気な、若い男性の声である。しかし明るい声を耳にしても、剣の無愛想な態度は一向に改まらなかった。改める必要もない。改めたところでどうということもない人物なのだ。
「崙か。何だよ、いきなり」
「これから手土産持ってそっちに行く。んじゃな」
「これからって……おい!」
剣が怒鳴り出す前に電話は切れた。受話器からはツーという音が空しく聞こえてくるだけである。
「ったく……。あいつはいつも何を考えているんだ?」
仏頂面で受話器を戻し、取り敢えず着替えると、剣は顔を洗うために寝室である南側の部屋を出た。が、その足は洗面所へ向かう前に止まった。視線が玄関に釘付となる。
ジージャンにジーンズ、頭には赤いバンダナ。剣よりも明らかに二十センチは背が低い、痩せ型の中学生か高校生くらいの少年が、にこにこしながら玄関に立っているではないか。
「テレポートでこんにちわぁ!」
楽しげに叫ぶと、少年は手に持ったスーパーの白いレジ袋を高々と掲げた。が、剣は黙り込んだままだ。不法侵入者を目の前にし、爆発寸前だったのである。手はわなわなと震え、目尻は痙攣。顔は湯気が立つかと思われるほどに真っ赤になっている。
さすがにまずいと思ったのか、少年からにこやかな表情は消えた。そして次の瞬間目を潤ませ、祈りを捧げるように両手を組んで膝を折ったではないか。まるで一昔前か二昔前の少女漫画の主人公を彷彿させるかの如く。
「怒んないで、つるぎちゅわぁん」
可憐な少女でも意識しているのか、少年はわざと高めの声を出した。背後に赤い大棆の薔薇でも浮んできそうな光景である。真剣さなど微塵も無い、見ている側が思わず気分を悪くしてしまうような演技にしか過ぎなかったのだ。
「怒るわい、この馬鹿! 崙! 人の家に断わりもなく入ってくるな!」
「ちゃんと文明の利器を使って連絡したでしょう?」
「なら来る時も文明の利器を使え!」
剣は台所までずしずしと歩み寄ると、冷蔵庫の上に乗っていたミカンを一つ掴んだ。
「このあほんだら!」
悪態と共に放たれたミカンは、少年ーー崙へ向かって真っ直ぐ飛んで行った。
「食べ物を粗末にする悪い子はぁ~ 呪いをかけちゃうぞぉ~」
崙がワンフレーズ歌っている間にミカンは弧をを描き、剣の横を通って冷蔵庫の元の位置へ収まった。
崙が術を使って自分の攻撃をかわしたのを見て、剣も少し落ち着きを取り戻した。ミカン爆弾ごときで追い払える相手ではない。崙は古い学友、その性格は知り尽くしている。けれども剣も、これで憎まれ口を終わらすつもりはなかった。
「朝っぱらからお前の下手くそな歌何ぞ聞きたく無い」
「だって僕、お歌好きなんだもん」
今度は幼児の真似である。崙との付合いは肩はこらないが、とにかくやたら滅多ら疲れるーーその大人気ない言動が故に。
「お前、年いくつだ?」
「僕、三ちゃい!]
剣はもう悪態をつく気力もつき、崙の背中を乱暴にどんと押した。入れ、という合図である。崙のあまりに常識外れの態度に呆れはててしまったのだ。
崙は剣と同じ天万の社員の一人である。年は剣より三歳下の二十九歳。しかし、どう見ようとも外見は十五、六歳、精神年齢にいたっては小学生といい勝負だ。
国際魔道学院の卒業生である崙は、当然のことながら魔道免許を取得している。一級呪術士及び一級念魔道士だ。呪術士課程を「首席」で卒業した崙は、一級免許取得者の特例に従い無条件で念魔道士課程へ進学。剣と机を並べて念魔道術を学んだのだ。
以来、二人の奇妙な付き合いは続いている。だが、剣は性格を除けば、崙自身の事を殆どと言って良いくらい何も知らなかった。
名前一つとってみてもそうだ。名前はただの「崙」。名字などという贅沢な物は、彼の場合存在しない。さらに奇妙な事に、崙には十五歳より以前の記憶がないである。
「僕の頭は初期化されましたぁ」
尋ねても、返って来る答えはいつも同じだった。確かに崙の頭は初期化された。崙は以前の名前も含めた十五歳以前の記憶を、人為的に全て消去されてしまったのである。
では、一体誰がどうやって行ったのか? 日本分校の前呪術士課程主任教師・須賀孝之助が関わっているらしいーーとの噂を剣は耳にしたことがあった。須賀は崙を国際魔道学院へ入学させた人物。さらに須賀は前精神操作士課程主任教師・寺岡龍治と交流が深かった。一級精神操作士である寺岡ならば、人間一人の記憶を消し去る事など、朝飯前である。
しかし、崙の恩師で名付け親でもある須賀も、実際に術を施したと思われる須賀の親友・寺岡も、今はこの世の人ではない。崙の秘密を知っている人物は分校長の黒墨と、学長くらいなものであろう。もっとも本人ーー崙自身が己の過去の事に全く関心を寄せていなかったので、剣も深入りは避けていた。
「初期化されたおかげで俺、普通の人間より脳味噌の容量多くなったんだ。だから呪術士課程、首席で卒業出来たんだぜぃ」
学生時代、崙は剣によく言ったものである。が、須賀の差し金があったにしろ、底抜けに明るい崙が何故呪術などというおどろおどろしたものを学ばねばならなかったのか、剣には理解出来なかった。呪術を悪用しない人物であることは確かだが……。
そんな崙は今、剣の自宅からは駅二つ離れた所にあるアパートで、剣と同じ様にのんびり一人暮らしを楽しんでいる。両親家族共に健在な剣とは違い、身寄りらしい身寄りもいない完全な独り者であったが。
さて、剣は崙を台所へ押し込むと、自身は洗面所へ向かった。崙は小さな子供と同じ。じっとしていることが苦手で、少しでも目を放すと何をするか分かったものではない。そそくさと顔を洗い、新聞片手に大急ぎで台所へ戻った。
案の定、剣が心配していた通りのことが、台所では起きていた。崙が勝手にホットプレートを流し上の物入れから引っ張り出そうとしているのだ。一度は消えた怒りの道下線に、再び火が着いた。
「人の物を断りも無しに使うな!」
剣は手にした新聞でテーブルの端を力任せに叩いた。一瞬びくりとした表情は見せたものの、崙には威嚇射撃程度の効果すら認められない。
「そう堅いこと言うな。お前とは学生時代からの仲ーー」
「誤解を招くような発言は止めんか! 貴様とはただの腐れ縁だろうが!」
握り締められた新聞は、今度は紛うことなく崙の脳天を直撃した。パシーンという気持ちのよい音が苛々を吹き飛ばしてくれたのか、剣の声色も幾分落ち着いたものになっていた。
「そんな物、何に使おうって魂胆だ?」
「まあ、見てて下さいな」
剣の猜疑心をよそに、頭を軽く撫でながら崙はホットプレートの電源を入れ、油を敷いた。さらに水に溶いたホットケーキミックスを流し込み、円状に広げる。剣には崙が作らんとしているものが分かった。クレープである。
が、剣は決して気を許したりはしない。崙は手先が器用で、大の料理好き。それは大いに結構。だが、作る料理には食べる側にしてみれば素直に箸をつけることが出来ない、非常なる問題があったのだ。
全寮制であった学生時代、剣はしばしば崙に招かれて「お手製」料理の最初の試食者ーーいや、犠牲者となったものである。即ち、崙の「素晴らしい」御馳走は、ごみ箱をあさる野良猫でさえ悲鳴をあげて逃げ出し兼ねないような、下手物料理だったのだ。
崙の料理は材料は普通、異常なのは組み合わせ。剣はスーパーのレジ袋の中を覗いてみた。無論、入っていた物はジャムや生クリームなどといった「可愛い」材料ではない。ビニール袋に入った糠まみれの野菜ーー見紛うことなき糠漬けだったのだ。
「俺の究極の新発明、糠漬けクレープ! 絶対うまいぜ。お前も食うだろう?」
崙は声も高らかに新作メニューを発表したが、剣は首をゆっくりと横に振っただけだった。糠漬けクレープなど、まともな味覚を有した者が食べる代物ではない。大方自分の家にはホットプレートがないので、剣の家で試食会をと考えての事だろう。
料理は崙の最大の趣味だ。調理中はこの上ない幸福感に浸る。心は快晴日本晴れ、唇も軽やかにメロディーを紡ぐ。
歌といっても、崙は「既製品」を好まない。歌うものは全て自分で作詞作曲をした歌である。しかし、歌唱力も料理とどっこい。その第二の趣味も、他人にとっては傍迷惑なものでしかなかった。
僕は五センチくらいのちっちゃいカニさ
名前も奇妙きてれつ 雨あられ
だけどなめちゃあいけないよ
僕の体の中には 猛毒のサキトキシンが流れているぅー
おースベスベ おースベスベ
滑って転んですってんころりん スベスベテカテカのお饅頭
そうさ僕の名前は スベスベマンジュウガニぃ~
『スベスベマンジュウガニの歌』に続き、剣が望みもしないのに崙は幾つかあるレパートリーの中からさらに披露していった。
あ~丑三つ刻に あ~白装束を着て
藁人形に五寸釘を刺すぅぅぅ~
だけど見られたらお・し・ま・い
呪いが自分に返ってくるからぁぁぁ~
あ~楽しい丑の刻参り
『楽しい丑の刻参り』、『呪いをかけちゃうぞ』、『僕の髪を拾わないで』等々、呪術パロディソングがお世辞にも上手いとは言い難い声に乗って流れて行った。これでメロディーを外したら最悪であったろうが、有難い事に崙は音痴では無く、剣も何とか耳を塞がずに済んだ。
はた迷惑な歌謡ワンマンショーが終わる頃には、十枚近いクレープが皿の上に乗せられていた。崙は一番上に乗っていたクレープを取ると、何の躊躇いもなく糠漬けを包み込んだ。そして新作メニューを口の中へ突っ込むと、箸が突っ込まれた糠漬けの袋を剣の方へ差し出した。
「うん、うめぇ! やっぱりうめーぞ、最高だぁ! 西洋のクレープと、和の漬け物との究極の合体。さあ、食え食え」
剣は無言で糠漬けを押し返すと、冷蔵庫の中から苺ジャムを取り出した。作る方はまだともかく、食べる方に付き合う気は更々無い。
「それでお前、自分の料理を自慢するためにわざわざ私の家に来たのか?」
そうは言ったものの、剣にはわかっていた。崙は手土産を持ってくるとは言ったが、料理を作りに来るとは言っていない。つまり料理は二の次で、もっと別な用がある筈だ。
剣の皮肉めいた口調に、崙はようやく本来の用件を思い出したようであった。
「そうそう、そう言えばよ。俺にラブレターが来たんだぜ」
たとえ冗談だとは分かっていても、普通の者なら口に含んでいるクレープを吹き出しかねない台詞であった。けれども崙との付き合いが長い剣には、その下手なジョークに対する免疫抗体がすでに出来あがっており、僅かな反応すら見せない。
「で、誰から?」
「月光仮面のおぢさん!」
「学長か!」
剣は思わず舌打ちをしてしまった。国際魔道学院学長ダニエル・ムーンライト。剣は学長が嫌いではない。むしろ学院の最高指導者の名に相応しい実力と非の打ち所のない人柄に、敬意すら抱いていたくらいである。
ーー君こそ、真の召喚士だ。
剣の脳裏に「あの時」の学長の言葉が過ぎった。
国際魔道学院には入学時及び別課程への再就学の際、面接及び厳格なる適性試験を受けなければならないという学則がある。しかし一級免許取得者は、これらを受けることなく自分の希望する別課程へ進むことができるのだ。
かくして、一級念魔道士となって念魔道士課程を卒業した剣は、召喚士課程を選んだ。異世界の、人間外の友人が欲しいーー単純な、けれども熱い希望を抱いて。
だが、半年も経たないうちに剣は熱意は氷の如く冷えきってしまった。悪魔を「強引」に呼び出し、「強引」に服従させて、「強引」にこき使う。何から何まで「強引」ずくめ。悪魔はあくまでも召喚士の奴隷でしかなく、友情関係などという心温まるものは微塵も見当たらない。これが召喚術の実体であったのだ。
剣は嫌になった。やがて講義にも実習にも顔を出さないようになり、一日中寮の自室に籠りきりとなった。剣は頭を悩ませていたのだ。どうやって彼等をこの世界へ招き、友好的な関係を結ぶ事ができるのかーーと。
が、剣は僅か一月足らずで自らの質問の答えを出した。召喚の扉は自分の念力で開ける。悪魔との交流法も、実に単純なものであった。悪魔などとは呼ばれているものの、彼等は人間が思っているほど邪悪な存在ではない。こちらの偏見を取り除き、互いに腹を割って付き合っていけば良いだけの事だった。
自分だけの「召喚術」は完成した。「友達」も沢山出来た。そして三年前の八月、剣は分校長に退学願を提出した。剣は首席でーー学院始まって以来の好成績で念魔道士課程を卒業した超優等生である。その剣が学院の教育方針に不満を持って辞めるとなれば、分校長も素直に退学願を受理するわけにはいかない。事は重要。すかさず分校長はアメリカ本校の学長へ連絡、事態を聞き付けた学長は、自ら剣に会うために日本へやって来た。
学長に剣は術を披露した。もうこれ以上学院で学ぶ必要性がなくなったことを理解してもらうために。ところが剣の術に感銘を受けた学長は、新しい術体系を作った功績として、一級召喚士の資格を与えると申し出たのである。学長の面子に関わるということもあり、剣は仕方なく資格を受けとって退学した。
一級免許を取得して卒業した者には、分校の教師資格が与えられる。当然剣も声をかけられた。念魔道士課程の教師としては勿論、剣だけのオリジナル召喚術も伝授してはどうか、と。しかし、剣は人の世話が苦手で、窮屈な肩書きが大嫌い。申出を断り、創設直前の『天万』へ就職したのである。
今でも分校長から教師にならないかという誘いは来る。その一方で、正規の過程を経て召喚士課程を卒業した一級召喚士の中には、剣のことを快く思わない者もいるらしい……。
一級召喚士免許など、有り難迷惑でしかない。役に立つといえば、資格取得証を見せる相手に威嚇効果があるだけぐらいなもの。やれやれ……と剣が昔の事を思い出している間に、崙はポケットから問題の手紙を取り出した。
「学長、近いうちに日本に来るんだとさ。それでもって久し振りに会いたいと。わざわざ横浜まで出て来てくれるってさ」
ぽんと目の前に出された手紙を、剣は手にとった。文字は全て万年筆で書いたと思われる肉筆である。学長はタイプやワープロなどの機械的な文字を好まないのだ。更に生粋のアメリカ人であるにもかかわらず英語の部分はサインだけで、文章は漢字混ざりのしっかりとした日本語。しかも達筆ときている。
「手紙にはただ会いたいとしか書いていないな。何企んでいるんだ、あの人」
一通り手紙に目を通した剣は、訝しげに崙の方を見詰めた。だが崙は食べる方に夢中で、剣の心配事などまるで気にかけていない。
「別にいいじゃんか。会いたいって言うんだから。」
「しかしなぁ……」
剣の眉間には無意識のうちに皺がよっていた。気が進まない。学長に会うのは。過去の事を云々言っているのではなく、もっと単純な理由があったのだ。
剣があれこれ悩んでいる間にも全てのクレープを平らげた崙は、さっさと後片付けを始めた。「料理人たる者、後片付けまでしっかりやる」がモットー。剣が感心できる、数少ない崙の主義主張であった。
「風に棚引く銀色の長髪ぉ~ 青玉の如く輝きを放つ青き瞳ぃ~」
ホットプレートを洗いながら崙は十八番の『我らが英雄 ダニエル学長』を歌い始めた。しかし、学長との再会の事で頭が一杯の剣には、その歌など全く耳へ入っていなかった。
「目立っているよね、おもいっきり……」
「うん!」
手紙が届いた次々週の日曜日。剣と崙は横浜駅の西口と東口を結ぶ連絡通路内の売店の影から、目指す人物を遠巻きに見詰めていた。
横浜駅連絡通路内に据えられた『赤い靴』の像。童謡で有名な「赤い靴を履いていた女の子」の小さな像は待合わせ場所のメッカで、周辺には日曜日ということもあり、大勢の人々が集まってきている。無論、ここで誰かと待合わせをしているのだ。
問題の人物もその中にいた。ベージュのトレンチコートを着た、二十代半ばの白人男性ーーと、一言で表現できるような人物であれば、剣達もためらうことなく近付いていくことができた。しかし、相手は一筋縄にはいかない人物。怖いもの知らずの二人の足に足枷をかけるのには、十分すぎるほどの威厳を放っている。
彼は目立つ。ひたすら目立つ。日本人の中にいる外国人はただでさえ目に止まりやすいと言うのに、雀の群の中に混ざっている鶴のように雅やかで目立つのだ。さらさらした背にも達する長い髪は月の光を映したような銀色で、澄んだ瞳は空色。素晴らしく背が高くーー百九十センチはあるだろうかーー肌も透けるように白い。そして何よりもかのアラン・ドロンさえも凌ぐかと思われる整った顔。俗に言う「美形」というやつである。
当然のことながら、通りすがりの人々の視線がシャワーの如く注がれる。けれども彼は臆する様子一つ見せない。時折腕時計に目をやる程度で、清流のような涼やかな面持ちを保ち佇んでいた。
「エ、エクスキューズミー、ミスター」
バイリンガルまでとは行かなくとも、英語の心得があると思しき若い女性が、彼に話掛けてきた。相手が外国人であり、かつ恐ろしいほどの美男子であるので、興味があっても誰も声をかけられなかったのだ。ともなれば、その女性はかなりの勇気の持ち主である。もっとも、軟派が目的なのであろうが。
「無理に英語を使って頂かなくても結構」
驚いた事に、外国人男性は日本語で返答した。妙な言語の上がり下がりなど全く無い、見事なほど流暢な日本語で。あっけにとられたのは女性の方である。予想外の展開に焦りの色を隠せない。
「に……日本語お上手ですね」
「有り難う」
口元がほんの僅か緩んだけで、彼の表情には殆ど変化が見られない。全く関心を示していないのである。
「学長!」
見知らぬ女性が目標人物に声をかけてきたことで足枷が外れたのか、剣は小走りに彼と女性との間へ駆け寄った。さっと身を引く女性。剣の突然の出現と、「学長」という言葉に面食らったらしい。機を逃さず、剣は彼をまだ売店の側にいた崙の近くまで誘導した。
「学長、どうもお久し振りです」
剣は外国人男性ーーダニエル学長に改めて挨拶をした。崙もへらへら笑いながら一礼する。ダニエル学長はここで初めて笑顔を見せた。
「阿比沼君、崙君。君達も元気そうで何よりだ。ところで約束の時間を五分ばかり過ぎているが、何かあったのかね?」
ダニエル学長の言葉に、剣は心臓を素手で掴まれたような感触を覚えた。剣にはわかっていた。学長は嫌味を言ったつもりはないと。剣も崙も在学中は無遅刻を通した時間厳守派だったので、単純に疑問を覚えただけなのだ。それでも約束の時間に遅れた「無礼」に対する恐怖心は半端なものではなかった。
「そ、それが、バスが定刻よりかなり遅れまして」
理由をはっきりと口にすることなど到底出来ず、内心冷汗をかきながら、剣は何とかごまかした。崙は知らぬ振りを決め込んでいる。
「そうか。人込みの多い所からテレポートする訳にはいかないからな」
ダニエル学長は深く突っ込む事はしなかったーー剣達にとって有り難い事に。
「さて、まずは喫茶店へでも入って腰を落ち着けよう。君達、何処か良い店を知っているかね?」
「はーい。俺がコーヒーの美味い店を知ってまーす」
崙の元気良い返事に、ダニエル学長は静かに頷いた。剣も敢えて反対しない。崙の言う店は、コーヒー通を自称するの河田の行きつけの店でもあるのだ。
その「コーヒーの美味い店」は、横浜駅より二つ先の関内駅が最寄り駅だ。三人はJR京浜東北線の下り電車に乗った。移動にかかる時間はほんの五分程度。しかし、剣には異様なほど長く感じた。電車のドア際に立つ剣達三人ーー正確にはダニエル学長ーーに好奇の視線が集まる。呑気な崙は殆どと言って良いくらい気にはしていなかったが、剣は違った。学長と一緒にいると、自分までも変な目付きで見られる。剣の気分を重くしている理由は、まさにこれであった。
剣は癇癪持ちで乱暴な性格の持主だ。ただ三十歳を過ぎ、社会人としての礼儀作法は心得ているつもりであった。相手は学長、他人のふりをしたくても出来ないのが現実。やむを得ず剣は学長の傍らに立ちつつ、窓の外の風景へ目をやっていた。ところがそこへひそひそ話にしては些か大きめの声が、耳の中へ飛び込んできた。
「見て見て、あの超ハンサムの隣にいる二人。あのちんけな男の子はともかく、あっちの娘と彼はまさに『美男子と野獣』よね」
「あはは、ほんとー」
声の主は少し離れた所に座っている、女子高校生らしき二人組であった。今し方ホームの自動販売機で買ったと思われる、まだ封の切っていない缶コーラを手に、黄色い声をあげて無邪気に話している。
「ちんけな男の子」とけなされた崙は、お喋り雀のたわごとなど意に介さず。ドアにだらしなく寄り掛かったまま聞こえない振りをしていた。だが、剣は違う。たちまち頭の中で怒りの火山が火柱を上げて大噴火だ。
剣は時として男性と間違えられる自分が、決して美女ではない事を良く承知しているし、むしろ「ぶす」だとも思っている。が、「野獣」呼ばわりされる筋合いはどこにもない。しかも相手は自分より年下の者である。馬鹿にするにも程があろうというもの。剣は自分を侮辱した者を許すほど寛大な人物ではないし、黙って見逃すような真似もしない。
数秒後。女子高校生等の笑い声が突如悲鳴に変わった。コーラが蓋を弾き飛ばして間欠泉と化し、猛烈な勢いで二人の顔を直撃したのである。悲鳴を耳にし、車内の人々は一斉に振り返った。一瞬辺りを静寂が漂う。
コーラの暴発に女子高生はしばし呆然としていたが、わっと泣き出した。顔はぐしゃぐしゃ、髪の毛からぽたぽた滴り落ちる水滴。あちこちから押し殺したような笑い声や、ぶっと吹き出す声があがる。乗客達は必死に笑いを堪えているのだ。「良識のある者」彼等は、大爆笑は出来なかったのである。
「阿比沼君」
密かに勝利の笑みを浮かべる剣を、ダニエル学長はちらりと横目で睨んだ。無論、今の出来事が剣の仕業であることはお見通しだ。魔法を悪用するべからずーー魔道士の心得の中でも、最も重要とされる事柄である。ただ、報復と言っても悪戯レベルに過ぎなかったので、ダニエル学長も軽く注意を促す程度で済ませた。
お説教が殊の外あっさり終わったことに安堵したのか、剣はそっとダニエル学長に声をかけた。
「あのー、学長」
「何かね?」
「その……お願いですから、サングラスくらいかけて下さい」
「そうしよう」
嫌な顔一つせず、ダニエル学長はトレンチコートの胸ポケットからサングラスを取り出した。その様子に剣はふうと溜息をついた。ダニエル学長の青い魅力的な瞳は、異性を虜にする。これでかなりましになったと一安心したのだ。
ダニエル学長は暗闇を照らし出す月のように目立つ存在だ。しかし、明るすぎる月には雲をかけなければならない。
ーー全く、素顔のままの学長と一緒にいるくらいなら、本物の月光仮面といた方が遥かにましだ……。
思わず心の中で叫ぶ剣。ダニエル学長が一級精神術士であることも忘れて。
剣、崙、ダニエル学長の三人は、JR関内駅にほど近い、コーヒー専門の喫茶店へやって来た。剣がアンチーク風の木の扉を押すと、からからと気持ちの良い音を立ててドアベルが鳴った。店内には店員を除いて誰もおらず、客をが来たと知るやアルバイトと思われるウェイトレスが、急いでカウンターから出て来た。
が、剣のすぐ後に立つダニエル学長を見た途端、ウェイトレスの頬は真っ赤になった。いらっしゃいませ、という言い慣れた筈の決まり文句すらぎこちなく聞こえる。
ーー女殺し。
剣は半ば呆れながら、そして崙はひやかしの口笛をと吹きながら、心の中で同じ台詞を呟いた。
しかし、ダニエル学長がプレイボーイなどではない事は、剣も崙もよく知っていた。美丈夫な学長のこと、本人さえその気になれば女性を魅了する事など朝飯前な筈。けれどもダニエル学長は妻が若くして急逝して以来、再婚はおろか恋人すら作らず、ずっと独身で過ごして来たのだーー百四十年もの歳月を。何と、学長は現在百七十一歳なのだ!
長寿の秘密は、ダニエル学長が一級念魔道士ーー遠見士を除く全ての一級魔道免許を取得しているがーーだということにある。念魔道士の力の源は念力。体から溢れた念力は新陳代謝を活発にさせる。優秀な念魔道士ほど溢れる量が多く、老化現象までも抑えてしまう。一級年魔道士ともなれば完全に老化は止まり、覚醒が始まった時から永遠に足踏みを繰り返すーーといった訳だ。剣と崙にも当然、学長と同じ運命が待ち構えている。「万年××歳」と呼ばれる所以である。
さてーーウェイトレスは硬直状態だった。しかし流石というか、ダニエル学長はこの様な女性の態度になれきっていた。伊達に百七十年間生きてはいないのだ。
ウェイトレスの緊張を解きほぐすかのように、ダニエル学長は穏やかな声でゆっくりと話しかけた。サングラスを外し、微笑みを浮かべる事も忘れない。
「禁煙席はあるかね?」
「は……はいっ! ございます」
しっかりした口調で答えるウェイトレスに、ダニエル学長は白い歯を見せた。
「では、案内して頂こうか」
三人は店の一番奥の席へ案内された。メニューを差し出し、「御注文がお決まりになりましたらどうぞ」と言ってウェイトレスはカウンターの奥へ消えていった。
「学長は煙草は吸わないんで?」
トレンチコートを脱いで黒いスーツ姿となったダニエル学長に、崙は質問をした。
「ああいう体に良くない物は、百四十年前に止めた」
さりげなくそう言うと、ダニエル学長は椅子へ腰掛けた。百四十年前というと、日本では幕末の頃。アメリカでも禁煙意識などなかった筈だが……。
間もなく先程のウェイトレスがオーダーを取りにやってきた。
「モカを頼む」
「じゃ、私はオリジナルブレンド」
ダニエル学長と剣が注文を済ませると、崙がにこにこしながら言った。
「俺はアイスコーヒーとーー」
「レモンスカッシュとマヨネーズのミックス」と言おうとしたところへ、剣が隣の席から後へ手を回し、崙の背中を思い切り抓った。
「アイスコーヒーと何でございましょうか?」
小首を傾げるウェイトレスに、崙は必死になって痛みに耐え、答えた。
「てて……アイスコーヒーだけでいい……」
まともな注文を出したので、剣は手を離した。崙がメニューをろくに見ていなかったので、この下手物食いが何を頼むのか、想像に難くなかったのである。
ウェイトレスの姿が見えなくなった事を確かめると、剣は真剣な目付きでダニエル学長を見据えた。
「学長、こんな年末の忙しい時期に、どうして日本へやって来られたんですか? 私達に何か特別の話でもあるとか」
剣の質問に、ダニエル学長は僅かに相好を崩した。勿論、ごまかし笑いなどではない。真意を見抜かれて苦笑したのだ。
「今回の来日は観光が目的だ。だからきちんと航空機で成田から入国し、正規の入国手続きも済ませてきた。だが阿比沼君、君の言うように『話』もある。いや、これは頼み事か」
「頼み事……と言いますと?」
「近年、日本分校は優秀な卒業生を輩出している。特に先期、三人のダブルロードを出したことは、誠驚きに値する。その三人に含まれる君達二人は、河田君の許で世のため働いているようだが、残る一人の龍原君は……」
龍原と言う名を耳にした時、剣の眉根が一瞬ぴくりと動いた。剣は一級文魔道士と一級召喚士の資格を持つダブルロード・龍原白夜に好意的では無く、その名前にも敏感に反応する。もっとも白夜を「くそ馬鹿野郎」と罵倒する曇人に比べれば、剣の嫌い方など可愛いものだが……。
「我々は彼に関する好ましくない情報を入手した。己の欲望だけがために、学院で得た力を利用している、というのだ。ただこの情報は具体性に欠け、さらに噂レベルでしかない。そこで君達にも情報収集に協力して貰いたいのだ」
「やっこさん、確か卒業後一年間は文魔道士過程の教師をやっていましたよね。一昨年退職した後は、どうなったんで?」
崙の質問にダニエル学長は首を横に振った。
「残念ながら彼の消息は不明だ。遠見士課程長に探ってもらったのだが、龍原君も一級文魔道士。対術結界をはっているのか、気配を完全に消しているのか……。とにかく分からなかった。ところで、君達は何か心当たりがあるかね?」
抓られた箇所を擦りながら、崙は肘で剣を小突いた。お前何か知っているんだろう、と言わんばかりに。崙も聞いてはいたのだ。ロイヤルハートの件に関しては。
崙に急かされ、あまり気乗りがしながらも剣は先月起こったロイヤルハートの事件について語った。希代の名馬を殺した犯人。曇人は白夜が怪しいと感じており、剣も同感であった。剣が知っている範囲で、文魔道士と召喚士の免許を取得している者は、ダニエル学長を除けば白夜しかいないのだから。
しかし、曇人の意見には完全に私情が含まれている。雲人は文魔道士課程に籍を置いた三ヶ月間、当時同課程の教師であった白夜に劣等生のレッテルを貼られたのだ。
「なるほど……。その様なことがあったのは、黒墨君からも報告を受けている。確かにその人物が龍原君である可能性は否定できないな。そちらの方面からも調べてみよう。無論、君達も」
「わかりました」
要請に応じたものの、剣の心境は些か複雑であった。学院の意志に反した者がどうなるか、剣は良く知っている。全ての魔道免許を取り上げられた上、精神操作士によって記憶消去の憂き目に遭うのだ。剣も魔法の悪用は極力慎んでいるが、いつ我が身のこととなるか分からない。他人事ではないのだ。ましてや剣は身に覚えのない恨みを一部の者に持たれている。濡れ衣を着せられる危険性もあるわけで、油断は出来ない。
「我々は黒魔術団ではない。魔法の平和利用と悪しきイメージの排除を志し、私の父は今から二百年前、当学院を創設した。私は父の遺志を忠実に受け継ごうと考えている。よってこれに反する者は、罰さなければならないーー非常に残念なことだが」
ダニエル学長は己の決意の堅さを示すかのように、強い口調で述べた。うんうんと頷きながら、崙はやや暗い表情の剣の方を横目で見た。
『そーゆーこと。白夜はお前が一級召喚士の資格を取ったことに反発して、一泡吹かせてやろうと企んでいるそうじゃないか。ならやっこさん、捕まった方が好都合だろう?』
崙のテレパシーに剣ははっとなった。確かに崙の言う通りだった。それにもし本当にロイヤルハートを殺した犯人が白夜だったら……。矢部の悲しげな表情が思い出される。あんな思いはもう誰にもさせたくはない……。
ーーふっ……。その時は容赦せん!
剣は拳を堅く握り締めた。注文の品を持って来たウェイトレスが、不思議そうな顔をして眺めているのも知らずに。
一時間ほどで喫茶店を後にした一行は、東京方面へ駅を一つ戻り、桜木町駅周辺に展開する『MM21』地区までやってきた。横浜の新名所へダニエル学長を案内するためにである。
いつもならばテレポートで離れ小島にある日本分校へやって来る程度のダニエル学長が、わざわざ飛行機での来日。今の時期は、各分校で行われる二級免許取得試験が終わった直後。五年に一度の重要イベントが終了し、のんびりと息抜きがしたくなったのだろう。「観光が目的」という言葉も、まんざら嘘でもなさそうだ。テレポートによる「不法入国」では、町中をぶらつくことなどできないのだから。
今年オープンしたばかりの日本一の超高層ビル・ランドマークタワー。ルーブル美術館の絵画が展示された事もある横浜美術館。遊園地や港湾関係の博物館まである。優美な姿を見せて停泊している帆船日本丸も観光の目玉だ。
「あれは何かね?」
ダニエル学長が指差したのは、遊園地ーーよこはまコスモワールド内にある大観覧車であった。ゆっくりと回転する巨大円の中央には、デジタル時計が据えられている。
「あれはコスモクロック21ですね。ほら、ゴンドラを支えるアームの所が光っているでしょう? 一秒に一つずつ、順に着いていくんです。つまり、秒針になっているわけですね。何でも、世界一大きい時計ということで、ギネスブックにも載ったとか」
「何処の国でも『世界一』の物が好きなのだな」
剣の説明を聞いてダニエル学長は楽しいそうに笑ったが、その笑い声に隠れるようにして剣はさらに付け加えた。
「あれは確かモスラに壊されたんだよねぇ」
すると崙は軽く首を横に振り、剣の独り言に横槍を入れてきた。
「ブッブー! 残念でした。あれを壊したのはゴジラ。でもってそのゴジラにコスモクロックをぶつけたのはバトラ。忘れたのか、お前」
頭を初期化されただけに、崙は人一倍記憶力が良い。一年ほど前に公開された映画を細部までしっかり覚えている。問題の映画ーー『ゴジラ対モスラ』を、崙と剣は恥ずかしげもなく子供達に囲まれて鑑賞したのだ。映画のメイン戦闘シーンの舞台はここMM21であったのである。
突然バレリーナのように、崙はゆっくりと手を広げた。映画に感化されて自作した「大極彩色の蛾の舞」と称するダンスを、久し振りに踊ってみたくなったのだ。慌てて崙を羽交い締めにする剣。そこへダニエル学長が二人の方を振り返り、剣は慌てて崙を突き飛ばした。
「何をしているのかね?」
「はははは……何でもありません」
「そうか。ところで、あの観覧車には乗れるのかね?」
何と言うことのない質問だったが、剣は口を閉ざしたままだった。代わって崙が答える。
「そりゃ、勿論ですよ」
「では乗ってみよう」
「乗りましょ乗りましょ。勿論、学長のおごりですよね?」
崙はうきうきしながらスキップした。普段の剣であれば、「おごれ」などという崙の無礼な発言を許さず、喝を入れているところだ。ところが剣は俯いたまま、無言で前を行く二人の後を付いてくるだけ。しかも足取りは重い。
かくして三人は観覧車のゴンドラへ乗り込んだ。巨大な鉄の箱は最高百五メートルの上空へ向かい、ゆっくりと上昇して行く。
「おや、阿比沼君。顔色が良くないようだが……」
ダニエル学長は、正面の席に座る剣の様子がおかしいことにようやく気付いた。剣は顔面蒼白、全身から冷汗が溢れ、足をぶるぶると震わせている。
「こいつ、高所恐怖症なんですよーー半端じゃない」
剣の隣に座る崙がにやにやしながら言った。驚いたのはダニエル学長である。
「そういう事は乗る前に言いたまえ。崙君! 知っているのなら何故ーー」
「……あ、御心配無く。外さえ見なければ大丈夫ですから……」
そう剣は言ったものの、普段の威勢の良さはかけらも無く、声もか細かった。崙は少しやり過ぎたかな、とでも言うように舌を出している。
三人は搭乗するところを大観覧車の係員に見られている。迂闊にテレポートをして脱出すれば、怪しまれてしまうだろう。つまりーー最後までこの大観覧車に乗っていなければならないのだ。
外の景色を見なければ大丈夫、とは言ったものの、剣の台詞も半ば強がりでしかない。ただ高いビルへ上るくらいならば剣も平気な顔をしていられるが、問題は外の光景が見えるような場所へ来た時。周囲が透けるエレベーター、高層ビルの屋上……など。ましてやこの大観覧車は、鉄のアームのみで支えられている。見た目は不安定極まり無く、それが剣の不安をますます煽り立てているのだ。
屈み込みながら、剣は考えた。突風が襲って来たら……。観覧車が途中で止まったりしてしまったら……。もし、アームが折れたらどうしよう……。恐怖心は限りなく巨大になっていく。たとえ事故がおこってもテレポートで脱出すれば良いこと、しかし剣の思考は不安に押し潰され、まともに働かない。
心配したダニエル学長が、剣を催眠術で一時的に眠らせようと呪文を唱え始めた時だった。突然、周囲の光景が墨を流したような暗闇に包まれたのだ。時刻は十二時半を回った頃。日の短い冬とは言え、日没にはほど遠い。突如訪れた夜に、剣もはたと顔を上げた。
「学長、これは一体……」
剣にいつもの冷静さが戻った。目の眩むような景色さえ見えなければ、もう大丈夫というわけだ。
「何か近付いてきまーす」
崙がこんこんと窓ガラスを叩き、二人の気引いた。崙から見て左手から、確かに何かがやってくるーーゆっくりと。二本足で歩く、トカゲのような生き物が。巨大な頭。裂けた口とその中に並ぶナイフのような牙。巨体に比べて貧弱な手……。崙は奇声を上げた。
「ゴジラだぁ!」
「違う! あれは恐竜ーー白亜期に生息していたティラノサウルス・レックスだ!」
剣の解説に、崙がほーっと感嘆の息を漏らす。
「さっすが元理系人間。分析が細かいなー」
「馬鹿! そんな事言っている場合か!」
一瞬にしてお化け屋敷と化した大観覧車の中で、剣は怒鳴った。あのティラノサウルス、先に公開された恐竜映画のCGなど、比べ物にならないほどリアルだ。映画のようなぎこちない動きは見せず、匂いすら発散させている。口の中には粘っこい唾液すら見えた。
ティラノサウスルはゴンドラの中を覗き込んだ。黒い爬虫類の瞳が、中にいる三人を捕らえる。
「わーい、ジュラシックパークだ、ジュラシックパーク! ジュラジュラ~ジュラシック~ 怪獣ランドだガオー!」
即興で作った曲を歌ってはしゃぐ崙の頭を、剣は軽くはたいた。
「何呑気に歌っているんだよ! 学長、術を使いますよ!」
剣はすっくと立ち上がり、ポインターペンを抜いて念集中の準備に入った。ダニエル学長は焦る様子一つ見せず頷くと、ティラノサウルスの目を指差した。
「分かりました。行くぞ、念魔道衝撃波!」
狙い違わず、ポインターペンから放たれた衝撃波は窓ガラスを突き破り、ティラノサウスルの目を貫いた。低い、くぐもったような声をあげて倒れる恐竜。が、地響きを立てて倒れた巨体は、まるで飲み込まれるように暗闇の中へ消えてしまったのだ。不可解な現象に首を捻った剣であったが、
「おーい、また来るぞぉ」
という崙の声に休む間もなく身を奮い立たせた。今度は剣の前方と左右の三方向から来る。三本角の突撃型装甲車、トリケラトプス。鎧のような鱗に覆われ、尾に棍棒を持ったアンキロサウルス。後ろ足の一際大きな爪を立てながら走ってくる小型の恐竜は、ディノニクスか。
剣ははあとため息をついた。衝撃波では一度に三匹相手は苦しい。別の術を使えば容易に事は片付くが、戦力は何も自分一人だけではないのだ。剣は呑気に座席で胡座をかいている崙の方を睨んだ。
「崙、ぼさーっとしていないでお前も手伝え! 学長をお守りしろ!」
「あいあいさー」
軍隊式の敬礼と共に崙も参戦。剣の衝撃波がトリケラトプスとアンキロサウルスを蹴散らす間に、崙はディノニクスを火炎砲で黒焦げにした。
ところが恐竜軍団の攻撃はこれだけに留まらなかった。恐竜には詳しい剣ですら知らないようなマイナー恐竜達が、次から次へと襲いかかって来る。しかしそのどれも例に漏れず、ただの一撃で消滅してしまうのだ。
十数発放った後に、ようやく相手の攻撃は収まった。観覧車の窓ガラスは剣達の念魔道力を受けて飛び散り、跡形もなくなっている。
剣は肩で激しく息をし、崙も「いや、まいったまいった」というような表情を見せている。これほどまでの連続技を用いたのは、一級免許取得試験以来だ。するとーー
「お客さん、お客さん」
若い男性の声に剣は我に返った。大観覧車の係員がゴンドラの扉を開けたところだ。
「早く出て下さい。そうしないとまた上に……」
剣は目を見開いた。暗闇など何処にも見えない。あるのは昼間のMM21だけ。剣達を乗せたゴンドラは、十五分の空の旅を終え、下の乗降場へ戻ってきていたのだ。しかも、あれほど派手に割れていた窓ガラスさえも、何故か元通りになっている。
剣は慌てて地面へ飛び下りた。大観覧車はゆっくりではあるが、常に回り続けている。降り損なうともう一度恐怖の旅が待っているのだ。
崙とダニエル学長も後に続いて降りた。近くのベンチに腰を下ろすと、ダニエル学長はまだ息の荒い剣に向かって言った。
「君が高所恐怖症とは知らず、申し訳のないことをした。すまなかったね」
「い、いえ。それよりもさっきの恐竜、何でしょうか? もしや誰かの術ではーー」
剣がそう言い掛けた時、ダニエル学長はふと左手へ目をやった。
「そうだな……。いや、なかなか面白い趣向だったよ、黒墨君」
剣と崙の口から同時に「えっ」という声が漏れた。
「いやー、さすがは学長! 何もかもお見通しとは」
植木の影から見覚えのある人物がひょっこり姿を現した。紋付きの羽織袴に下駄履き、手には扇子。鼻下から顎まで髭をぼうぼうにはやした、「熊親父」と呼ぶに相応しい五十歳くらいの男性であった。
豪快だが耳障りな笑い声と、カラコロという下駄の音。懐かしいと言えば懐かしい音だった。この人物こそ剣も崙ももう三年も会っていない、国際魔道学院日本分校校長・黒墨太司その人だったのである。
黒墨はダニエル学長と握手すると、剣の方へ歩み寄って肩をばんばんと嬉しそうに叩いた。
「あっびぬまくーん! いや、君も元気そうだな。おお、崙君もいたか。我が分校が誇る秀才が二人お揃いとは、めでたい、めでたい」
黒墨は崙の肩の上にも手を下ろそうとしたが、崙はするりと身をかわした。黒墨に対する態度は、三年前と全然変わっていない。
ーー全く、これでよく分校長が勤まるよな……。
学生時代から、剣は常々疑問に感じ続けていた。派手なパフォーマンス。よく言えばおおらか、いや大雑把な性格。日本文化を誇示するかのような服装……。日本分校の生徒全員が剣と同じ疑問を抱いていたのは、言うまでもない。「それだけ日本が平和な証拠さ」などと言う者もいたが。
とはいえ、黒墨に「借り」がある剣は、素直に頭を下げた。
「あ……分校長、先日はどうもありがとうございました。おかげでJRAや警察に怪しまれずに済みました」
「ああ、あの事か? なーに、卒業生の面倒を見るのもわしのだいじーな仕事の一つだ。気にせんでも宜しい。わっはっは」
笑いながら黒墨はぱっと自慢の扇子を開いた。愛用の白い扇子に描かれているものは日の丸でもなければ、『よっ、日本一!』という台詞でもない。六芒星をあしらった、国際魔道学院の校章であった。
「それにしても見事な幻術だったよ、黒墨君。さすが一級幻術士だけのことはある」
ダニエル学長の台詞で、剣と崙は初めて暗闇の中の恐竜軍団の正体に気付いた。全ては黒墨が作り出した幻影にすぎなかったのだ。剣達は何も知らず、幻の恐竜と戦っていたのである。もっともダニエル学長は当の昔に全てお見通し。だからこそ自らは手を出さず、剣達に任せたのであろう。
「お褒めにあずかって恐縮です。ですが学長に比べればまだまだですよ。まあ、せっかく観光にいらしたんですから、楽しんで頂かないと……と思いまして」
「なかなか楽しかったよ」
ダニエル学長はにこやかに微笑んだ。アナクロ好きな黒墨らしからぬ、タイムリーで派手な演出に満足したらしい。
「ところで学長、腹がへってはいませんかな? 中華街にでも行って、昼飯としましょうや」
黒墨の言葉に、ダニエル学長はふと時計を見た。もう午後一時近い。
「そうだな……。そうするとしよう」
「あっ、学長、分校長! それなら俺の家に来ませんか?」
崙が唐突に手を挙げた。不吉な予感にさっと顔色を変える剣。
「崙君、君が何かわし等に御馳走でもしてくれるというのかね?」
黒墨が興味深そうに尋ねると、崙は元気良く返事をした。
「はーい、そうでーす! 俺がこの間考案した、最新作! 東洋日本と西洋フランスの伝統の味が合体した、究極の料理! 学長や分校長にも是非食べてもらいたいでーす。そういう訳で剣、ホットプレート貸してーー」
崙ははたと辺りを見回した。が、剣の姿はもう何処にもなかった。
「ダブルロード」如何だったでしょうか。話が佳境に入った部分で終わるという、尻切れトンボな内容。本来であれば第4話と第5話に天万の残る二人の社員を登場させ、第6話からクライマックスへ……という予定でしたが、頓挫してしまいました。今回の投稿は連載の合間のちょっと息抜き……といった感じでしょうか。
前書きにもありましたように、この小説を書いていたこと事態、長らく忘れておりました。書籍版「紙使い」の後書きにも現代物は書いていないようなことを載せてしまいましたし。それが何かの拍子に「ああ、あんなの書いていたっけ」と思い出した次第です。
さて、「何かハリー・ポッターと似ている箇所がある」と思われても不思議ではありませんが、本作品の舞台となっている時代は1993年です。Windowsもまだ発売されていない、四半世紀前も昔ですね。第1話の初校を書いたのも日記によれば同年となっております。この頃は東芝のルポ(ワープロ)を叩いて作成していましたね。いやはや、本当に昔のことです。
それでは本来の連載の方へ戻ります。今後ともどうぞよろしくお願いします。