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ダブルロード  作者: 工藤 湧
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第2話 優駿幻夢

 轟く歓声 高まる興奮

 つむじ風は巻き上げる 人々の夢と欲望を

 華麗なる競走馬(サラブレッド) 走る芸術品と呼ばれし者達

 彼等こそ競馬場の主役

 馬達は緑のターフを矢の如く疾走する

 されど勝利者はただ一頭

 見よ! 優勝馬表彰区画(ウィナーズサークル)に立つ馬を

 あれぞこのレースの覇者

 だが目を凝らしてみるがいい

 ガラスの四肢から伸びる影

 果たしてあれは一体馬のものなのか?



「おい! お前が来たがるから来たんだぞ」

 猛烈な人混みの中で、河田は自分の横に立つ剣に文句を言った。

「嘘はいけません、嘘は。最初に来たいと言ったのは社長で……むぎゅっ!」

 剣の顔は隣り合う男の頭に押し潰されてしまった。河田も押されまいと抵抗するので手一杯。離れ離れにならないよう、剣は河田の上着の袖を掴んだ。が、勢い余って肉まで摘んでしまったようで、

「ぎゃーっ、いてて!」

 河田はたまらず悲鳴を上げた。もっともその叫び声も、人々の歓声にかき消されてしまったが。

 時は秋も深まる十月の第五日曜日。空には雲一つ無く青く澄み渡り、日本晴れと呼ぶに相応しい天気である。

 一年の中でもで最も過ごしやすい季節のこの日、東京郊外にある府中競馬場は沸きに沸き、熱狂と興奮の渦に包まれていた。それもその筈、本日の第十レースーーメインレースは、グレード(ワン)レース・秋の天皇賞なのだ。天皇賞は日本のトップクラスの馬達が集う重賞レースの一つ。年に一度の祭典を己の目で観戦しようと、多くの観客が府中競馬場へとやって来た。人、人、人。溢れんばかりの人。何処を見ても場内は人だらけである。

 やがて発走前の下見場(パドック)に出走馬が現れると、人々は我先へと押し掛けた。馬達の状態を見極めんとする、一攫千金を夢見る馬券師。ひいき馬の応援にやって来た熱心なファン。カメラ片手に行楽気分で観戦へ来た若い娘。皆少しでも側で見ようと、前へ前へと殺到する。朝のラッシュアワー並の人込みの中に、剣と河田もいたのだ。

 まだひりひりする腕を擦りつつ、河田は剣に尋ねた。

「お前、競馬は相当やっているんだろう?」

「馬券購入歴はたかが知れています。うちの親はそういうことには厳しくて、大学を卒業するまで馬券は買えなかったんです。でも競馬観戦歴はそれに十七年程加算されますよ」

 些か自慢気に話していた剣ではあったが、急に目付きが変わった。人を困らせる時に良く見せる、流し目に。

「そんなことよりも社長はどうなんです? いい年して競馬何かに夢中になっているから、未だに独身なんですよ」

「念魔道士は実年齢に拘らなくても宜しい」

 痛いところをつかれつつも、河田は反論した。

「俺は二級(マスター)資格しか持っていないし、事実実力もその程度だ。人並とは行かないまでも、ちゃんと年はとる。万年十七歳のお前とは違う」

(ろん)は万年十五歳ですよ」

 剣の苛ついた口調を耳にした河田は、これ以上突っ込むのは危険だと感じた。剣の怖さは自身が一番良く知っている。河田は強引に話題を変えた。

「そう言えば崙は来なかったな。まあ、あいつのことだから昼寝している方がいいんだろう。それでお前、一応全員に声は掛けたんだろう?」

「ええ。でも(りょう)君はこんな所に連れて来る訳にはいきませんから、誘いませんでした」

 剣の機嫌が良くなったことを確認し、河田はさらに話を続けた。

「そりゃ白い杖持ったあいつを、人混みに連れ出すのはちょっとなあ。で、天本は?」

「てんちゃんはショッピングです。友達との約束とか」

「倉坂は来ると思ったんだがなぁ」

「今の季節、あの自転車少年は箱根までサイクリングですよ。彼は飼われている生き物よりも、野生動物の方が好きなんです」

「あのドリトル先生が来れば、馬の調子なんかちょこちょこっと聞き出して……」

 河田は残念そうに舌打ちした。されど剣は知らぬ顔。何故なら今日の天皇賞の勝利馬は、始まる前から決まったも同然だったからだ。

 その馬の名はロイヤルハート、明け五歳の牡馬。体躯は黄金を思わせるかのような輝く栗毛に包まれ、尾とたてがみは銀色に近い白だった。尾花栗毛と呼ばれる、サラブレッドには珍しい毛色である。 

 ロイヤルハートは、三歳のデビュー戦から負け知らずの連戦連勝。四歳クラシック、有馬記念、春の天皇賞、宝塚記念……。出走するグレードⅠレースを総嘗め。来月行われる国際招待レース・ジャパンカップにも勝利は確実と太鼓判を押されていた。

 多くの歴代の名馬達には、輝かしい成績に相応しい渾名がついている。ハイセイコーは怪物君、テンポイントは貴公子、トウショウボーイは天馬、シンボリルドルフは皇帝。そしてロイヤルハートは、その美しい毛色と鮮やかな走りっぷりから「黄金の疾風」という名を与えられていた。

 当然の事ながら、断トツの一番人気。しかし、人気があるのは馬券だけではない。個人ファンも多く、後援会まである。今日も今日でロイヤルハートを応援する人々が、パドックに『世界にはばたけ ロイヤルハート』『シンザンを越えろ ロイヤルハート』などといったたれ幕を掲げていた。

「ほう、あれがロイヤルハートか。噂通りの綺麗な馬だな」

 人壁の中から河田は背伸びをしたが、それでも黄金の本命馬の姿を垣間見る程度である。すると突然、剣が彼の肩をぐいと掴んだ。

「社長、肩を貸して下さい。今日の目的は、あの馬なんですからね!」

「お前なぁ……。社長に向かって……」

 しかし剣は問答無用。屈めと言わんばかりに肩を押してくる。渋々河田はしゃがみ込むと、剣を肩車した。剣は決して重い方ではなかったが、さりとて河田も体格の良い方ではない。その肩に人間一人分の重みがずしりとかかってきた。

「おー、高い高い。やっぱこの方がずっと良く見えるわぁ!」

 河田の気持ちなど知らぬ剣は、子供のようにはしゃいでいた。が、どうした訳か喜びの声は萎み始めーーついには叫び声となった。

「社長、あの馬、変です!」

「変って……どれだ?」

「ロイヤルハートですよ! 良く分からないけど、何か変なんです。馬にしては……」

 河田は耳を疑った。ロイヤルハートは、何処から見ても非の打ち所のないサラブレッドだーー少なくともその肉眼が捕らえたところでは。

「えーい、邪魔だ邪魔だ! どけどけいっ!」

 河田の肩から飛び下りると、剣は念力を使って強引に人込みを掻き分けた。出来た道を前方へ向かってずしずし突き進む剣、その後を追う河田。剣の背中を見ながら、河田は苦笑した。剣は電車の中でも似たようなことをするのだ。七人座れる座席に五人の男性が目一杯陣取っていると、念力で無理やりスペースを開け、座ってしまう。「座り方が下手なんだよっ!」と小声で怒りながら。

 人の迷惑顧みず、剣と河田は最前列の特等場所へやって来た。十六頭の名馬達は皆一様に厩務員に引綱を取られ、パドックを回っている。首を弓なりに曲げて入れ込む馬もいれば、逆におとなしく引かれるがままにとぼとぼと歩いている馬もいる。けれどもロイヤルハートは、特に入れ込む様子も気合い落ちしている様子も見せず、踏み込む足も力強い。

「やっぱり変です。あの馬、やっぱり変です!」

 剣は声を大にして同じ事を繰り返した。周囲の敵意の視線が剣へ集中している。優勝確実のロイヤルハートにけちをつけるのか、と言わんばかりに。額に脂汗をかきつつ、河田は声が高いと注意したが、剣の耳には全く入っていなかった。

 そしてさらに悪い事に、問題の馬が剣達の前へやって来た。厩務員には剣の声が聞こえたようだ。反応したかのように引綱を握る手が僅かに動き、瞳が剣の方へ流れた。

 まずいと感じた河田が、他人の振りをしようと足を左へ一歩踏み出した瞬間だった。二人の心へ等しく同じ台詞が飛び込んできたのは。

 ーーあんたもそう思うかね?

 強力なテレパシーだった。念魔道士である二人は、強烈なものであれば一般人の発する心の叫びもキャッチできる。今の声の主はロイヤルハートの厩務員だったのだ。

 厩務員は馬の世話が仕事。担当馬を最もよく知る者だ。その厩務員が剣と同じ疑問を抱いている。河田は素早く剣に耳打ちした。

「阿比沼、こりゃお前の言う通り何かありそうだ。一つ調べてみるか?」

「ええ。でも相手はかの有名なスターホースですよ。勝手に調べる訳には行かないでしょう」

 怪訝な表情を浮かべる剣に、河田はにっと笑って見せた。

「心配するな。いい方法がある」

 河田は懐から取り出した自分の名刺に何やら書き込むと、掌に載せた。瞬時にして白い紙片は消え失せ、それとほぼ同時にロイヤルハート号の厩務員の胸ポケットに四角い張りができた。右手でオーケーサインを示す河田。

「後はあの厩務員次第だ。さて、折角来たんだからレースをみていくか?」

 剣は頷いた。問題の馬をもっと良く見ておきたかったのだ。

 レースは瞬く間に決着が付いた。「黄金の疾風」の走りはまさに風の如く。自らが作り出す風に棚引く銀色のたてがみと尾。細い四肢は軽やかに、けれども力強くターフを蹴る。十馬身近い、圧倒的な大差を後続の馬に付け、ロイヤルハートは先頭でゴール盤の前を通過した。

 人々の厚い声援を受けて、優勝馬表彰区画(ウィナーズサークル)に立つロイヤルハート。馬上から手を挙げ、誇らしげに歓声に応える騎手。満面の笑みを浮かべて紅白の引綱を取る調教師とオーナー。しかし、共に引綱を握る老練な厩務員の顔には、微かな影がさしていた。


 天皇賞から三日後。剣は会社の事務所へ呼び出された。

「何ですか、社長。昼寝の最中にいきなり念話で呼び出すなんて……」

 事務所へ飛び込んでくるなり、剣は社長席のデスクに拳を思い切り叩き付けた。しかし、社長席の河田は別に驚く様子も見せず、目の前に一通の手紙をぽんと投げ出した。

 剣は眉間に皺をよせつつ、白い封筒を手にとった。が、裏面を目にした途端、瞬時にして顔から不快な表情は追放された。

「茨城県稲敷郡美浦村……矢部一郎……? もしかして……」

 美浦村にはJRA(日本中央競馬会)の競走馬トレーニングーセンターがあり、中央競馬のレースに出走する関東馬は全てここへ集まっている。即ちーー

「そう。ロイヤルハートの厩務員だ」

 うっすらと笑みを浮かべて頷く河田。自分の作戦が功を奏し、さも得意げに。

 既に封が切られた封筒から、剣は中身を取り出し、広げた。手紙の内容は、達筆で流れるような見事な筆運びからは、想像もできないような深刻なものであったが。

「えーと、なになに……『前略 天万代表 河田港輔様…… 突然のお手紙、失礼致します。ロイヤルハート号の事に関し、御相談に乗って下さるとのこと……』」

 手紙の差出人・ロイヤルハート号の厩務員矢部一郎は、佐川厩舎に所属するベテラン厩務員。二年前、ロイヤルハート号が入厩して以来、ずっと世話をしている。

 ロイヤルハートはデビュー戦を皮切りに、勝ち続けた。結婚もせずひたすら馬と共に生きてきた矢部。しかし、グレードⅠレースに出走できるほどの馬を担当した経験は無かった。そんな矢部にとって、ロイヤルハートはまさに希望でもあり喜びでもあったのだ。

 矢部はロイヤルハートの側にいるだけで幸せだった。飼い葉つけ、ブラッシング、寝藁の交換。だがそんな幸福の日々も、ある事件をきっかけにして終りを迎えた。

 菊花賞をおよそ一月後に控えた、昨年の九月末。矢部は遠方で行われる姪の結婚式に参加するため、三日間の休暇を申し出た。それなら誰か他の者に世話をさせるから、と佐川調教師は快く承諾した。

 姪の結婚式も無事終り、矢部は飛んで帰るように厩舎へ戻った。しかしーー

『いつもなら近付いてくる私の足音を聞き付け、喜びの声を上げるロイヤルハートが黙り込んでいたのです……』

 馬の異常に気付いた矢部は、急いでロイヤルハートの馬房の前へ立った。しかし馬は耳を後ろへ伏せ、噛み付こうと身構えたのだ。たった三日居ないだけで自分の事を忘れてしまったのかーー矢部は激しい失望感に囚われた。

 忘れているのなら前のように世話をしてやれば思い出すだろうと、矢部は以前にも増して熱心に世話をした。だが、ロイヤルハートの態度に殆ど変化は見られなかった。攻撃を加えなくなったとはいえ、甘えるしぐさ一つ見せず、ただ悶々と矢部の世話を受けるだけ。かつての素直な性格は消え去り、見知らぬ者に対して蹴るといった悪癖もついてしまった。

 以来、ロイヤルハートは拍車をかけたかの如く更に強くなった。しかし矢部の心に喜びは戻らない。それどころか疑惑が渦巻いて行く一方である。

「『……何故ロイヤルハート号がこのように豹変してしまったのか。その事について調べて頂きたいのです。どうかお願い致します……』……か。どうします、社長」

 手紙を読み終えた剣は、社長席で腕を組む河田へ向かって問い掛けた。

「お前はどうなんだ、剣」

「そりゃ調べてみたいですけど……。大して請求出来ませんよ、この仕事。前回みたいに会社社長が相手じゃないんですから。有名馬の厩務員ですから、それなりに賞金ももらっているとは思いますけど」

「そんな事は分かっている。うちのモットーを忘れたわけじゃあるまいな」

 ああそうだっけ、と剣は舌を出した。金持ちからはふんだくるが、金の無い人や良心的な人物からは強制しないーーそれが天万のモットーだったのだ。だからいつまで経っても、帳簿から赤い字が消えないのだが……。

「さーてと、今回は動物絡みか。と、なると……」

「どんちゃんの出番ですね」

 剣が河田の言葉を引き継いだ。こくりと頷くと河田は受話器を取ろうとしたが、剣が窓の外を指差した。

「その必要はありませんよ」

 河田は社長席後方の窓の方を振り向いた。窓際に大きなカラスが一羽止まっている。窓を開けると、河田はカラスに向かって言った。

「おお、勘三郎か。良いところに来たな。すまんがお前の飼主をここへ連れてきてくれ」

 カア、と一声鳴くと、カラスは飛び去った。


 手紙が到着した日より一週間。河田は社用車を兼ねた自家用車を走らせ、茨城へ向かっていた。

 車内の後部座席には天万の社員が二人座っている。うち一人は剣。そしてもう一人は膝の上にカラスを乗せた、二十代半ばくらいの背の高い青年であった。体格はまあまあだが、両太腿は異常なまでに太く、全体的に見て些かアンバランスな感じもする。顔はというと剣とは対称的に細長く、不良青年のようなイメージは、一癖ありそうな印象を周囲に与えていた。

 青年の名前は倉坂曇人(くらさかどんと)一級(ロード・)生物術士(ビースト・マスター)の資格を持つ、国際魔道学院の卒業生の一人である。生き物を愛し、マウンテンバイクを走らせて山へ海へサイクリングを楽しむ好青年ーーと言えば聞こえは良いのだが、性格は顔に比例し、多少柄の悪いところは否めなかった。

「俺はドリトル先生に憧れて学院に入ったんだ」

 曇人は事ある度にそう言っていた。動物の言葉が喋れる医師、ドリトル先生。物語の中の人物ではあったが、曇人は強く引かれた。そして国際魔道学院の存在を知った時、迷うことなく生物術士過程を選んだのである。

 多くの学生とは違い、曇人は生き物の制御術よりも、会話術の方に何十倍もの関心をよせた。生物術士過程は自身の適性にぴったり合致していたのか、制御術の方もしっかり身に付け、めでたく一級資格を取得したのであるが……。

「剣、一級資格取得者の特例のせいで、俺もお前も酷い目に遭ったよな」

 流れ行く外の風景に目をやりつつ、曇人は呟いた。無言で頷く剣。またいつもの愚痴が始まったなと、河田はハンドルを握りつつ思ったが、口には出さない。

「私は念魔道士課程、あんたは生物術士過程を首席で卒業したからね。あの時点で断っておけば良かったよ、崙みたいに」

「全くだ。俺は文魔道士課程に行ったお陰で、とんだ恥曝しだ。あのくそ馬鹿野郎に散散いびられてな。その点お前はいいよな。修得もせずに一級資格を取ったんだから。本当にいいよなぁ」

 妙に間延びした上がり調子の語尾に、剣はかちんときたようだった。

「私だって失望したんだよ、召喚士のやり方に。連中、悪魔を奴隷ぐらいにしか考えていない。だから私は独自の方法で悪魔を友達にした。それを物好きな学長がーー」

「その辺で止めとけ」

 ついに堪り兼ねた河田が、愚痴合戦に終止符を打つべく言葉を発した。

「随分と贅沢な悩みだな。俺はともかく、そういうことは天本や樋口の前では言うなよ」

「あいつらは気にしちゃいませんよ」

 曇人は反論した。飼主の言葉に同調するかのように、膝の上のカラスが一声高く鳴く。

 曇人の相棒・勘三郎は、人間顔負けの知能を持つカラス。人間の言葉を解する事ができ、生物術士の曇人との間では当然会話も成立する。自分の立場やすべきことをきちんと弁えていて、いかなる場合も現状に適した行動を取るのだ。河田も勘三郎の賢さには舌を巻いており、「飼主よりも頭が良い」と広言しているほどである。さらに飼主思いとくれば、曇人の可愛がりようも知れたものだった。

 全く、この出来の悪い飼主には勿体ないわいーーなどと考えつつも、河田ははたとなった。左前方にゆっくりと回転する看板が見えたのだ。

「あの脳天気娘はそうかもしれんが、樋口はな……。あ、目的地が見えてきたぞ」

 河田の車が入って行ったのは、美浦トレーニングセンターにほど近い、国道百二十五号線沿いのファミリーレストランだった。建物一階の駐車場に車を止め、三人はその上にあるレストランへ向かった。

 レストランの入口には顔に深い皺を刻んだ、背広姿の年配の男性が立っている。河田と剣は男性に見覚えがあった。

「御依頼主の矢部さんですね?」

 河田は剣と曇人を後ろに控えさせ、入口に立つ男性ーー矢部に声をかけた。河田達は矢部とこのレストランで待合わせていたのである。

 ほぼ定刻ぴったりにやって来たこと、そして約束通りの姿をしていたことから、この三人こそ待侘びていた者達であるとさとった矢部は、深々と頭を下げた。

「はい。遠いところをわざわざ有り難うございます。詳しいことは中で」

 矢部は扉を押してレストランの中へ入った。三人も後に続く。礼儀を弁えた賢いカラスは、曇人が命令するまでもなく飼主の肩から離れ、建物の上で待機だ。

 席に着いて注文を済ませた後、矢部は話し始めた。話の内容の多くは手紙と重複しており、確認程度のものでしかなかった。そこで、河田は改めて問うた。

「何かその他に気付いたことはありませんか?」

「さあ……。あ、そう言えば……」

 首を捻っていた矢部は、急に何か思い出したかのように目を見開いた。

「実はオーナーの石渡さんと佐川さんとの間で……」

 ロイヤルハートの馬主・石渡は持馬がダービーを制覇した頃から、盛んに海外遠征の話を持ち出すようになった。海外遠征は、良い馬を持った者ならば誰もが憧れる。持馬が海外の大レースを制すれば、自分の懐に多額の優勝賞金が転がり込むばかりではなく、自身の知名度も飛躍的に上がるのだから。石渡は中堅どころの社長であり、ロイヤルハートに大いなる夢を託していたのだ。

 調教師の佐川も当初はその話に大いに乗り気だった。しかし、「事件」をきっかけに掌を返したように反対し出したのだ。「ロイヤルハートは海外遠征向きの馬ではない。その事は調教師である私が一番良く知っている」などと主張しては、石渡と激しく口論する有様。

「もっとも石渡さんは、今度のジャパンカップに優勝したら強引にでもこの話を進めようとしています。それからあと一つ……」

 矢部は話し続けた。定期検診やワクチン接種のために厩舎へ出入りする獣医師が変わったというのだ。新しくやって来るようになった獣医は、佐川の顔見知りであった。

「あと、他には?」

「ないですねぇ……。あ、そうそう、例の写真をお持ち致しました」

 待合わせの約束をした際、河田は「事件」前と後とのロイヤルハートの写真を持参するよう、矢部に頼んだのである。

「……これが皐月賞の時のもの。こちらがダービー、あと菊花賞と……」

一枚一枚、丁寧に矢部は写真を並べていった。しかし、写真で見る限りは「事件」前と後、全く変わりがない。だが、唯一の相違点を曇人が見付けた。

「尾についている、赤いリボンみたいなものは何ですか?」

 なるほど、良く見るとダービーではついていなかった赤い布が、事件後ーー菊花賞以降では銀色の尾の上部についている。

「ああ、これですか。手紙にも書きましたように、あれ以来ロイヤルハートには蹴り癖がついてしまいましてね。近付くと危険だぞ、という意味でこれをつけるんです。そういう取決めになっておりまして」

 競馬好きの河田と剣は無論この布の意味を知っており、うんうんと頷いていた。ちなみに噛む癖のある馬には、たてがみに同様の布をつける、と剣は小声で曇人に教授した。

「佐川さんが知らない人がきたら危険だから絶対外すなってうるさいんですよ。ですから洗ってやる時もつけたままです。で……他には?」

「他の馬の様子は? 何か怯えた様子はありませんか?」

 剣の質問に、矢部は首を横に振った。

「いいえ、特には。ただ、隣の馬房のグレートサンダー号とは結構仲が良かったのに、やはりあれ以来なんか冷めていますね」

 実はこの時点で剣は、ある推測を立てていた。しかし、自身の考えを立証するための裏付けに乏しく、曇人や矢部の協力が必要だった。

 そこで剣は矢部にさとられないよう、自分の意思をテレパシーで河田へ伝えた。了解したと目で伝える河田。河田は写真を纏めつつ言った。

「矢部さん、我々をロイヤルハートに直接会わせてはくれませんか?」

「し……しかし……。関係者以外は立ち入り禁止ですよ、厩舎内は」

 とんでもない、という様子で首を振る矢部に、河田は少々意地の悪い笑みを浮かべた。

「ええ、分かっています。ですから夜中にこっそり会いに行きたいんです。御心配なく、入る手段はあります。トレーニングセンター内の地図は持っていますか? 佐川厩舎の場所を教えて下さい。御都合が宜しければ、今夜にでも伺います」

 呆然とする矢部は知らなかった。河田と剣がテレポートできるということを。矢部は黙って地図を広げ始めた。


 その日の真夜中、午前一時。美浦トレーニングセンター内を走る三つの影があった。河田、剣、そして曇人の三人である。うまくトレーニングセンター内へテレポート侵入できたのではあるが、見知らぬ地であり、目的の場所より些か離れた所へ着いてしまったのだ。よって地図を頼りに歩いていかなければならなかった。

「社長、やっぱり俺はあの佐川っていう調教師がくさいと思いますよ」

 背中のリュックに入った相棒に気を配りつつ、曇人が先頭を行く河田に囁いた。

「俺もそう思う。しかし、奴を尋問するわけにはいかんだろう。そういう事は樋口が専門だし、第一樋口は嫌がる。だからお前に直接ロイヤルハートに聞き出して貰いたいんだ」

「わっかりましたぁ!」

 が、慌てて最後尾をいく剣が、後ろから曇人の口を押さえた。

「どんちゃん、声が大きい! 誰かに見付かるぞ!」

「うがががが……」

 目を白黒刺せて唸る曇人。河田は指を口元へ持って行ったが、顔は吹き出す寸前だった。

 漫才に近いやり取りを交わしつつ、三人は直に問題の佐川厩舎へ到着した。厩舎の入口で三人を待っていた矢部はまさか本当に来るとは思っていなかったのか、驚きの表情を抑え切れない。

「一体どうやってここまでいらしたんですか?」

「我々は世間一般の人々が非現実的だと考えている『手段』を行使する事ができます。その力を用いれば、何てことはありませんよ。さて、ここにいる当社の社員・倉坂は」

 落ち着き払った態度で答えた後、河田は曇人を前へ出した。

「信じられないでしょうが、動物の言葉が分かります。今から彼にロイヤルハートと話しをさせます。で、問題の馬はどこにいますか?」

 矢部は半信半疑であったが、曇人の「任せなさーい」という自信満々の台詞と勢いに押されて、三人を厩舎の中へ案内した。

 馬達は音に極めて敏感。眠っていても人の足音を聞き付け、すぐに起きてしまう。曇人は馬房を通過する度に、低い声で一言馬達にかけていった。「悪い悪い。起こしてすまないな」と謝っているのだ。安心して再び眠りにつく馬達。矢部にしてみれば、全く信じ難い光景だった。

 ロイヤルハートの馬房は厩舎の一番奥に位置していた。既に問題の馬は目を覚ましている。ロイヤルハートの前へ立つと、曇人はおほんと咳払いをして「馬の」言葉で話し掛けた。アクセントや音の高低に至るまで、まさに馬の声そのもの。声だけではなく動作も真似ているようで、鼻を鳴らしたり、体を振るわせたりしている。動物の会話はジェスチャーも重要なのだ。

 しかし、幾ら曇人が熱心に話し掛けても、ロイヤルハートは何の反応も示さない。耳を前方へ動かし、目線も曇人にきっちりと定められている。聞こうと言う態度はあるのだ。つまりーー通じていないのである。

「そ……そんな馬鹿なぁ……。何故だぁ……」

 頭を抱えて曇人は蹲ってしまった。一級生物術士のプライドが音を立てて崩れていく。もっとも剣と河田は、納得したように頷く合っていたが。

 けれども、曇人の実力は直にすぐ側から聞こえて来た、彼自身にしか理解できない台詞によって立証された。

〈うるせぇなぁ、こんな夜中に。おい、馬の言葉が喋れるあんちゃん。そいつにいくら話し掛けたって無駄だぜ〉

 隣の馬房から細長い顔を突き出し、曇人達を見詰める者がいる。額に見事な星のついた、栗毛の牡馬だった。ロイヤルハートとは異なり、顔には大した品位が感じられない。顔付きと口調からして、柄の悪さは曇人といい勝負であろう。

 すっくと立ち上がると、曇人はその馬に視線を向けた。

〈お前、もしかしてグレートサンダーか?〉

 すると栗毛の馬はぶるるっと鼻を鳴らした。質問を肯定する時に見せる態度である。曇人は続けて質問した。

〈何でロイヤルハートにはお前等の言葉が通じないんだ? 同じ馬だろう?〉

 グレートサンダーは、今度は首を振った。ばさばさとたてがみが宙を切る音が静かな厩舎内に微かに響く。不貞腐れているのだ。

〈知るか! 昔はこれでも俺のいいダチだったんだぜ。それがあの時から……けっ!〉

〈それっていつのことだ? 何がロイヤルハートにあったんだ? 話してくれよ〉

〈さーてなぁ……。あれはやっと涼しくなってきた頃だったっけ……〉

 グレートサンダーは語り始めた。問題の事件が起きたのは、グレートサンダーの話から推測して、恐らく秋の初め頃だっと思われる。真夜中、突然ロイヤルハートの悲鳴が熟睡していたグレートサンダーの耳を劈いた。体を引き裂かれるような、強烈な苦痛を伴った声である。

 グレートサンダーは跳ね起き、驚いてどうしたものかと親友に尋ねた。しかし、返事がない。馬柵棒から顔を出したが、この時親友の馬房の前に見知らぬ人間が一人、立っていることに初めて気付いた。

 レーダーのような馬達の耳をかいくぐり、どうやって厩舎内へ潜入したのか。グレートサンダーには理解出来なかった。疑問を感じたのは無論彼だけではない。異変に気付いて目を覚ました他の馬達も、皆謎の人間の方へ視線を集中させていた。

 だぶだぶの裾の長い服を着た者の顔は、辛うじて男性だと判別できる程度で、殆ど布で隠されていて分からなかった。ただ厩舎内の馬は、男の体から立ち上ぼる正体不明の未知なる力を感じとっていた。また、身に付けている服からは香しいような、されど妙な匂いがしたという。

 やがて厩舎の入口の方から、慌ただしい人の足音と声が聞こえて来た。すると、人の接近に気付いた奇妙な男の姿は、まるでかき消すように瞬時にして消えてしまったのだ。驚く馬達。驚愕のあまり棒立ちする者すらいたほどだ。

 男の姿が消えた直後、厩舎の人々が続々とロイヤルハートの馬房の前へ集まった来た。厩務員、佐川調教師、調教助手。馬房を覗き、そして中へ入った者達の驚きの悲鳴が厩舎内を駆け抜けた。

 厩舎内は真夜中にもかかわらず、騒然となった。我に返ったグレートサンダーは、改めてロイヤルハートの身を案じ、人間達の話し声に懸命に耳を傾けた。人間の言葉は分からない。ただ、ただならぬ雰囲気に親友の身に何か良くない事が起こったのはわかった。

 数分が経過し、佐川調教師が決心したかのようにロイヤルハートの馬房の前から立ち去ろうとした時だった。再びあの謎の男が姿を現したのだ。ただし、今度はきちん足音を立て、厩舎の入口から堂々と入って来た。

 やがて男は佐川等と何やら話し始めた。言葉の要所にはロイヤルハートという言葉が出てきた。ロイヤルハートのことについて話し合っているのは間違いのない事実。が、グレートサンダーはその様子をただ傍観していることしか出来なかった。

 男と佐川等の話が終わると、厩舎の馬全てが厩舎の外へ連れ出された。だがーー

〈でもよ、確かにしたんだぜ。あの変な野郎の服からしたのと同じ匂いが、厩舎の方からよ〉

 そしてその直後、明りが消されたはずの厩舎が一瞬ぱっと明るくなりーーぴしっという鋭い金属音が耳へ届いた。同時にグレートサイダーの体に悪寒が走った。理由も分からぬ恐怖が彼を襲ったのだ。

 馬房へ戻されたグレートサンダーは、すぐにロイヤルハートへ声を掛けた。彼の親友は馬房から元気な顔を覗かせた。グレートサンダーは安堵したもののーー

〈奴の様子がおかしいのは、すぐにわかった。幾ら俺が話し掛けても、むっつりを決め込んでいる。姿も匂いも同じだ。でも、同じ馬にはとても見えんかった……〉

〈そうか。ありがとうよ〉

 曇人が礼を言うと、グレートサンダーは再び眠りにつくため馬房の奥へ引っ込んだ。

「……というわけなんだ」

 曇人は河田や剣、そして矢部にグレートサンダーから聞き出した事をつぶさに報告した。グレートサンダーの言う「事件」と、矢部の言う「事件」の時期は一致する。この二つの事件が同じものであるのは間違いない。

「なるほど、これで全てわかった。私の考えていた通りだ」

 剣は独り大きく頷いた。そして河田も。曇人は細部までとは行かなくても、見当はついたようだ。

「……ていうと、『あの』術か?」

「その通り、どんちゃん。さて、今度は『何故』こんな事になったのか、当人から聞き出さなくっちゃ。そう、ロイヤルハートから」

 今度は剣がロイヤルハートの前に立った。剣の唇が震え出し、メロディーを紡ぎ始めた。人外で一番の「友人」が教えてくれた歌の一つ。大原の孫を救出した際にも歌ったが、今のは違う。戦歌では無く、鎮魂歌にも似た静かで寂しげなメロディーを持つものだったのだ。

 馬の言葉すら理解できないロイヤルハートだったが、剣の歌は違った。小さな、しかし心を打つ声が精神を揺さぶったのだ。耳をしっかりと立て、ロイヤルハートは剣をじっと見詰めている。遠い故郷の歌を聞くかの如く。曇り一つ無い、澄み切った黒い瞳に、無心に歌う剣の姿が映し出されている。

 ついにロイヤルハートは剣に顔を擦り寄せたーーまるで飼主に甘える子猫のように。全てを話す決心をしたのだ。


 翌日の夕方。馬房までやってきた佐川調教師は、目を見張った。ロイヤルハートの馬房の前に、矢部の他に三人の人物がいたからだ。中年の男と、若い男女が一人ずつ。どれも見知らぬ顔ばかり。部外者である。

 矢部に注意を促し、一声かけて三人を追い出そうと佐川は考えた。が、行動に出る前に相手ーー中年の男が口を開いた。

「こんにちは、佐川さん。突然で恐縮ですが、ロイヤルハートの件で是非ともお話ししたいことがあります」

「君、人の厩舎に無断で入り込んでーー」

「宜しいですね?」

 口調は極めて穏やかだが、目付きは鷹のごとく鋭く、敵意すら見える。有無を言わせ態度とはまさにこのこと。取り敢えず、話を聞くだけ聞いてみようーーと、不安にかられつつも佐川は男の側まで歩み寄って行った。

 佐川を前にして男は軽く会釈しが、所詮は儀礼的な挨拶でしかなかった。攻撃的な様子が、台詞に乗って端々に現れる。

「どうも始めまして。私は合名会社天万の代表で、河田と申します。昨年十月一日の夜に起こった事件について、確認及び質問をさせて頂きます。その事はうちの社員から」

 河田が下がると、変わって少年のような娘ーー剣が佐川の前へ出た。河田以上の鋭い視線を向けながら。

「佐川さん、最悪の事態を恐れたとはいえ、とんでもないことをしてくれましたね。死んだ馬に悪魔を憑かせるなんて」

「な、何を言い出すんだ……」

 口では否定をしていても、佐川の態度は剣の台詞を肯定してしまっている。震える唇。額を伝う汗……。

「そう。あの夜のことです。『本物』のロイヤルハートが死んだあの夜」

 矢部が美浦を発った日の夜。ロイヤルハートの急死を知って駆け付けた佐川等は、馬房の前で不気味な男に出くわした。男は言った。取引をしないか、と。自分の提示する条件を飲むのであれば、ロイヤルハートを生き返らせても良いというのだ。

 夜の最後の見回りの時まで、ロイヤルハートは何の異常もきたしてはいなかった。健康管理に落度はなかったはず。しかし、否応でも責任追及の手は伸びてくる。石渡に知られたら一体何と言われることか。

 見知らぬ、うさん臭い男の言う事などとても信じられなかった。が、藁にも縋りたい気持ちを抑えることは出来ず、結局佐川は申出を受けることにした。

 男の正体は魔道士だった。悪魔を召喚する能力を持っており、怪しげな儀式が執り行なわれた。魔法陣が描かれた布を床に敷き、魔道士は布を取り囲むようにして香を焚き始める。グレートサンダーが嗅ぎ付けた匂いは、この香の匂いであったのだ。悪魔召喚の儀式の際に用いる独特の香の匂いが、男の服に染み付いていたのである。

 そして男は呪文を唱え始めた。詠唱が終わるとほぼ同時に、魔法陣の上に不気味な悪魔が姿を現した。男の命令に従い、悪魔はロイヤルハートの骸へ入り込んだ。こうして悪魔がとり憑いた死霊馬が出来上がったのである。悪魔の力を得たロイヤルハートは無敵の優駿となった。

 死霊馬ロイヤルハートは、馬の縫いぐるみを被った悪魔である。されど見た目は普通の馬と変わりがない。体温、心泊数等にも異常は見られず、餌も食べれば排泄もする。馬の肉体に包まれているため、悪魔の気配も殆ど外へ漏れない。他の馬も警戒しない。もっとも悪魔の気配にすこぶる敏感な剣は、「何となく」程度ではあったものの気付いたが……。

「しかしあなたは恐れた。ロイヤルハートが採血される事を」

 真実を告げる矢が佐川の心へぐさりと突き刺さった。同時に顔からすっと血の気が引いていく。

 ロイヤルハートの正体が発覚しないようにするため、佐川は手を打たなければならなかった。レース後に行われる尿検査は、カフェイン等の薬物の摘発が目的で行われるため、さして問題にはならない。

 一番の問題は血液検査であった。見た目の機能は正常でも、一度死んだ馬である。生理的異常が摘発される可能性は極めて高い。血球数などの異常がきっかけで、精密検査でも行われたらーーと佐川は恐れた。

 そして事件を機に、出入りしている獣医師は変わった。佐川の知り合いの者ならば、検査結果を幾らでもごまかす事ができる。他の健康な馬の血液とすり替えることさえ可能だろう。

「でも、相手が動物検疫所の獣医では、そうもいかないでしょう」

 佐川にとって最大の危機は、海外遠征であった。馬が外国へ行く場合、どうしても輸出検疫を受けなければならない。検疫を受ける馬は、必ず採血をされる。そしてその採血は、動物検疫所の獣医が行うのだ。

 佐川の影響も動物検疫所までは及ばない。かりに血液をすり替えるなりして何とかクリアしても、今度は輸出先ーー相手国の輸入検疫が待っている。異国の地の外国人検疫官相手では、日本で使えた手も通用しまい。

 海外遠征終了後の外国の輸出検疫。さらに日本へ戻った際の輸入検疫。計四回の検疫をクリアする事など、不可能に近い……。

「やむを得なかったとは言え、あなたは死者を冒涜した。そんなことが許されると思いますか。ロイヤルハートは成仏できません」

 剣は河田に昔聞いた話をふと思い出した。国際魔道学院が創立された当時、死人術士(ネクロマンサー)課程というコースがあったという。しかし、二代目学長である現学長がそれを廃止した。「死者の魂や亡骸を弄ぶなど人の道に背くことだ」と言って。

「私は思います。恐らくその魔道士がロイヤルハートを殺した張本人でしょう。あなたも薄々感付いていたとは思いますが。そしてそいつが一番悪い。人の弱みに付け込んだんですから。それでそいつは何者です?」

 剣は多少口調を穏やかにして訪ねたが、佐川は首を横に振ることしか出来なかった。

「分からない……名前は言わなかった。ただ、とんでもない力を持っていたようだ。自分は嵐を起こす事もできると自慢していたし、事実奴が呪文のようなものを唱えると、小さな竜巻が厩舎内に起こった……」

「そいつは文魔道士だ! 召喚士と文魔道士の資格を持つ奴なんて……」

 突然曇人は声をあげたが、具体名をあげる前に河田の無言の圧力に気付き、慌てて口を窄めた。剣が厩舎の周辺に決界を張り巡らせているため、声が外へ漏れる心配はない。自分の独断と偏見に満ちた考えを軽々しく口にするなーーと、河田は言いたかったのだ。曇人が良く知っている人物以外にも、犯人ーー該当者は幾らでもいるのだから。

 「文魔道士でもあり、召喚士でもある」魔道士が出した条件。それはロイヤルハートが勝つ度に調教師が受けとる賞金の一部を差し出せ、というものだった。魔道士が指定した支払い方法は、奇妙そのもの。約束の額を厩舎の神棚の上に置いておくと、何時の間にかなくなっているのだ。相手に自分の正体を掴ませないような周到なやり方。魔道士はかなりのしたたか者と見える。

「佐川さん、ロイヤルハートのためにも、悪魔を元の世界に帰してやりましょう。悪魔だって強引に漂慰させられたんです。彼は帰りたがっているんですよ」

 剣が合図をすると、矢部は馬柵棒を取り外してロイヤルハートをーーいや、悪魔の憑依したロイヤルハートを馬房の外へ出した。まるで決意したかのような顔をして。

「やめてくれ! そんな事をしたら、俺の努力は全てーー」

 引綱を奪わんと佐川は矢部に飛び掛かろうとした。しかし、曇人のリュックから飛び出した黒い影が、それを阻んだ。勘三郎が佐川の顔に覆い被さるように躍りかかったのだ。

「申し訳ないが、ここは諦めろや。おい勘三郎、もういいぞ」

 蹲る佐川の顔から離れて、勘三郎は飼主の肩へ止まった。相手の動きが止まったことを確かめると、剣はすかさず行動に出た。

「悪魔をこの体に閉じ込めている、錠前の役目をしているもの。それはーーこれだ!」

 剣は胸ポケットのポインターペンを伸ばすと、馬の尾に付けられた赤い布をぴしりと打った。はらりと落ちる布。布の内側には、文魔道士が好んで用いるとされる魔法文字がびっしりと刻まれていた。

 同時にロイヤルハートの背が不自然に盛り上がり、瘤となった箇所から黒い生き物が飛び出した。姿も大きさも狼に似た、黒い剛毛に包まれた悪魔。燕のような身軽さでひらりと床へ降りると、悪魔は矢部の方をじっと見詰めた。まるで穴でも開けるかの如く。

「ファー、ヴィンドル!」

 剣は呼び掛けの声と共にポンイターペンを床へ投げ付けた。悪魔は低い声で一声唸ると、床に突き刺さったポインターペンの軸へ吸い込まれて行った。

「矢部さん、ロイヤルハートの側から離れて下さい!」

 渾身の力で叫ぶと、河田は抜け殻のようになった矢部にタックルし、馬の側から離した。

「見ちゃ駄目だ!」

 矢部に注意を促しつつも、曇人も悪魔の出現に怯える勘三郎を抱えて目を逸らした。剣も曇人に従った。河田は矢部の目を手で覆いつつ、自身も目をつぶる。

「ロイヤルハート……?」

 ふらふらと立ち上がった佐川は、ロイヤルハートの頭絡を掴もうと手を伸ばした。手の上にぼとりと落ちる馬の左目。次いでもう片方の目が落ち、腹の皮がしまりなく弛み始めた。弛んだ皮はついには破れ、腐った臓器を床一面に撒き散らした。首が、背が、頭が腐臭を放ちながら赤黒く変色した肉を滴らせ、崩れて行く。ものの十数秒で馬は骨格だけとなり、粉々の白い固体が床にばら蒔かれた。悪魔のいなくなったロイヤルハートの肉体は時間を一気に取り戻し、本来の姿へ返ったのである。

 馬の肉体が腐り果てていく過程の一部始終見ていた佐川は、急に声をあげて笑い出した。おかしくてたまらいといった風に。無論、楽しくて笑っているのではない。ホラー映画よりもリアルで恐ろしい場面に精神が耐え切れず、気がふれてしまったのだ。

 今や骨片となったロイヤルハート。歯が苛めから解放された矢部は飛び散る骨の側で膝を折った。そっと頭骨の破片に手を伸ばし、撫でてやる。かつてそうしてやったように。しかし今その手に込められているのは、堪え難い悲しみだった。

「これで……これで良いんだ。ロイヤルハートは死んだんだ……」

 目から溢れ出た大粒の涙が矢部の頬を伝って行く。男泣きに泣く彼の肩に、剣はそっと手を置いた。

「あの悪魔は最後に言っていましたよ。『世話になった』ってね」

 果たして剣の言葉が慰めになったかどうかは分からない。矢部は何も答えず、愛しい馬のために涙するだけだった。


「しかし、いいんですかねぇ」

 秋の天皇賞から約一月。天万の事務所へ届けられた一つの小包を手にしつつ、剣は社長席の河田と来客用のソファーの上で寝転がっている曇人を見回した。

「とても請求書は出せんかったなぁ、今回は。ただ働きは覚悟のうえだったが……受け取っておこう。矢部さんの好意だ」

 河田が答えると、剣も曇人も軽く頷いた。

 矢部はロイヤルハートの豹変の原因を突き止め、かつてのような馬に戻してもらいたかったはずである。だが、今回の依頼は悲劇によって幕を閉じた。まさに依頼人にとっては最悪の結果であり、解決したとはとても言い難い。河田が余計なことに首を突っ込まなければ、矢部は死霊馬の正体に気付くこと無くロイヤルハートと共に日々過ごせただろう。もっとも胸に抱いた疑問と不信感は、永遠に消える事はなかっただろうが……。

 矢部の心情を考慮し、河田は仕事料の事は一言も告げずに立ち去った。しかし、矢部から事務所へ届けられた小包の中には「仕事料」として百万円の郵便為替が入っていたのだ。

 しかも小包の中に収められていたのは為替だけではなかった。ロイヤルハートがダービーに勝った時の記念写真のパネル。そして同じくダービー出走時につけていたアルミ製の勝負鉄。ダービーは「生きていた」ロイヤルハートが走った最後のレースである。その大事な記念品をわざわざ矢部は河田らへ送って来たのだ。

『お陰でロイヤルハートも成仏することができました……』

 同封してあった紙には、矢部の感謝の心が述べられていた。贈物に自身の気持ちを託したのである。

 河田は矢部からの贈物ーーパネルと蹄鉄を「社宝」として天万の事務所に飾ることにした。蹄鉄は穴の開いた方を上にして飾ると幸運が舞い込んでくると言うーーお(まじな)いの一種のようなものだが。

「しかし……ロイヤルハートを殺した魔道士は一体誰だろうな」

 河田の問い掛けに、剣と曇人は互いのしかめっ面をぶつけ合った。

「剣ぃ。俺よ、あの野郎の事思い出しちまった」

「私も。でも、あの程度の下級悪魔なら二級・三級の召喚士でも十分に扱えるよ。ただ、嵐を起こすほどの文魔道士となると、一級のそれしか考えられないけど。もっとも、脅しの意味で佐川調教師に嘘を言った可能性もあるぞ」

 ふと、剣の脳裏に一人の男の姿が過った。曇人が言った「あの野郎」。一級文魔道士と一級召喚士の資格を持つ、国際魔道学院の優等生。今はどうしているのだろうか……。

「まあ、それは機会があったら調べることにしよう。それにしても今回は分校長のお陰で助かった。下手すれば俺達は犯罪者だからな」

 ふっと溜め息をつき、河田は汗を拭った。剣も河田の一言で我に返る。

 ロイヤルハートの「突然死」について、当然の事ながらJRAは勿論警察の突っ込みさえあることが懸念された。が、事は思いのほかあっさりと処理されたのだ。この件に卒業生が関わっていることを密かに知った国際魔道学院日本分校校長・黒墨太司(すみぐろふとし)が動いたのである。国際魔道学院は各法人・政府機関等の裏側に対し、絶大なる影響力を及ぼす事が出来る。分校長ともなれば、事件の一つや二つ揉み消すことなど、造作もない。

 分校長の「差金」のかいあって、追及の手が天万へ伸びることはなかった。そしてロイヤルハートの死因は心不全と発表されたのである。希代の名馬の突然死は世間及びマスコミを大いに騒がせた。死体は早急に「荼毘」にふされ、遺骨は多くの人が見守る中、故郷の牧場へ送られたという……。

 しかし、最後の見送りの列の中に佐川調教師の姿はなかった。彼は今、精神病棟にいる。回復の見込みは全く立っていない。たとえ回復しても、学院から回された精神術士(マインドテクニシャン)が佐川から記憶を奪ってしまうだろうーー他の佐川厩舎の関係者にそうしたように。事件の真相を知るのは矢部一人だけ。事が漏れる恐れはないのだ。

 そして矢部はーー

「矢部さんはロイヤルハートの生産牧場に再就職したそうだなぁ」

 勘三郎にリンゴを与えつつ、曇人は嬉しそうに言った。矢部の最後の希望が適ったことに、三人は静かな喜びを感じていたのである。

 矢部はJRAを退職し、愛しい馬の眠る北の大地へと旅立って行った。余生をロイヤルハートの側で過ごすために。

 剣は送られたパネルを手にとっていた。パネルの中の矢部は、溢れんばかりの笑みをたたえている。紅白の引綱を握る彼の誇らしげで幸せそうな表情は、一月前の天皇賞の時には見られないものだった。

「矢部さん、元気でやっているだろうか……」

 剣がふとこぼした時、河田がテレビのスイッチを入れた。今日は十一月の第四日曜日。ジャパンカップ当日である。テレビには先頭でゴールを駆け抜ける鹿毛の馬が映し出された。アナウンサーの声が響く。

「日本のハローウェイ、強豪外国勢を退け、ジャパンカップを制しました!」

 鹿毛のはずの優勝馬。しかしその姿がぼやけ、尾花栗毛の優駿に見えたのは剣だけではなかった。

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